番外編④ 守りたいもの(ミミ)
性暴力についての描写があります。
ご注意ください。
私の視界はいつだって赤に染められています。
耳元で揺れるリボンの赤。空を染める朝焼けの赤。カップに注ぐ紅茶の赤。執務室の絨毯の赤。そして、一日の終わりを告げる夕焼けの赤です。
どれもかけがえのない大好きな色。ですが、嫌いな赤もあります。何年経っても忘れられない、パパとママから流れる赤です。
私は、移民でした。行商人だったパパとママに連れられて、ルクセン中を旅していました。その途中で、ヒト種の野党に襲われたんです。そういえば、彼らの両目も、血走って赤くなっていた気がします。
……あのときのことは、今も夢で見ます。私を守るために命を投げ出したパパとママ。その横で、私は口に出せない酷いことをされました。自分が女だということを後悔するような酷いことをです。
ピグ兄ちゃんに拾われて、今のルビィ村に腰を落ち着けてもなお、男の人が怖かった。私を気遣ってくれる兄ちゃんに、随分と酷い言葉を吐いた気もします。けれど、兄ちゃんはそんな私の心を少しずつ癒してくれました。
そのうちに、他の兄ちゃんたちとも気安く話せるようになって、そろそろ女としての自分を認めてもいいかなと思えるようになった頃、シエル様たちが村にやって来ました。
まさか、あんなに若い人がご領主様とは誰も思いませんでしたから、他所から流れて来た移民か犯罪者の類だろうと兄ちゃんたちが言いました。食料の蓄えはまだある。ここを立ち去るまで、地下に避難してやり過ごそうとも。
まだ子供の私に拒否権はありません。薄暗くて冷たい地下に身を潜めている間、本当に怖かったです。女性が一人いたので、同じ目には遭わないはずと自分に言い聞かせつつも、しきりにあの悪夢が蘇ってきて、居ても立っても居られませんでした。
本当にいけないことをしたと思っています。シエル様が慈悲深い人でなければ、私たちは不敬罪で殺されていました。
守りたいと思ったはずの兄ちゃんたちを窮地に陥らせたことで、私はようやく悪夢から目が覚めました。こんなことじゃいけない。私はもっと強くならないといけない。あえて無邪気を装ってシエル様に着いて行ったのは、馬鹿な自分を変えるためでもありました。
アルマさん……私の永遠の先生。アルマさんのおかげで、私は女中に相応しい教養と所作を身につけられました。美しさは言葉に出る。仕事を早く覚えたければ、普段から丁寧に話しなさいというのは、一番初めにアルマさんに教えてもらったことです。
とはいえ、元は自由気ままに生きていた移民です。元来の性格も相まって、口調が崩れることが多々ありますが、それは目を瞑ってください。
アルマさんだって、ちょいちょい瞑ってくれていましたよね。気づいていましたよ。私を生徒じゃなくて妹みたいに思っていること。私だって、アルマさんをお姉さんみたいに見ていましたからね。おあいこです。
グランディールに居る人たちは、みんな優しい人たちです。私を獣人だと蔑むこともなく、平等に接してくれます。他所で傷つけられてきた人たちだからかもしれませんね。ピグ兄ちゃんたちも、ここに来てよかったなあって何度も言ってるんですよ。
だからこそ、苦しかった。クラーケンが襲って来たとき、何も貢献できなかったことが。
私は強い力を持つ首狩り兎の獣人です。なのに、戦う術を知らないが故に、みんながグランディールを守るために立ち向かっていくのを、ただ眺めることしかできませんでした。
パパとママの二の舞は嫌。私もグランディールを守りたい。そんな強い気持ちが芽生えた頃、ネーベルさんが自警団長に就任しました。
領内の掲示板に貼られた自警団員募集の紙を見て、これだと思いました。私はまだ子供です。今から鍛えれば、男の人にも負けない力を手に入れられるかもしれません。
胸に灯った火の勢いのままに、女中の仕事も疎かにしないとアルマさんを説得して、私は自警団員に志願したのです。
……ですが、すぐに理想と現実は違うと思い知らされました。体を鍛えるのは難なくこなせても、私、ネーベルさんに立ち向かえなかったんです。
「どうしましタ? 地面に縫い止められたように固まっテ。戦場で動きを止めたら待つのは死だけデスヨ」
ネーベルさんの両眼を彩る赤。野党たちと同じ、私よりも遥かに強い男の人。ただ、その場に立っているだけで汗が吹き出してきます。これが殺気と言うのでしょうか。ネーベルさんが発する不穏な気配に、棒を持つ手が震えているのが自分でもわかりました。
「アナタの過去は存じていまス。ワタシが怖いデスカ? あのクズ共と同じ男デ、圧倒的な力を持つワタシガ」
私が野党にされた酷いことはシエル様にも言っていないのに……。ピグ兄ちゃんたちが話すとも思えませんし、どうもネーベルさんは自警団員一人一人について調べ尽くしているようでした。
幸いだったのは、補講で周りに誰もいなかったことでしょうか。もしかしたら、ネーベルさんなりに気を遣ってくれたのかもしれません。他の人には塩対応ですけど、子供だからか、私には比較的優しくしてくれますから。
「痛かったデスカ。無理やり体をこじ開けられテ、泣いても喚いても好き放題揺さぶられテ。さぞかし尊厳が全て打ち砕かれた気分だったでショウネ」
次々にぶつけられる無慈悲な言葉。何も言えずに俯いて唇を噛みしめている私に、ネーベルさんは小さくため息をつき、ボソボソと呟くように言いました。
「……ワタシは男デスけド、同じ痛みを知っていますヨ」
はっと息を飲み、顔を上げてネーベルさんを見つめます。ネーベルさんの瞳は、いつの間にか濃紺色に戻っていました。
「外野は好き勝手言いますけどネ。実に馬鹿馬鹿しいことデス。あんなモノで、アナタの価値が損なわれるワケがありませン。憐れみは必要なイ。アナタはたダ、まっすぐ立っていればいいのデス。何かを守りたいなラ、常に胸を張るコト。それが戦闘員の矜持というものデスヨ」
そのとき、真っ赤な夕焼けがネーベルさんを照らしました。黒いローブがまだらに染まり、まるで昼と夜が交錯しているように見えます。
私を見つめる宵闇のような瞳。ネーベルさんは過去を乗り越えるのにどれだけの時間を有したのでしょう。ネーベルさんみたいに強くなれば、私も誰かを支えられる時が来るでしょうか。
両手で棒を握りしめ、私はまっすぐに背を伸ばしました。答えはただ、一つだけです。私は出来のいい生徒ですからね。
「はい!」
パパ、ママ、見ていますか? 私はいい先生たちに恵まれました。いずれ必ず、グランディールのみんなを守ってみせます。
精霊界にまで届く勝鬨を上げますから、楽しみにしていてください!
***
「あー! また負けた!」
シスさんが羽を大きく広げて地面に横たわります。その隣では、クルトさんも力なく座り込んでいました。
シスさんは風色隼の鳥人、クルトさんは雪大蛇の血を引くヒト種の魔法紋師です。二人とも、私より歳上ですが、私と同じ自警団兎組の同僚たちです。
三人一組で仕事をするので、こうして訓練も一緒にします。相手の癖を知っておかないと、咄嗟のときに動けませんからね。目指すは阿吽の呼吸です。阿吽が何かはわかりませんけど。
「もう、この領地でミミに敵う奴はいないんじゃないか? 魔竜の逆鱗だって貫いちまうんだもんな」
「そんなことないです。まだロイさんやネーベルさんがいますもん。それに、魔竜を倒せたのはみんなで力を合わせたからでしょ?」
持参した水筒から注いだササラスカティーを渡すと、シスさんたちは嬉しそうに笑いました。「本当に気が利くよな」「そうだね。女中としても一流だね」なんて口々に褒め称えながら。
二人とも、私を妹みたいに思っている節があり、蝶よ花よといった具合に優しくしてくれます。これで兄ちゃんは何人目でしょう。モテる女は困りますね。
この間も二人に女中の仕事を手伝ってもらっていたら、サーラさんに「本当に強くなったよね……。色んな意味で……」と言われました。
「でもさ、あの二人は規格外だからな。倒そうなんて思うなよ。ピグさんが泣くぜ」
「そうだよ。ミミはもう充分強いよ。無理しちゃダメだからね」
与えられる優しい言葉。まるで蜂蜜のようです。けれど、それに甘えていてはいけません。私に必要なものは、まっすぐに立ち続ける強さ。誰かを支え、守り抜く強さです。それが戦闘員としての矜持ですから。
「嫌です。私は誰よりも強くなりたいんです。もう二度と、大切なものを奪われないために」
そう返すと、二人は私を眩しそうに見ました。それはまるで、空を染める朝焼けを見ているようでもありました。
「どうしましタ? まだ休憩と言った覚えはありませんけド」
黒いローブを着た男性が近づいて来ました。ネーベルさんです。シスさんたちが慌てて立ち上がります。
元々熱心に鍛えてくれましたが、帝都から戻ってからは、より一層私たちを鍛えてくれるようになりました。軍人さんだったことには驚きましたが、あの強さを見ると当然といった感じです。
「ネーベルさん! 特訓に付き合ってください!」
「オヤオヤ、やる気満々デスネエ。今日こそはワタシのローブを汚せるといいデスネ」
言い終わる前にネーベルさんが赤い鞭を繰り出します。それをすんでのところで躱しながら、私は鬨の声を上げました。
これからグランディールに何が起きても、全ての困難を打ち返せるように。
いつも明るく笑っている人ほど、辛い過去を抱えているものです。ミミの無邪気は本人の性格によるところも大きいですが、努めてそうしている部分もあったりします。
サーラにはいらないちょっかいを出すネーベルですが、ミミとは良い師弟関係を築いているようです。
次回はレーゲン。彼の医者としての矜持をご覧ください。




