番外編① 僕のカミサマ(シエル)
僕のカミサマは夜を溶かしたような黒髪黒目で、時折どこか遠くを見つめる眼差しが印象的だった。
子供の頃はよく「何を見てるの?」と無邪気に問いかけたものだ。言外に「僕を見てよ」と感情を潜ませて。エルフの血を引けなかった僕に目を向けることはないとわかっていたのに。
母さんは、いわゆる苦労人だった。五十年前のモルガン戦争で荒廃したままの領地を、早世した両親から受け継ぎ、女手一つで弟を育て上げ、婿に送り出した。
確か……二十六歳だったかな。出会った頃のサーラと同い歳だね。
まだ二十代のみそらとはいえ、当時の貴族の結婚適齢期はとうに過ぎている。そのまま荒れた領地と心中する覚悟を固めたとき、出会ったのがハウエル・ブリュンヒルデ――父さんだった。
父さんは当時四百歳を超えていたけど、健気に一人生きる母さんに一目惚れして、普段では絶対に口にしない口説き文句を連発した挙句、周囲の反対を押し切ってグランディールに何度も通い詰め、半ば粘り勝ち状態で結婚したらしい。
僕からすれば、あの父さんがそこまでするなんて、かなり愛している証拠だと思うけど、母さんはそう思わなかったみたいだ。
今思うと、幸せを受け入れるのが怖かったのかもしれない。自己評価が低いのも災いしたんだろうね。僕が物心ついた頃には、すでに心が不安定になっていて、鬱々とした不安を口に出すのが常だった。
父さんも悪いんだよ。結婚前はあれだけ口説いていたのに、結婚した途端に無口になっちゃうんだからさ。僕なら絶対にそんなことしないね。というかしてない。シェーラには毎日愛を囁いてるよ。
おっと、話が脱線したね。ともあれ、母さんは罪悪感を抱いていた。エルフの息子を持てなかった父さんに、一番遅く生まれたのに真っ先に死んでいく僕に。
家族の中で、僕はかなり異質な存在だった。エルフの見た目なのに、寿命はヒト並み。まあ、魔力はそれなりにあったけど、それでもエルフには遠く及ばない。
父さんは不器用なりに可愛がってくれたと思う。
でも、兄さんや姉さんからすれば、僕はすぐに死ぬ小動物みたいなもの。虐められるのも仕方なしって感じだよね。直接的な暴力はなかったものの、常に見下されていたし、家族扱いはしてもらえなった。
ひょっとしたら、死んだときに悲しいから距離をとりたかったのかもって、今ならわかるけど……。当時の僕には、兄さんたちはただただ怖い存在だった。特にエイシア姉さんにはよく泣かされたしね。
あの日もそうだった。後継ぎの可能性なんて欠片もない僕のために、苦労して家庭教師を見つけてくれた父さんや、僕を憐れむことなく親身に勉強を教えてくれる先生の期待に添えない自分が嫌で、僕は一人自習室で泣いていた。
すると、珍しく母さんが顔を出したんだ。窓から差し込む月明かりに照らされた黒髪がとても綺麗で、思わず見惚れちゃった。
母さんは僕の泣き顔を見つめたまま、たっぷり数分は黙ると、ぼそぼそと呟くように言った。
「……何か食べる?」
「食べる……」
咄嗟に返した一言に、母さんは一瞬だけ驚いた顔をして、そのまま部屋を出て行った。慌てて後を追いかけると、向かった先は屋敷の台所だった。
ブリュンヒルデ家は千年続く公爵家。お金は唸るほどある。グランディールに来て、初めて夜は暗いんだって思ったもん。
台所にも、当時は最新式の魔機がたくさんあった。料理人の邪魔になるから、普段は立ち入り禁止だったけど。
物珍しげにきょろきょろ見渡す僕に構わず、母さんはまっすぐに冷蔵庫に向かって行った。中からライスを取り出し、手慣れた様子で魔石レンジで温める。たぶん、今までもこっそり使ってたんだろうな。グランディールでは全部自分でやってたみたいだから。
僕の背丈よりも少し高いぐらいの調理台の上に並んだのは、温め直したライス、醤油、鰹節、ごま油。そのときは何を作ろうとしているのかわからなかったけど、僕のために作ってくれるんだって事実に胸が熱くなった。
おずおずとスカートを掴んで身を寄せる僕を、母さんは振り払わなかった。少しだけ泣きそうな顔をして、ライスに鰹節と醤油を混ぜ込んで、そのまま握り始めた。どんどん完成する綺麗な三角を見て、まるで魔法みたいだって思ったことを覚えている。
熱したフライパンにごま油を垂らしておにぎりを乗せたときの、あの香ばしい香りときたら……。何年経っても忘れられないよ。
完成した焼きおにぎりを頬張る僕を、母さんはなんとも言えない顔で見つめていた。怖がっているような、戸惑っているような……。まるで壊れ物に触れてもいいか悩んでいるみたいな表情だった。
でも、僕にはわかったよ。僕のこと、ちゃんと愛してくれてたんだよね。僕はれっきとした、母さんの息子だった。
「おいしい。母さん、おいしいよ」
そう何度も言う僕に、母さんは小さく笑った。初めて見る、優しい笑顔だった。
「あなたの先生に教えてもらったの。ロステム風焼きおにぎり……だそうよ」
「……また作ってくれる?」
母さんは何も言わなかった。それでも、僕は十分だった。たとえ短い時間でも、この幸せを享受できるならそれでよかったんだ。
……それが、永遠に失われるとは思わなかった。
「カミサマ、シエルをエルフにしてください。どうか、どうか……」
ボサボサの黒髪を振り乱し、壁に向かって祈り続ける。母さんの黒目には何が見えてるのかな。少なくとも、僕には母さんの望むカミサマは見えないんだけど。
エルネア教団の司祭が漏らした不用意な一言のせいで、母さんは完全に心のバランスを失ってしまった。さすがの姉さんも僕に同情するぐらいだからね。よっぽどひどい状態だったってこと。
「回復する見込みはないのか?」
「こればかりはわかりません。心の病……と申しますが、実のところ脳の病気です。我々にできることは、薬を処方し、見守ることだけ……」
父さんとお医者様の間で連日繰り返される不毛な会話。この頃にはルビィ先生も契約を満了してブリュンヒルデ家を離れていたから、僕の味方はロイしかいなかった。
……どう例えたらいいんだろうね。母さんが亡くなるまでの数年間、屋敷は管理のなっていない火薬庫みたいだった。いつ何がきっかけで大爆発するかわからない――そんな空気を孕んでいた。
だから……。だから、僕の愚かな一言で母さんは……。自分から……。
……。
サーラたちは、僕は何も悪くないって言ってくれたけど……。今でも思うんだ。あのとき、僕が母さんから希望を奪わなければ、明るく笑い合う未来もあったのかなって。
……叶わない夢だけどね。
***
「どうしたの、シエル。ぼうっとして」
サーラが顔を覗き込む。ここは……領主館の執務室? ぼんやりとした視界の中で、肩で切り揃えた黒髪がさらりと揺れた。どうやら夢を見ていたみたいだ。残酷なほどに優しくて、切ない夢を。
「ごめん。休憩しようとソファに座って、そのまま寝ちゃってた。仕事の手を止めちゃったね」
「それはいいけど……。疲れてるんじゃない? 子育てって大変でしょ。夜泣きとかもあるっていうし。今はすやすや寝てるけど」
声を顰めたサーラが僕のお腹に乗ったおチビを恐々と覗き込む。相変わらず子供が怖いみたいだ。
そうだね、と相槌を打ちながら、シェーラに似た亜麻色の髪を撫でる。どんな夢を見てるのかな。シェーンと名付けた息子は、むにゃむにゃと不明瞭な言葉を呟いたあと、幸せそうに笑った。
「昨日、興奮してあまり眠れなかったみたいだからね。サーラおばちゃんに会える! って」
「おば……いや、まあ間違ってないけど」
サーラが傷ついたような顔をする。年齢を気にするようになったのは、恋人ができたからかな。ロイと特別な関係になってから、サーラは綺麗になったと思う。出会った頃よりも遥かに。
――初めて顔を合わせたときは本当に驚いたな。先生と同じ格好をして、母さんに似た女の人があっという間に熊を倒しちゃうんだもん。カミサマ嫌いの僕も、これが聖女様の力なんだって密かに感動したりした。
半ば騙して契約して、魔属性に取り憑かれたデュラハンに向かわせて、ルビィ村では囮にしたりしたけど、サーラは僕のそばにいてくれた。今になってわかるよ。僕はたぶんサーラを試してたんだろうな。どこまで許してくれるのかなって。
本当に最低だよね。言い訳すると、あのときの僕はグランディールを守ることで頭がいっぱいだったんだ。黙ってカミサマの元に行った母さんに対する怒りもあったんだと思う。
でも……。ハリスさんが来た晩、泣いたサーラを見てようやくわかったんだ。ああ、この人は母さんじゃない。ちゃんと血の通った人間なんだ。僕はどんなときでも、それを忘れちゃいけない。二度と混同しちゃいけないんだって。
サーラは僕の予想以上によく働いてくれて、人工魔石なんていうとんでもないものまで開発してくれた。おかげでグランディールを守れたし、こうして今も何とか領主をやれているんだ。
僕は、サーラを雇えて本当に幸運だった。ルビィ先生と母さんが引き合わせてくれたと思うのは、考えすぎかな。
「なあに、にこにこして。いいことでもあったの?」
サーラが嬉しそうに僕を見る。随分と素直に感情を表してくれるようになったよね。僕のこと、大切に想ってくれる証拠かな。それがとても嬉しいよ。
ねえ、僕のカミサマ。僕はエルフにはなれなかったけど、今の自分に満足しているんだ。
いつかそっちに行ったら、今度はちゃんと話を聞いてよね。
約束だよ。
シエルと母親の思い出を深掘りしてみました。
実は領主館で食べた焼きおにぎりは2回目だったんですね。
次回はサーラとの関係に悩むロイのお話です。




