神霊領域の襲撃
通路を何度か曲がり、出口に近づいて来ると、外の空気の匂いを感じられた。凍てついた石壁の匂い以外の、生きている森の匂いだ。
三叉路にある壁画に目を向け、もう一度そこに描かれているものを確認したが、邪悪な竜が女神を呑み込もうとしている、という認識に変わりはなかった。
そしてここに描かれているものが、封神器に封じられていた魔神龍を描こうとしているのだとしても、到底あの巨大な竜の姿を描き出しているとはいいがたいものだ。
俺は壁画に背を向けると、出口に向かって歩き出した。灯明の魔法よりも明るい光が、通路の先から差し込んでいるのが見える。
灯明の魔法を消し、外に向かって歩き続ける。打ち倒された石の扉を踏み越えて。視線の先には日差しを浴びている森が見えていた。
やっと外に出られる。
そこでやっと生還した喜びと、強大な力を持つ魔神と戦い、勝利したという実感が湧いてきた。
「さて、これからどこへ行こうか」
そんな事を呟きながら、山の中にある神殿から外に足を踏み出した──その瞬間。
眩しい光が降り注いだ。
洞窟の外に出た瞬間に、強烈な光が俺の視覚を奪った。
暗がりから明るい外に出た為に、慣れない光に目が眩んだのだ。そう思った。──思いたかった。
目を閉じて目元を手で覆い、外にある森を見ようと目を開くと、景色が一変していた。
そこに森は無く、広々とした草原が広がっていたのだ。
「ばかな……」
一瞬、白昼夢を見ているのかと疑った。
だが俺の意識ははっきりとしている。
また幽世に侵入してしまったのかと考え、周囲を用心深く見回すが、周囲はどこまでも広々とした平野が広がっていた。
そこには悪意ある気配もなく、穢れた空気もない。むしろ澄んだ清廉な空気が漂っていた。ここは、幽世などの異界ではない。
(この感じ……覚えがある)
そう思った時、俺は嫌な想像が頭をよぎるのを感じた。
俺はここがどこか、理解している。
そして、この場に招かれたのだという事がどういう事なのかも、漠然と理解していた。
「神霊領域……!」
なんの異変も感じず、高次元領域に引きずり込まれるとは!
そんな真似ができるのは、おそらく……
「神々の手の者か」
しかもこの領域では、魔神の力が封じられてしまう。さらに死導者の力からも遠ざけられており、幽鬼兵を喚び出す事もできないようだ。
(まずいな)
俺は冷静を装っていたが、自分が陥っている状況に焦りを感じていた。まさかこちらの力の大半を封じられ、神霊領域での戦いを挑まれるとは。
この領域では属性魔法の効果も弱まるだろう。光体の力のみが有効な手段となりそうだ。──今の俺が顕現できる光体で戦える相手だといいのだが。
俺は魔神の短剣を抜きながら、この魔法の短剣に掛けられた魔法の力は残っているのを確認する。
刃に光体を乗せる準備をし、いつでも応戦できる心構えをしておく。
相手は上位存在だ。
それも俺を狙って自分の領域に誘い込んでいる。確実にここで俺を仕止めるつもりなのだ。
(そう簡単にいくかよ)
俺は目を閉じ心の奥底で闘争心を滾らせる。
しかし、相手はなかなか姿を現さない。
静寂だけがここにはある。風も吹かない、奇妙な世界。
神聖な力が周囲を取り囲み、異物である俺をじっと見つめているようだった。
なにかを感じ取り、俺は空を見上げた。
そこには青空が広がり、雲すら存在しない。
じっと空を見ていると、銀色に輝く星がキラリと光を放った。
一瞬──一瞬で、その光が降ってきた。
その光はあっと言う間に地上に降り立ち、俺から三十歩ほど離れた場所で浮いていた。
それは人の姿をしていた。
白い肌の、痩せ細った老人の体をしたもの。
顔は子供の物で、その顔にはまるで幸福を体現したかのような笑みを浮かべている。
頭の上に白い輝きを放つ小さな輪っかを載せ、背中から銀色に輝く蜻蛉の翅に似た物が生え、翅の筋を青い光が走っている。
不気味な「天使」の襲来だ。
神を信仰する者がこの存在を目にしたら、その笑顔を見て「にこやかに微笑む天使」だと言うかもしれないが、俺の目から見ればこの天使は、「にやにやとした笑みを浮かべている気味の悪い天使」という印象だった。
餓死寸前と思しき老体に、若々しい少年らしい子供の顔。病弱そうな白い肌。
それが宙に浮きながら、目を閉じた状態でこちらを見て、薄ら笑いを浮かべている。
俺は魔神の短剣を構え、いつでも光体を乗せて攻撃する準備をした。
神々の狙いは、魔神ディス=タシュの欠片だろう。だがそうであっても、天上の存在が人間を相手に刺客を送り込んでくるという暴挙に出てきた。
以前奴らは自然現象を装って俺を狙ってきたが、今回は魔神の欠片を手にした俺を、直接排除しようと企んだらしい。
魔神と接触している俺を排除すると同時に、ディス=タシュの欠片を回収するという、二つの問題を一挙に解決する魂胆なのだろう。
離れた場所に浮遊する相手から殺意は感じないが、上位存在特有の異質な気配に、危険な気配が宿っているように感じる。
「なにしに来た?」
俺は試しに問いかけてみた。応えを期待した訳じゃない。相手の反応を窺おうと考えたのだ。
天使はこちらの問いには答えず、肘を胴につけた状態で両腕を広げた。
体の横で手を広げると、奴の頭に載った光輪が金色の発光を放った。一瞬で見えなかったが、その金色の光は突然上空に現れ、天使の白い輪に溶け込んだようだった。
子供の顔に不気味な笑顔を張り付けたまま、そいつの頭上にあった光輪が金色に輝き、そしてその輪っかが一回り大きくなった。
それは今では銀色に輝く輪となり、その天使の格が一段引き上げられたような印象を与えた。
そう感じたのにはもう一つ理由がある。
天使の翅が大きくなり、その姿形を変えたのだ。
それは蚯蚓に似た動きで、上下にうねうねと蠢いた。もはやそれは翅ではなく、二本の大きな蚯蚓か蛇を思わせる形状をし、銀色に輝く液化した金属へと変わっていた。
口元に笑みを湛えた天使は、浮遊した状態でゆっくりと迫ってくる。
背中から伸びていた液体金属の翅が胴体から離れ、天使の周囲を回転し始めた。
体から分離した液体が輪の形を取って回転し、ゆらゆらと上下に揺れながら細い輪っかに分裂し、五本の細い輪が天使の足下から頭部に向かって上下運動をして、天使の周囲を循環している。
その内の一本が鋭い勢いで、俺めがけて伸びてきた。
先端部が丸い棒のようになった物が一直線に飛んできて、俺の胸を突こうとする。
その金属を斜め後ろに回転しながら回避し、手にした短剣に光体の力を乗せて斬りつけた。
液体金属に刃が食い込むと、金属の棒がたわみ、ぐにゃりと曲がったそれが、す──っと天使の広げた手の上に戻っていき、金属の球体に変じた。
異様な天使は、翅から金属の武器を作り出し、それで俺を攻撃してきた。その金属の棒を斬りつけたが、光体の力を受け流し、刃の一撃をも受け止めてしまった。
攻撃した手に残った感触は、軟らかく、それでいて重い物体を斬った感触だった。木の枝からぶら下がった鎖を斬ったら、このような感触になるのかもしれない。
天使が作り出した物は、簡単に切断できる代物ではなさそうだ。
しかもそれは伸縮し、思う以上に速い動きを見せてくる。
天使は両手に金属の球体を作り出し、ゆっくりとした動きで俺に接近してきた。
威圧的な気配がある訳ではなく、ただその動きには決定的な圧力があった。問答無用で相手を排除しようとする動き。
神々からの刺客が言葉も発さずに、ただ実力行使でもって人間を排除しようと迫っている。
それを迎え撃つ俺の心に湧き立つものがあった。
力を封じられた状況で、危険な刺客を相手にする。しかしそれは、逆に考えれば好機でもある。
神々の送り込んできた力を撥ね除け、さらにはその力を簒奪する事も可能かもしれない。
天使にとって都合のいい神霊領域といっても、この天使が物質界に近いこの次元で、どれだけ力が振るえるか疑問だ。
現にこの天使は、液化した金属の様な物による、物理的な攻撃手段しか仕掛けてきていない。
魔法と呼べる力のすべてが、この液体金属に注ぎ込まれているらしい。
「バシィッ」
薙ぎ払われた天使の武器が鞭の様にしなり、横に避けた俺の肩を、変則的な動きで打ちつけた。
伸ばされた金属が波打ったのを見て斜め前に回避したのだが、弾かれるように動いた金属の先端が、肩を後ろから殴打したのだ。
「くっ」
波打つ液体金属の武器には、こちらの魔法障壁などを掻い潜る力も備わっているらしい。魔晶盾で物理的な打撃を防いだつもりだったが、敵の一撃は俺の背後に回り込み、右肩に強い衝撃を打ってきた。
続けざまに左から打ち下ろされた金属の鞭を横に跳んで回避し、右手でしっかりと剣を握りなおす。
幸い右肩への損害は軽度で、金属の肩当てが変形するような事もなかった。
思った以上に厄介な相手だ。
この天使の武器は変則的な動きで、軌道が読み取りづらく、反応して攻撃を回避するのが難しい。
戦いの勘だけでなんとか躱している状態だ。このままでは相手に接近する事もできない。なんとか一撃を見舞ってやろうと踏み込んだが、こちらの攻撃が届く前に、左右からの鋭い攻撃が繰り出され、間合いを離されてしまう。
「ちぃっ」
後方に跳び、そこから光体の刃を乗せた攻魔斬のような斬撃を撃ち出す。
かなりの速さで飛翔した斬撃だったが、天使の手から伸びた金属の鞭によって打ち砕かれてしまった。
こうなれば相手の攻撃を躱し、思い切って間合いを詰めるしかない。
魔力の弾丸を飛ばす「魔法の矢」と呼ばれる基礎魔法で牽制し、敵の動きを見極める事にした。
十発近い魔法の矢を撃ち出すと、左右の液体金属が天使の正面で回転し、次々に光弾を打ち落としていく。
その防御を突破した二発の光弾が天使の胴体を捉えたが、天使の周辺に張られた光体波動の防壁によって消滅した。──やはり魔法攻撃だけで天使を傷つけるのは厳しそうだ。
今度は魔力の刃を放つ攻撃魔法を縦横に放つと同時に、疾駆で一気に間合いを詰め、光体の刃による物理攻撃を天使に見舞う。
魔法の斬撃を打ち落とした天使に接近すると、すぐに左右の金属が反撃に移り、俺を打ち据えようとしてきたが、それを瞬時に回避し、さらに疾駆で天使の眼前に迫ると、手にした魔神の短剣を振り下ろす。
その一瞬、天使の周囲を回転していた三本の細い金属の輪が集まり、振り下ろされた光体の刃を受け止めた。
光を纏った高速回転する三本の輪が、振り下ろされた光の刃を弾き返す。
光体の力を受け流し、さらには短剣による攻撃も退けてしまう。
天使の周囲を回転する金属の防御を突破する事はできず、俺は天使の反撃を受けて、再び敵から離れるしかなかった。




