66話 何事も不測の事態は起きるもの(みんながいれば大丈夫)
私は異世界から来た聖女――そう告げようとした瞬間、突き上げるような揺れが領主館を襲った。
隣のロイが咄嗟にシエルを庇い、窓際にいたコリンナが机の下に隠れる。私は今にも転びそうになるのをこらえつつ、家具が倒れないように風魔法で固定した。目の前で司教が情けない悲鳴を上げるのは無視だ。
揺れは数分もしないうちに収まったが、代わりに領民たちの怒号が聞こえる。私たちは無言で頷き合うと、我先にとドアを飛び出した。
廊下には怯え惑う従業員や領民たち。みんな外を指さして口々に叫んでいる。
魔物だ、と。
窓の向こうには地響きを立ててこちらに向かってくる闇猟犬の群れが見えた。魔属性に取り憑かれているのか、皆一様に目が赤い。
一斉に近くの建物に逃げ込む領民たちを誘導するのは、ミミたち自警団と領付きの探索者たちだ。彼らは手に手に武器を持ち、これから起こる戦闘に身を投じる覚悟を固めていた。
「……どうしてですの?」
コリンナが呆然と呟く。魔物使いたちを受け入れるため、市内に魔物避けの結界は張っていない。けれど、私とシロがいるから魔属性の魔物は近寄れないはずだった。
――誰かが意図的に引き入れない限りは。
「伯爵の残党がいると思う?」
「わからない。侵入者がいればネーベルが気づくと思うけどね」
そこで言葉を切り、シエルは真っ青になったコリンナと、不安げな顔を浮かべる領民たちに向き合った。
「大丈夫だよ、みんな。モルガン戦争の二の舞にはさせない。闇猟犬は強い魔物だけど、魔属性さえなければ勝てる相手だ。飛竜の一件以来、不測の事態に備えて訓練を重ねてきたでしょ? 今こそ、成果を発揮するときだよ」
「そうね。訓練の通り、空を飛べる種族たちを中心に、あのワンちゃんたちの動きを止めて。その隙に私たち聖属性の魔法使いが片っ端から魔属性を浄化するわ。トドメはロイたち前衛に頼むわね」
黙って頷いたロイが一足先に領主館を飛び出していく。普段通りの私たちを見て、コリンナや周りの領民たちも幾分か落ち着きを取り戻したみたいだった。
戦う力のあるものは武器庫に走り、そうでないものは子供たちを抱えてポチの小屋に走った。ポチとシロには領民たちを守れと言い含めてある。きっと大活躍してくれるだろう。
「シエルとコリンナはここでみんなの指揮を取って。絶対に外に出てきちゃダメだからね。それと――あんた、司教なら聖属性よね? 一人でも多い方がいいから、あんたも来なさい!」
一人になりたくなかったのか、何故か共に執務室を出ていた司教の首根っこを掴んで外に引きずっていく。
司教は「何故、私が」「バチが当たりますぞ」と喚いていたが、建物の中から口々に司教を応援する教徒たちの顔を見て、渋々闇猟犬を浄化し始めた。
よしよし。口ばっかりのおっさんじゃなくてよかった。
自警団や探索者たちの奮闘のおかげで、今のところ領民たちに被害は出ていないようだった。長杖を握りしめ、私も闇猟犬たちの浄化に参加する。
とはいえ、特殊なことをするわけではない。鳥人やドラゴニュートたちが空から奇襲して網や縄で動きを止めつつ注意を惹きつけてくれている間に、こっそり背後から触っていくだけである。
魔属性さえ浄化してしまえば、後は前衛たちにお任せだ。我々後衛は彼らの邪魔にならないようにそそくさと身を引いて次の獲物に向かっていく。
「いきますよ!」
すっかり戦闘員として仕上がったミミが、自分の体以上の大槍を振るって闇猟犬を屠っていく。
さすが腕の一振りでヒト種三人分の頭を落とせる首狩り兎の獣人だ。育て上げたネーベルも感無量だろう。サボっているのか、風邪の具合が酷いのか、一向に姿を見せないけど。
「サーラ、まだ大丈夫か」
抜き身の曲刀を手にしたロイが、私の背後を狙っていた闇猟犬を屠る。こちらは浄化を待たずして力技で倒しているようだ。初めて会ったときみたいに血まみれではないのは、成長した証だろうか。
「全然余裕よ! それより、闇猟犬が出たのは市内だけなの? ルビィ村やブラウ村は?」
「心配ない。出たのはここだけだって鳥人の奴らが言ってた。もし出ても、あっちは結界を張ってるから大丈夫だろ」
それを聞いてほっとした。同時に疑惑が増す。単なる暴走なら人が多い場所をあえて狙うとは考えにくい。やっぱり、誰かが市内に引き入れたのか。
「考えるのはあとだ。とりあえず、こいつらを片付けるぞ」
目にも止まらぬ速さで、ロイが曲刀を振るう。さすがクリフさんが丹精込めて打った剣。ものすごい切れ味だ。
やがて、空に昇っていた太陽が少し傾き出したころ、闇猟犬は全て討伐され、市内は静けさを取り戻した。
わあっと歓声を上げて建物から飛び出してくる領民たちを横目で見ながら、額に浮いた汗を拭う。領主館の中から手を振るシエルたちも無事のようだ。その事実に胸を撫で下ろす。
「なんとか終わったわね。後始末が大変そうだけど、怪我人がいなくてよかったわ」
隣のロイに話しかけるも、返事がない。視線を向けると、ロイは眉間に皺を寄せて何か考え込んでいるようだった。
「どうしたの、ロイ」
「……こいつら、魔属性に取り憑かれてた割には弱すぎないか? 正直もっと苦戦すると思ってた」
「それはロイが強くなったからじゃないの? 速すぎて全然目で追えなかったわよ。格好良かった」
ロイは一瞬嬉しそうに口元を緩めたが、すぐに表情を引き締めて首を横に振った。
「いや、闇猟犬は群れで狩りをする魔物だ。なのにこいつらは動きがバラバラで、てんで連携なんて取れてなかった。建物の中に避難した領民たちを狙わずに、俺たちだけに向かって来たのもおかしいと思わないか?」
「そう言われると……」
確かに、いるだけでやばそうなロイやミミ、そして聖属性の私を避けないのは、魔属性に取り憑かれて理性を失っていたことを差し引いても不自然かもしれない。
それに――領主館を揺るがした地響きは本当に闇猟犬たちのものだったのだろうか?
そう思った瞬間、体に影が落ちた。
「サーラ!」
逞しい腕の中に抱き抱えられ、勢いよく地面に転がる。次いで、襲ったのは領主館で体験したのと同じ振動だ。
誰しもが混乱の表情を浮かべる中、市内の中心に降り立って蝙蝠みたいな羽を広げた魔物が、恐竜映画で耳にするような雄叫びを上げた。
頭から足先までびっしりと生えた黒い鱗。触れられただけで絶命しそうな鋭い爪に、地面に叩きつけるたびに地震を起こす長い尻尾。
遥か高みから私たちを睥睨するトカゲみたいな縦長の瞳孔は、感情など宿っていないかの如く冷たい。そして、その目は闇猟犬と同じく、血のように赤かった。
「魔竜!」
魔竜はその名の通り魔属性のドラゴン。最後に目撃されたのは千年前で、とっくに絶滅したとされていたのに、一体どこから現れたのか。
誰からともなく叫んだ声に反応したドラゴンが、間髪入れずに赤いブレスを放つ。
この中で防げるのは私だけだ。ロイの腕から抜け出して咄嗟に結界を張る。嵐がテントを叩くような激しい音がして、周囲に赤と白の閃光が走った。
重い。めちゃくちゃ重い。一瞬でも気を緩めたら杖を取り落としてしまいそう。それでもなんとか防げているのは聖女様のスマホから定期的に魔素を摂取し、普段から魔力を温存していたからだ。
額から汗が滑り落ちる。領主館からシエルとコリンナが叫ぶ声が聞こえる。領民たちが口々に悲鳴を上げてカミサマに救いを乞うのも。
正直、今すぐ逃げ出してしまいたい。でも、ここで逃げたらみんなが死ぬ。私は護衛として一歩たりとも退くわけにはいかない!
「みんな、落ち着いて! 犬が竜になったからって何も変わらないわ。聖属性持ちの魔法使いは魔法紋師と組んで、私に力を貸して。戦闘員はみんなを守りつつ、ドラゴンの逆鱗を狙って。非戦闘員は私が防いでいる隙に領主館に走って。大丈夫。ナクトくんが建てた家はドラゴンでも壊せないから! ほら、早く!」
私の声に我に帰った領民たちが一斉に領主館に走っていく。その中に紛れていたマゼンダさんが足をもつれさせて転び、そばを走っていた司教に縋りついた。
「し、司教様、お助けください。女神様のお慈悲を……!」
「ええい、離しなさい! あんな伝説上の魔物に太刀打ちできるわけがないでしょう! 女神様とて蛮勇は許さないはずです!」
マゼンダさんを振り切って司教が領主館に走っていく。こんな状況だが、背後でロイが「あいつ本当にクズだな」と呟くのに全力で同意した。
「母さん!」
「マゼンダ!」
引き返して来たマルクくんとエンゲルさんがマゼンダさんに覆い被さる。それに気を取られたドラゴンが彼らにブレスを向けようとするのを必死に阻止する。
「あんたの獲物は私よ!」
ロイに体を支えてもらいながら、魔力の出力を上げてブレスを押し返す。さっきよりも迫った結界に、こいつは一筋縄ではいかないと悟ったのか、ドラゴンの目が再び私に向いた。
「母さん、立って! ここは危険だよ!」
「マゼンダ! 早く逃げるんだ!」
マルクくんとエンゲルさんが必死にマゼンダさんを引っ張り上げようとする。けれど、マゼンダさんは深い絶望の中に沈み込んでいるみたいで、身動き一つしなかった。
「そんな……カミサマ……どうして、私を見捨てたのですか……」
この期に及んでも、カミサマに縋るの?
マゼンダさんと母親の姿が重なり、頭の中でブチっと音がした。ドラゴンの咆哮に負けないよう、風魔法を使って声を張り上げる。
「カミサマが何よ! そんなに聖人君子じゃない自分が嫌なの? どれだけ醜い心を抱えてたって、生きていていいはずでしょ! 顔を上げてしっかり現実を見なさいよ! 今、あなたのそばにいるのは誰なの? あなたを命懸けで守ろうとしているのは誰なのよ!」
大切な家族たちを見上げたマゼンダさんがはっと息を呑む。同時に魔法紋師たちが書き終えた魔法紋から聖属性の力が伝わってきた。
ふわ、と風に浮いた髪が黒色から銀色に変化している。ルビィから話だけは聞いていた。保有魔力が肉体の容量を超えて溢れ出た証拠だ。
いける。これならドラゴンにも押し勝てる!
「よく見るのね。グランディールにカミサマはいらない! 人を救うのは、いつだって人間なのよ!」
ついに結界がブレスを打ち破り、ドラゴンの巨体が大きくのけぞる。その隙をついて、鳥人の背中に乗って空を飛んだミミが、喉元の逆鱗目掛けて大槍を突き出した。
「グランディールは私たちが守ります!」
ドラゴンの断末魔がその場を支配する。地面に倒れた巨体が起こす振動に必死に耐えながら、古びた六畳間を思い浮かべる。
『私を見てよ、お母さん』
子供の私が、ようやくそう叫んだ気がした。
サーラは頑張りました。
今回のお話は、3話の『醜い人間は生きていてはいけない?』のアンサーになっています。
自分なりの答えを出したサーラ。次回、カミサマとの決別です。




