67話 さよならの先へ(過去はもう振り返らない)
古びたパーカーを着て、古びた六畳間の中心に立っている。
何度も何度も見た、いつもの夢――。
けれど、辺りに漂うのは欺瞞でも惨めさでも寂寥でもなく、眠りにつく前みたいな穏やかな静けさだった。
小さな窓からは晴れ空を予感させる明るい光が差し込み、小鳥の囀る声がする。普段は汚れた食器で満たされたシンクも、埃だらけの畳も、見違えるほど綺麗に清められていた。
「紗夜……。どうして、ママを置いて行ったの?」
目の前には背中を丸めて啜り泣く母親がいる。その髪はすっかり白くなっている。記憶の中の母親の姿じゃない。
――きっと今の母親の姿なんだと、直感で思った。
カミサマを安置していた仰々しい祭壇はなくなり、代わりに仏頂面を浮かべた私の写真が飾られている。確か履歴書に貼ったものだ。家を出る前に全部処分したつもりだったのに、残っていたのか。
その隣には、まだ若い母親と父親が嬉しそうに赤ん坊に頬ずりをしている写真もあった。一見すると仲睦まじい親子のように見える。
……いや、仲睦まじい時代もあったのか。物心つく前に壊れてしまっただけで。
「……ようやく私に気づいたの」
母親は答えない。ただ、小さく啜り泣いている。私がいなくなってから、どんなことがあったのかは知らない。家を出ると同時に、私を知る人間全てと関係を切ったから。
もしかしたら、私の失踪をきっかけにカミサマと決別したのかもしれない。ようやく現実を見て生きていく気になったのかもしれない。
……今なら親子として向き合えるかもしれない。
けれど、もう遅いのだ。どれだけ泣いたところで過去には戻れない。私たちはカミサマではなく、人間なんだもの。
「私、あんたのこと今でも憎んでる。きっと、死ぬまでこの傷は癒えないわ。でも、あのとき……私を殺さなかったことだけは感謝してる。おかげで、シエルやロイたちに会えたもの」
自分の居場所を確かめるように、両手に目を落とす。インクが染み込んだ十本の指。右の中指には消えないペンだこがある。
その先に見えるのはブーツと紫色のサルエルパンツ。いつの間にか、着ていたパーカーはミントグリーンのローブに変わっていた。
こと、と小さな音がして、玄関のドアに杖が立てかけられた。ルビィの形見。私の半身。頂点についた風の魔鉱石が窓からの日差しに反射して光っている。まるで私を誘うように。
「もう行かなきゃ。私を待っている人たちがいるもの」
杖を取って古びた玄関に立ち、銀色のドアノブに手をかける。もう怖くはない。ゆっくりと開いたドアの向こうには、見慣れたグランディールの景色が広がっていた。
優しく頬を撫でる風と共に、私を呼ぶ声も聞こえる。少しだけ高い、泣き虫の少年の声が。
『サーラ!』
そう、私はサーラ・ロステム。日本から転移した聖女でシエルの護衛。
――朝倉紗夜と名乗ることは、二度とないだろう。
「さよなら、お母さん」
最後に一度だけ振り返り、しっかり前を向いて、駆け出すように足を踏み出した。
「サーラ!」
「サーラ様!」
目を開けると、シエルとロイ……だけじゃなく、コリンナやミミも私を見下ろしていた。
みんな不安げだ。ロイに至っては捨てられた犬みたいな顔をしている。
「……私、また倒れてた?」
「少しだけね。そろそろ、レーゲン先生を呼びに行こうと思ってたところ。体は大丈夫?」
「うん。なんだかすごいスッキリしてる。まるで生まれ変わったみたい」
ほっとした表情を浮かべるシエルの向こうには、まだ明るい光を放つ太陽と、空を優雅に飛ぶ極彩色の鳥。確か、初めて転移した日もこんな景色を見た気がする。
……あの部屋の日差しはこれだったのかな。
夢を思い出しながら、頬を撫でる風に目を細める。少しだけひんやりしているのは、知らぬ間に泣いていたのかもしれない。
それにしても、なんだろう。この頭の下の感触。温かいんだけど、やけに硬いような……と考えたところでロイに膝枕されていると気づき、慌ててその場に飛び起きた。
「こら、無茶するなよ。俺は気にしなくていいから、もう少し寝てた方が……」
「も、もう大丈夫! ほら、ピンピンしてるでしょ!」
あたふたと腕を上下させる私に、コリンナとミミが含み笑いを漏らし、何故かロイは残念そうな顔をした。
シエルの手を借りてその場に立ち上がり、辺りを見渡す。魔物を誰が引き入れたかの追求は保留して、後片付けをすることにしたらしい。闇魔法使いが中心になって、闇猟犬の死体を闇魔法に詰め込んでいた。
あれだけの戦闘にも拘らず、市内の建物に被害はなさそうだ。まだ興奮冷めやらぬ様子の領民たちに混じって抱き合っているマルクくん家族を見て、思わず口元が緩む。
マゼンダさんが穏やかな心を取り戻すのは、まだまだ時間がかかるだろう。でも、それでいい。偽りのカミサマから顔を上げて、そばにいる人間の存在に気付いたのなら。
「誰も怪我がなさそうでよかったわ」
「おかげさまでね。まさか魔竜を討伐できるとは思わなかったよ」
「私はブレスを跳ね返しただけよ。トドメを刺したのはミミだもの。本当に強くなったわね」
「えへへ、みんなが鍛えてくれたおかげです!」
元気一杯のミミに先導され、倒れた魔竜に近寄る。どうやら完全に息絶えているようだ。渾身の一撃を受けた喉元の逆鱗は粉々に砕けていた。
逆鱗に触れる――元の世界では目上の人を怒らせる意味の慣用句だったが、こちらではまさにドラゴンの弱点を指す。
ドラゴンは全身が硬い鱗で覆われているものの、ブレス腺が通っている喉元の鱗だけは脆く、そこさえつけば倒すことができるのだ。
とはいえ、難易度はマックスだったけど……よくやってくれたものだ。
「放っとくと魔物が集まってきちゃうから、これもなんとかしたいんだけど、ロイの闇の中には入らなさそうなんだよね。クラーケンのときと違って、鱗が硬過ぎて解体もままならないしさ」
「ロイが無理なら他の人も無理よね。あの変態は? シャドーピープルならいけるんじゃないの?」
「なんか面会謝絶だって。ミミが呼びかけてもダメ。司教の証拠を持ってきたときは、そこまで具合悪そうには見えなかったけどね。サーラが色仕掛けをしてからそこそこ時間も経ってるし」
「色仕掛けって言わないでよ」
シエルを睨みつつも、私には心当たりがあった。ドラゴンのブレスを打ち破ったときに気づいたことがあったのだ。
……この予想が当たっているなら、確かに誰にも会えないはずだ。私とレーゲンさんを除いて。
「……いいわ。私が行ってみる。ついでにレーゲンさんに体を診てもらうわ。特に違和感はないけど、念のためね」
「俺も行く」
案の定、ついてこようとしたロイを笑って制止する。
「あら、私の裸がそんなに見たいの? 心配しなくても、露天風呂の日からたいして変わってないわよ」
シエルが口笛を吹き、コリンナとミミが黄色い声を上げ、顔を真っ赤にしたロイがその場に固まった。その隙に急いで病院に向かう。我ながらよく言ったものだ。あとはシエルがフォローしてくれるだろう。
誰かに呼び止められる前に、玄関に一番近い部屋のドアをノックする。ここはまだ領主館別館だった頃から、レーゲンさんの個室のままだ。鍵が開いた音がしたと同時にドアを開ける。
「レーゲンさん、入るわよ」
「もう入ってんじゃねぇか。すげぇな、ドラゴンに押し勝つなんて。カーテンの隙間から見てたぜ。体は……大丈夫そうだな」
「まあね。それより変態は?」
黙って部屋のベッドを指差すレーゲンさんを後にして、掛け布団を剥ぎ取った。
そこにいたのは、ベリーショートの下の両眼を真っ赤に染めて、苦しそうに顔を歪めるネーベルその人だった。
「あら、泣いてたのネーベル。お目目が真っ赤ね。まるで兎さんみたい」
「白々しいデスネ……。ここぞとばかりニ、いつもの意趣返しデスカ」
「はいはい。いいから、目を瞑って。加減はするけど、辛かったらちゃんと言ってよね」
ベッドのそばの丸椅子に腰掛け、ネーベルの両眼を覆い隠すように右手を添える。そのまま聖属性の魔力を流すと、ネーベルは一瞬だけ体を震わせて小さく息をついた。
さっきまで苦しげだった呼吸が楽になったのを機に右手を外す。瞳はいつもの濃紺色に戻っていた。聖属性で魔属性を浄化することで、暴走しかかった魔力を抑え込んだのだ。
魔属性が暴走するのは術者の能力を超えた魔法を使ったとき。つまり、さっきまでネーベルは人知れず超級レベルの魔法を使っていたことになる。
蓋を開けてみれば、なんてことはない。魔物たちを市内に引き入れたのはネーベルだったのだ。おそらく司教を追い出すのに手を貸そうとしたのだろう。道理で人にも建物にも被害がないはずだ。
「闇猟犬はともかく、魔竜はやりすぎなんじゃないの? 死ぬかと思ったわよ」
「アナタは殺しても死にませんヨ。それよリ、よく気づきましたネ」
「あんたの殺気と魔力は嫌と言うほど浴びたからね。ブレスを打ち破ったとき、あんたの魔力の残滓を感じたのよ」
努めてなんでもないように言うと、ネーベルはベッドに横たわったまま、ククッと肩を揺らした。見破られて何がそんなに楽しいのか理解に苦しむ。
「匿っているところを見ると、レーゲンさんも知ってたのよね。風邪を引いたってのも嘘なんでしょ」
じろ、と睨むとレーゲンさんは肩をすくめてベッドに近づき、ネーベルに布団を掛け直してあげた。
「風邪気味なのは本当だよ。今回の件、こいつは相当頑張って情報取ってきたんだぜ。疲れってのは後から出てくるもんだからな」
そのままベッドに腰掛け、あやすようにネーベルの胸をぽんぽんと叩く。さすが幼馴染。変態相手にも優しい。ネーベルもどことなく嬉しそうだ。
「こいつの協力者からブリュンヒルデ公が倒れたって情報を受けたとき、あんたらはもう中に入っちまってたからな。あれはこいつなりの苦肉の策ってやつなんだよ。……ご領主様の『奥の手』は間に合わなかったみたいだしな」
「奥の手? シエルのお父さん以外に? 司教が突っぱねるかもってわかってたの?」
「それはあとで本人に聞きな。あんたなら教えてくれるだろうし、又聞きよりもいいだろ」
それもそうね、と立ち上がりかけて、表向きの要件を思い出した。
「そういえば、あんたの闇魔法に魔竜を放り込んでもらおうと思ってたんだけど」
「病人をこき使うつもりデスカ? 代わりにこれを使ってください。ワタシの魔石です。あの魔竜ぐらいなら易々取り込めますよ」
手のひらに転がされた親指サイズの黒い魔石に思わず目を剥く。体内に魔力嚢がある魔物ならともかく、魔石を作れる人間は限られている。こんなに大きな魔石を作れるのなら、転送魔法も容易に使えるだろう。
「あんた、だから色んなところに……! 領主館の中に魔法紋と魔石を仕込んでたのね」
「ンーンー、なんのことでショウ? ワタシ、善良な一般市民デスヨ。人よりほんのちょっと魔力が強いだけデス。アナタと同じでネ」
布団に潜り込むネーベルに肩の力が抜ける。ここで言い争っていても仕方ない。シエルに事情は報告すると告げた上で部屋を出ようとして、ふと肩越しにベッドを振り返った。
「食堂でレーゲンさんのためにしか動かないって言ってたのに、どうして助けてくれたの」
「あの子供に自分を重ねたのハ、アナタだけじゃないってことデスヨ」
さっさと行ってくださイ、と野良猫を追い払うように手を振られて、病院を出る。シエルたちは相変わらず魔竜を囲んで腕を組んでいた。足取り軽く戻る私に気づき、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの、なんか嬉しそうだね。ネーベルがいないところを見ると、フラれたみたいだけど」
「ここに染まったのは私だけじゃなかったと思ってね。それより、この魔石で魔竜を……」
「サーラ!」
聞き覚えのある声に振り返る。
手を振りながらメイン通りを駆けて来るのは、金髪とサファイアのような青い瞳を持つエルフ。
そして、戦士みたいに厳つい体をしたヒト種の男だった。
カミサマ(母親)と決別し、前を向いて生きると決めたサーラ。そして、ツンデレぶりを発揮するネーベル。
魔竜は元は闇属性の闇竜です。たまたまグランディールの上空を飛んでいたところをネーベルに利用されました。闇猟犬もです。魔属性のネーベルは魔物を操ることができます。
さて、約1年半ぶりに懐かしい人たちが現れました。6章ではグランディールに更なる危機が訪れます。サーラたちはどう乗り越えていくのでしょうか。
次話は5章の登場人物&用語まとめです。引き続き、よろしくお願いいたします。




