ディオダルキスと「復讐者の神」
レファルタ教会の騎士が、人外の存在になる過去の話。
邪悪とは、人間の心の奥底に潜んでいる。
ディオダルキスは教会つきの騎士団で、若いながら活躍していた。彼は貴族としての家督も捨て、神と教会にすべてを捧げる覚悟で尽くしていた。
彼は教会に仕える神官の娘と結婚し、新設された騎士団の団長に任命されると、妻と共に、レファルタ教にとってまだ未開の地である、異国の辺境に移動する事になった。彼はその指令を受け、レファルタ教が受け入れられていない国に建てられた、小さな教会と、その周辺にある町を守護する、大きな役目を引き受けたのだ。
彼はそこでも、教会の威信を守る為に懸命に働いた。その国の民を守り、布教する毎日。
そうして一年近くが経った頃に、その国は戦争になだれ込んだ。この時代は大陸中で戦乱が巻き起こる、そんな荒れた時代だった。
彼らは教会の拠点があったベグレザ国から離れた、北国の国境に教会を建てていたが、その教会がある町が侵略を受けたのだ。彼らは数の上で圧倒的に勝る軍勢に襲撃され、中立を唱えている教会の立場も受け入れられずに、軍勢の蹂躙を受けたのである。
兵士たちは殺され、その家族も凌辱、殺害されるという事態になった。
ディオダルキスは死力を振り絞りながら戦い続け、その戦いの中で神に願った。どうか私の仲間を守り、家族をお救いくださいと。
だが、彼の祈りは聞き入れられなかった。
彼は唯一の家族である妻の前で、数々の敵兵に押さえつけられ、目の前で最愛の妻を凌辱された。
彼は力を振り絞り抗おうとしたが、もはや剣を握る力も失っていたのだ。
彼は絶叫した。
「神よ! なぜ我らを見捨てるのか! このような蛮行を赦し、何故あなたを愛する者を見捨てるのか!」
兵士たちは優越感に歪んだ醜い薄ら笑いを浮かべ、怒り狂うディオダルキスを押さえ込む。彼はなす術なく、妻が慰み者にされるさまを見せつけられ、血涙を流しながら叫び続ける。
『力なき者よ』
喚くなと殴りつけられ、意識を失いかけた彼に呼びかける者があった。
歪んだ視野の片隅に浮かぶ、ぼんやりと暗い光を放つ闇が広がっていく。
周囲の様子が変化し、兵士たちの動きがゆっくりと見える。
『力を求めるか?』
その声はどこかから聞こえるが、彼は兵士たちに押さえつけられて、周囲を見回す事さえできない。
怒り、憎しみ、そういった感情が膨れ上がるのを感じると共に、自分の上に乗った兵士たちの重みがさらに増大する。
「ぐあぁあぁっ……!」
痛みを感じるとそれが憎しみへと変わり、体の内側からどす黒い炎が燻り、燃え広がる。
『神はお前を捨てた。お前も神を捨て我に従え、さすれば我が力を与え、その無力さの絶望から救い出してやろう』
その声が闇の中から聞こえてきた、灰色や朱色に揺れる闇の中から現れたのは、奇怪な衣装に身を包んだ男。
口元は革の拘束具で塞がれ、鎖の付いた鉄の首輪を付けられている。真っ赤に燃える炎のように輝く眼を持ち、白い髪の毛もぼんやりと光を放っているように見えた。
腕や体には黒い革の拘束具がぐるぐる巻きに巻き付けられ、それらを留める金具の代わりに、鉄の釘や杭が打ち付けられている。その姿は拷問された者であると思われた。肩からも胸からも大きな釘や杭のような物が突き出ており、足には拷問器具が足を挟み込んでいるのが分かった。
無表情の男がディオダルキスを見下ろしながら、もう一度『力を求めるか?』と訴えてきた。
憎しみは強烈な殺意に変わっていた。もはや彼個人の理性ではどうにもならないほど、怒りや絶望に苛まれ、彼の魂は生きながらに、地獄の業火に焼かれていたのだ。
彼は言葉を発するよりも先に、体の中に流れ込む力の漲りを感じ始めた。
『我は復讐者の神なり』
その魔神はそう宣言し、拘束された手を小さく払った。ディオダルキスを押さえつける兵士たちが、斬撃と衝撃波でズタズタに引き裂かれる。
突然、細切れに切断されて飛び散った兵士たち。その下から起き上がったのは──血に塗れた剣士。
彼は猛獣の眼球のように変化した眼を、爛々と殺意に輝かせ、兵士が持っていた剣を掴むと、妻を凌辱する兵士らに猛然と襲いかかった。
「ゥオオォオオオオッ‼」
憎しみを込めた剣が振られると、兵士たちは胴体を切断されるほどの凄まじい一撃を喰らい、内臓をぶちまけながら吹き飛び、死んでいく。
剣を次々に振り下ろしながら、彼は兵士たちの体から遊離する魂を喰らい続けた。大きく息を吸い込むみたいに死者の魂を口から飲み込む。
ディオダルキスだった者は、殺した兵士の魂を喰らい、どんどん力を増幅させていった。
数百の兵士によって構成された軍勢は、この復讐の剣士によって、魔神の力を与えられた魔人によって壊滅させられた。体中に傷を負いながらも、決して倒れる事のない戦士。
生き延びた者も居たかもしれないが、逃げる兵士を負い駆けて次々に殺し続けた。容赦など欠片もない。
取り込んだ魂の力で無限に活動する剣士は、あらゆる者を生かしてはおかないという、強烈な殺意に取り憑かれ、兵士だろうと民間人だろうと、構わずに殺していった。
人間のすべてが憎いとでも言うように。
一晩中暴れ回った彼は──朝日を浴びてやっと、その狂乱状態から立ち戻ると、血まみれの剣を放り投げ、妻の元に向かった。
辺りは一面の深紅。
流血の中に倒れた妻は──とうの昔に息絶えていた。
冷たくなった妻の体を抱きしめながら、彼は絶望と理性が混濁する中で、慟哭の叫びを上げた。山嶺の陰から日の光が射す、白む空に向かって怒りの咆哮を上げたのである。
「ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉっ‼ 神よ! 俺は貴様を許しはしない! 永遠に憎み続ける! 呪われよ! 残虐なる者どもの創造主よ‼」
* * *
その絶望、怒り、憎しみ、殺意、そうしたものが俺の中に流れ込んでくる。強烈な思念が俺の中に現実的な感覚をもって蘇ってきた。
あくまで客観的に、離れた場所から記憶を見ていたのにもかかわらず、強力な思念の伝播によって、俺の霊体にあらゆる負の感情が流れ込む。まるで俺に倒されたあの剣士が、未だに復讐に取り憑かれ、俺の身体を奪おうとしているかのようだ。
「ぅぐぅっ……! 凄まじい怨念──! これを今まで抑え込んでいたのか、ディオダルキスは……!」
俺との戦いに臨んでいた時は、そうした殺意は微塵も感じなかった。もしかすると死に場所を求めていたのか? あるいは神を呪う魂を俺に分け与え、俺を「復讐者の神」とやらの僕にでも迎えるつもりだったのか。
「いずれにしても奴は消滅し、その主である復讐者の神と名乗った魔神も、ベルニエゥロから粛正されているはずだ」
あの剣士が、レファルタ教の信仰者の成れの果てだったとは──予想外だ。神に縋り、捨てられた者の怨嗟。その憎しみは凄まじく、まさに憎悪の塊と化していた騎士。
数々の戦士たちの魂を喰らい続け、彼は狂気を孕んだ化け物として存在していたのだ。見た目は人間と大差ない姿形をしていたが──その力、押し隠した神への強烈な憎しみ、そうしたものが彼を狂気と、人間的な理性の狭間で生かしていたのではないか。
百年以上もの間、消え去らぬ憎しみの炎に身を焼かれ、魔神の僕と成り果てて、数々の戦いを繰り広げてきたのだ。ディオダルキスは魔神に隷属する戦士として幽世と現世を彷徨い、数々の戦場に参加したらしい。
時には人間同士の戦争に加わり、時に魔神と邪神の戦いに参加して戦った。
復讐者の神とやらはベルニエゥロ配下だが、その主と同様に、気ままに活動していたようだ。不気味な姿の魔神が神への復讐者としてベルニエゥロに従い、いつか神への復讐を成し遂げようと考えていたのだろうか。
「……何故、あの魔神は俺を狙ってきたのだろうか」
ディオダルキスの記憶から剣術や槍術など、戦いに関する技術を引き出しながら考える。
やはり俺を配下にする気だったのだろうか。ディオダルキスには俺の「殺害」を命じていたみたいだが、その辺りの事は記憶から読み取る事ができない。魔神に関する部分になると、情報の多くが抜き取られているように不鮮明になる。
やはり神々の領域への干渉には、彼らと同質の霊質を持たなければならないのだろうか。いくら強大な魔力を手に入れたとしても、人にはその神域とでも言うべき場所には近づく事もできないのだ。
俺は一定の作業を終えながら、哀れな剣士に同情的な気持ちになった。
レファルタ教教会の為に戦い、あらゆるものを奪われた男。魔神の誘惑を受けて魔人と化し、長い争乱と憎しみに囚われた男。
神を信じ、神に裏切られた男に、いったいなんの落ち度があったと言うのだろう。──神などというものを信じたのが落ち度であった、というならばそのとおりだ──戦場となった地に残され、部下も家族も殺された彼の怒りや憎しみ。……それらは人間が生み出したものだ。
己の無力さを突きつけられたところに差し出された救いの手が、神のものではなく、魔神のものだったというだけだ。神に仕える騎士だからと、その魔神の手を払い除ける者が居るだろうか? 大切なものを奪われたからこそ、彼は自らの信念を曲げてまで、復讐者となったのだ。それを責める事など──誰ができるというのだ。
あの男が味わった屈辱や絶望──それを考えると、魔人として人間たちを次々に殺害して回った怒りや狂気が、唯一あの男の理性を保たせる行動だったのではと思わせた。
絶望は人を狂わせる。
長い安寧が人の心を弱らせ、腐らせるのと違い、それは一瞬で訪れる。絶望は一瞬で人を変質させる。狂気の中に墜ちた魂は、人とは呼べない者として生まれ変わるのだ。
この非人間的な存在を作り出すのは、魔神ではない──人間が作り出すのだ。人間の心の奥底にある深淵から這い上がってきて、人間を邪悪で無慈悲な行動に駆り立てる本性。それを解き放った者によって、それ以上の邪悪が世に誕生するのである。
ディオダルキスの人生は魔神によって奪われたのではない、人間によって奪われたのだ。心ない人間の矮小な欲望によって。
彼の怒りが俺の中に数々の火を灯す。
人間への怒り、教会への怒り、神への怒り、──己への怒り。
その燃え盛ろうとする炎を一つ一つ摘んでいく、そうした火種を放置しておく訳にはいかない。
教会守護騎士の怨念は封じておく、それ自体が消えてなくなる事はないだろう。彼の滅びと共に消滅した感情、それが俺の中に写しとして燻り続ける。
それをある領域で保管しよう。
彼の無念がやがて力になるだろう、そんな予感があった。人間への、人類への強烈な憎しみ、神への憎悪。そうした思念を利用して、己を奮い立たせる事もあろう。怒りで己の正気を保つなどという事も、場合によってはあり得る。この古い時代に生きた騎士がそうであったように。
次話は日曜日に投稿します。




