77話 新しい年の始まり(朝日が眩しい)
「そこまで!」
その場の空気を吹き飛ばすような、凛とした声が響き渡った。亜麻色の髪に黒縁の眼鏡――シェーラだ。
そばには険しい顔をしたシエルもいる。気づけば夜明けが近づいていた。新たな年が始まったのだ。
「本日より、アマルディはリッカより独立し、新しく公国となります。グランディールは我が国とルクセンを結ぶ唯一の同盟国。わたくしの夫の領地を荒らすものは許しませんわよ!」
それに呼応するように、空から飛竜便が舞い降り、ノワルさんが客室から飛び出してきた。右手に皇室の紋章付きの書類を掲げている。
「新公国との同盟締結と、人工魔石の開発はルクセン・ラスタ双方の発展に寄与することになる。この功績により、シエル・グランディールは公爵位を賜り、グランディールは皇帝認可の特別領となる旨、帝国議会の承認が下りた! シエル公に正式に領地を引き継ぐと、ブリュンヒルデ公の直筆サインもある。よって、これ以上は領地侵害に当たる。至急、退去を命じます!」
イスカが力なく項垂れた。その背後でアルが呆然としている。シエルに肩を借りたロイが、歩くのももどかしそうにこちらに近づいてきた。シェーラやミミたちも。
「サーラ!」
「サーラ様!」
「サーラさん!」
全員から全力で抱きしめられて息ができない。宥めるようにそれぞれの背中を撫で、努めて笑顔を浮かべる。
「大丈夫。大丈夫よ。ちょっと力を使いすぎただけ。それより、パールが……」
声に涙が滲んだとき、飛竜から男性が一人降りてきた。シエルを老けさせたような見た目――夢の中で見た姿だ。多少ふらつきはしているものの、足取りはしっかりしている。聖女様が力を貸してくれたのか。
「父上……」
シエルのお父さん……ハウエルは地面に膝をつくと、声を震わせるイスカをそっと抱きしめた。
「すまなかった」
イスカが目を見開く。その瞳は、シエルと同じエメラルド色に戻っている。
ハウエルはイスカから体を離すと、まっすぐに彼の目を見つめて、もう一度「すまなかった」と言った。
「仕事にかまけて、ずっとお前の苦しみに気づいてやれなかった。後を継がせなかったのも、お前が憎いからじゃない。リディアの遺言なんだ」
「母上の……?」
「――実は、お前は俺の血を引いていないんだ」
驚愕するイスカにハウエルは語った。誰も知らない家族の物語を。
彼によると、イスカが生まれる少し前に大規模な紛争があったらしい。現役の魔法使いだったハウエルは、リディアと、リディアの恋人と共に紛争地帯に行った。
戦場がいかに過酷なものかは考えずともわかる。結果として、リディアの恋人はハウエルを庇って死んだ。彼は、ハウエルの幼馴染でもあったから。
――イスカは幼馴染の忘れ形見。だから、家族の誰とも似ていなかったのか。元の世界でもよくある話だ。
せめて血の繋がったエイシアとエイミールがリディア似だったなら、イスカの暴走は起こらなかったかもしれない。
「お前は真面目な子だ。真面目故に思い詰める。人の上に立つよりも、誰かを支える方がいい――死の床でリディアが言ったとき、俺もそうだと思った。だから……」
「そんな……。俺だけ家族ではなかったということですか? 他人のあなたに認めてもらおうと、あんなに必死に……?」
「それは違う。確かにお前と俺は血の繋がりはないかもしれない。だが、俺はお前を息子として、心から愛しているよ」
イスカが声を上げて泣いた。まるで子供みたいに。彼が本当に欲しかったものは、たった一つ。
父親からの、想いのこもった一言だったのだろう。
「……もっと早く言うべきだった。私たちエルフには、長い時があるのに圧倒的に言葉が足りない。そのせいで多くのものを失った。……ヘレンも」
シエルの肩が震えた。ロイと二人で左右から腕を回し、支えるように背中に添える。シエルもそれに応えて、私たちの背中に腕を回した。
その目は、まっすぐに父親と兄の姿を見つめていた。
「帰ろう、イスカ。家出は終わりだ。エイシアもエイミールも待っているぞ。お前は私たちの家族なのだから」
イスカが声もなく頷く後ろで、アルがノワルさんとゴルドさんに揉みくちゃにされている。騎士団の人壁に阻まれてよく見えないが、お説教されているようだ。かと思えば、突然神社で柏手を打つような音がした。
やがて、私に気づいたアルが人壁を掻き分けて近づいてきた。腕を解いたロイとシエルが前に出ようとするが、それを抑えて一歩踏み出す。
ノワルさんに張り倒されたらしい。彼の左頬は赤くなっていた。
「サーラ……あの……」
夕焼け色に戻った瞳が揺れている。告白される前もこんな顔をしていたっけ。懐かしさに目を細めながら、頭を下げる。一年半前にはできなかったことだ。
「あなたを傷つけてしまって、ごめんなさい。あなたの気持ちは本当に嬉しかった。でも私にとって、あなたは大事な弟なの。だから、お付き合いはできません」
アルが息を飲む。そして、居住まいを正すと、九十度の角度まで頭を下げた。
「俺こそ、本当にごめんなさい。サーラの気持ちも考えずに、自分の気持ちを押し付けて。最後の日も、子供みたいな態度を取らずに、笑って見送ればよかった。さっきも酷いことをして、どう償えばいいのかわからない。それに……」
言いにくそうに、少し離れた地面に視線を落とす。そこには水たまりが広がっている。持ち主を失った服も。
パールはもうどこにもいない――そう認識するたび、返してと叫びたくなる。泣き喚きたくなる。子供を失った親の気持ちなんて、知りたくはなかった。
「私はカミサマじゃないから、パールを殺したあなたを許せない。でも……二度と自分を見失わずに生きてほしいと思うわ」
瞳を潤ませたアルがぐっと唇を噛み、もう一度頭を下げる。そして、踵を返すと背筋をまっすぐに伸ばして駆けて行った。
自分を待つ家族たちの元へ。
「……僕たちもそろそろ帰ろっか。領民のみんなが首を長くして待ってると思うし」
その場の全員が頷く。
ブリュンヒルデ家も、アーデルベルト家も、とりあえず市内に戻るようだった。積もる話はあとということらしい。
「パール……。あなたも一緒に帰ろうね」
引き揚げていくアルたちを見送り、パールがまとっていた服に手を伸ばす。すると、ころりとアイスブルー色の石が転び出た。パールの魔石……核だ。しっとりと湿ったそれには、まだパールの気配が色濃く残っている気がした。
そっと服と魔石を抱きしめ、次いで折れた杖を拾い上げる。
私の半身。ルビィの形見。確かにあったはずの黄色い魔石は綺麗に消えていた。
杖の中にはライス粒みたいにびっしりと刻み込まれた魔法紋。人は死ぬと魔力が抜けるが、魔石は残り続ける。ルビィはもしものときを見越して、私に魔法を授けたのだろう。
風の赴くまま、旅ができる魔法を。
ああ、そうだったのだ。私はずっとルビィと旅をしていたのだ。
私のお師匠様は、世界一のお師匠様で、世界一の母親だった。
「行こう、サーラ」
ロイに手を引かれ、みんなで連れ立って歩く。全員、体も服もボロボロだけど、それでも顔には満足げな微笑みが浮かんでいた。
北の村の跡地から市内まではそう遠くない。空が白み始め、見慣れた市壁が近づいてきた頃、不意にシエルが立ち止まって頭を下げた。
「みんな、本当にありがとう。グランディールを守ってくれて」
いつにも増して神妙な空気だ。こんなときばかり律儀なんだから。誰からともなく、自然と笑みがこぼれ出る。
「あなたの宝物は守るって言ったでしょ。――誕生日おめでとう、シエル」
シエルがぱっと顔を上げる。空から差し込む朝焼けの光が、短くなったシエルの髪を照らしていく。
まるで一面の稲穂のような金色――。
それは、新しい年の始まりに相応しい光景だった。
市内に戻り、私たちは疲れた体を休めることなく事後処理に駆けずり回った。
不安そうな領民たちに危機は去ったと説明し、ブリュンヒルデとアーデルベルトから正式な謝罪を受け、イスカとアルの処罰については帝都で裁判にかけることに決まった。
とはいえ、事はお家騒動。イスカは百年単位の謹慎処分、アルは実家を離れて探索者として生きていくことになりそうだ。スラムで雇った人間たちはブリュンヒルデとアーデルベルト家で受け入れ、伯爵の遺族には永年的に補償を続けていくという。
シエル側の説明もされた。
侍女のコリンナは大喜びの反面、シェーラがこれから背負う苦労を想って泣き通しだったらしい。リッカ公爵からは「決断が遅いねえ」と散々ねちねちといびられ、シェーラの夫としての心構えを暗誦するまで解放されなかったそうだ。
ただ、イスカが暴走する危険を予期して、ルクセンとはすでに独立の話し合いを終えており、婚姻届と独立宣言文書にサインするところまで整えられていたのはさすがという他ない。
レーゲンさんの方も首尾よくいったようで、特許申請は難なく通った。失踪していた皇弟がひょっこり帰ってきたことに帝国議会は驚天動地の騒ぎには……ならず、こちらもシエルのお姉さんの手で万事整えられていたらしい。
ノワルさんが言うには、イスカの仲間集めを潰したのも、やっぱりお姉さんだったそうだ。たぶんネーベルが情報を流していたんだろうけど、どこまで手回しが早いんだろうか。有能なエルフって怖い。
「読んだよ、あの論文。すごいね、人工魔石なんて。やっぱり君をアーデルベルト家付きの魔法使いに推薦しておくんだったなあ。……今からでも、こっちに来ない?」
「ありがたいですけど、やめておきます。私はここの護衛ですから」
この期に及んでも勧誘してくるノワルさんに苦笑する。すげなく断っても、何故かノワルさんは嬉しそうだった。
「……すまなかった」
そんな最中、静かに歩み寄ってきたイスカがシエルに頭を下げた。対峙したシエルがすっと背筋を伸ばしてイスカを見下ろす。
「だから言ったでしょ。僕はもう泣いてばかりの子供じゃない。甘く見ると痛い目見るよって。これで、ようやく兄弟喧嘩は一勝だね。死ぬまでの間にもっと勝ちを取るから覚悟しておいてね」
イスカがぱっと顔を上げる。さっきシエルが上げたみたいに。湖面のように揺らぐ瞳は、不思議とシエルに似ている気がした。
「百年後に確かめにきてよ。ここがどんな領地よりも生きやすい場所になっているか。姉さんと一緒にさ」
「……公爵様にそう言われてはな。従うしかあるまい。あいつは俺と一緒は嫌がるだろうが」
イスカは口の端を吊り上げて笑った。それは今まで浮かべていた皮肉めいた笑みではなく、ついこぼれたといった様子の笑みだった。
「すごかったですね、サーラさん。ここからでも白い光が見えましたよ。本当に聖女様みたいだ」
去っていくイスカと入れ替わるように、ミミと固く抱き合っていたマルクくんが興奮の面持ちで歩み寄ってきた。その目は、尊敬の二文字に彩られている。周囲に散らばる領民たちも、眩しいものを見る目で私を見ていた。
背後でシエルが息を飲む。ミミも困惑顔だ。マルクくんはクラーケンの一件を知らない。だから、無邪気に口に出しても仕方がない。
赤目化したアーデルベルトの騎士団員の中には、敬虔なエルネア教徒もいる。彼らにスマホを見られた以上、絵のモデルになったから聖女と呼ばれているという誤魔化しは効かないだろう。
……私もそろそろ、自分の立場をしっかり認識しなくてはいけない。
「そうね。グランディールを守れるなら聖女様も悪くないわね」
「サーラ……?」
訝しげに問いかけるシエルに微笑み、黙ってこちらを見守るロイに向き合う。朝の光の中で綺麗に輝く満月色の瞳。誰よりも好きな瞳だ。
彼はまだ、返事を待ってくれるだろうか。
「ごめんね。疲れたから、先に休ませてもらっていい? ……あの返事は、あとで必ずするから」
「……本当か?」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わず、内心驚く。ロイも人の心を裏読みする力がついたのかもしれない。
「本当よ。私を信じて。だから待っててね」
まっすぐロイの瞳を見つめる。その言葉に込めた意味に気づいて欲しいと願いながら。
一人、領主館に戻り、自室の窓から中庭を覗く。小屋の前で並んだポチとシロが、領民たちに撫でられていた。
「パール……。あなただけがいないのね」
指で魔石を撫でたとき、背後に気配が生まれた。今まで何度も感じた、いけすかない気配が。
「来ると思ったわよ。今が『その時期』ってわけ?」
ネーベルがチェシャ猫のように笑う。
その日、私はグランディールから姿を消した。
相続争いに決着がつき、新しい年を迎えたグランディール。ですが、そこにパールの姿はなく、サーラもまたある決断をします。
果たして、サーラはどこに向かったのでしょうか。




