62話 汝、清き心を抱きて雄風となれ(どれだけ汚くても心は心)
「申し訳ありません!」
エンゲルさんが九十度まで頭を下げる。その両手は目に見えて震えていた。それもそうだろう。まさか出張から戻ってきたら、自分の妻が大騒動を起こしているとは誰も思わない。
「頭を上げてくださいな。ここは病院です。皆様のご迷惑になってしまいますわ」
冷静なコリンナにソファに座るように促され、エンゲルさんは組んだ両手を額に当てて深く項垂れた。今度は右足がカタカタと貧乏ゆすりみたいに揺れている。本人は自分の感情を処理するのに精一杯で気づいていないようだった。
「まさか、帝都から司教を呼び寄せるとは……。あの方は……ストゥルス司教は信仰の篤いものに救いの手が差し伸べられると言って、マゼンダに寄付を度々要求していたのです。彼から引き離したくて、異動を決めたのに……」
六十年前に教団の腐敗は徹底的に浄化された。けれど、いつの時代も悪どいことを考える奴はいるものである。たとえ異世界でも逃れられぬ理不尽さに私はうんざりした。
ちらりと病室に続くドアを見る。あの向こうではシエルが深い眠りについている。レーゲンさんに生命魔法をかけてもらったのだ。そばにいるロイはどんな気持ちでシエルの寝顔を見つめているのだろう。
「せめて事前に教えていただきたかったですわね。最近の奥様の行動は目に余りますわ。ご子息のことも、このままでいいと本当に思ってらっしゃるの?」
エンゲルさんが力無く首を横に振る。シエルが言っていた通り、愛してはいるがどうしていいのかわからないのだろう。その気持ちはわかる。薄氷の上でかろうじて保っている均衡を、自分の手で崩すのが怖いのだ。
待合室の中にしんと沈黙が降りたとき、玄関のドアが静かに開いた。全員の視線が集中する。そこに立っていたのは、目を真っ赤にしたマルクくんと、彼を支えるミミだった。
「父さんを責めないで。父さんはずっと母さんを救おうとしてくれたよ。でも、どうしても上手くいかなかったんだ」
「マルク……。家にいたんじゃなかったのか。一体どうしたんだ。母さんは?」
「ミミちゃんの上司の……ネーベルさんに眠りの魔法をかけてもらったんだ。今はぐっすりと眠ってる。たぶん朝まで起きないだろうって」
たまにはいいことをする。まあ、ネーベルはミミには優しいから、無下に断れなかったんだろう。
マルクくんはミミの手から離れると、私とコリンナの前に進み出て、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。僕がいけないんだ。僕が母さんの望む息子になれないから」
「あなたが謝ることじゃないのよ。……辛いことを聞くようですけれど、あなたはお母様のことをどう思ってらっしゃるの」
「好きだよ。たとえ、母さんが僕を醜い獣人だと思っていても、僕は母さんが好き」
その健気な言葉に、コリンナがぐっと喉を詰まらせる。エンゲルさんも目を潤ませてマルクくんを見つめていた。
「母さんの心にはひどい傷があるんだよ。父さんに捨てられるんじゃないかって、僕が自分と同じ目に遭うんじゃないかって、ずっと怯えてる。女神様に縋ることで、安心してるんだ。……僕の言葉は届かなくても、女神様の言葉は届くみたいだから」
「マルク……。ごめんな。無力な父さんを許してくれ」
「僕なら大丈夫。きっと立派な大人になれば、母さんだって……」
思わずといった様子で両手を広げるエンゲルさんに歩み寄り、その胸に涙で濡れた頬を寄せる。熱い抱擁を交わす親子を見て、ミミがぐすっと鼻を鳴らした。とても美しい光景。――でも、何も解決していない。
マルクくんは優しい。優しいから、蔑ろにされる。そんなの許されていいの?
「カミサマは喋ったりしないわよ。救ってくれたり、奇跡を起こしたりもしない。ただ呑気に見てるだけよ」
「え?」
体の中に湧き上がる衝動に突き動かされるまま、マルクくんに歩み寄り、小さな体を見下ろす。張り付いた笑顔の奥で恐怖と戸惑い――そして、怒りが渦巻いているのが見える。
母親への怒り。自分への怒り。世の中への怒り。ああ、そうだ。あの頃の私もこんな顔をしていた。
「ねえ、あなた。どうしたい? このままお母さんに従順なまま生きるの? それとも自由になりたい?」
「どうって……」
「正直に話していいのよ。ここにはあなたを咎める人なんていやしないから」
マルクくんは震える唇を微かに開き――そのまま閉じた。言えないのだ。どうしても言葉が出てこないのだ。彼の心は鎖でがんじがらめにされている。家族への情という、太くて重い鎖で。
一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと開く。怯えるマルクくんの姿に、目に涙を溜めた黒髪黒目の少女が重なる。目の前にいるのは、まだ救える私だ。
「私は母親が大っ嫌いだったわ。だから、逃げ出してここに来たのよ。私の心に消えない傷をつけたあの女を、今でも憎んでる。二十八歳にもなって、こんな子供じみたことを言ってるなんて滑稽でしょ? 見なさいよ、この醜い姿を。あなたもこんな人生を歩みたいの?」
「サーラ様……」
コリンナが背後から私を抱きしめる。柔らかい感触と確かな体温が伝わってくる。マルクくんは私からコリンナに視線を移すと、助けを求めるようにエンゲルさんを伺い、最後にミミを見つめて床に視線を落とした。ぽたりと雫が垂れる。
「……もう嫌だ」
それは小さな小さな声だったが、赤ん坊の産声のようにはっきりと聞こえた。
「もう嫌だ! 毎日毎日、勉強ばっかり! 僕だって遊びたいし、友達が欲しいんだよ! 銀行員じゃなくて、僕はライスの研究がしたいんだ! 母さんのことは好きだけど、僕のことを縛る母さんは嫌いだ! なんで、わかってくれないんだよお!」
わあああ、と泣き声を上げるマルクくんをエンゲルさんが無言で抱きしめる。その上からミミも腕を回して涙でガビガビになった頬を寄せた。私の背中ではコリンナが泣きじゃくっている。濡れたローブが冷たくて、少しだけ口元が緩んだ。
「……私もそう言えばよかったわ」
そっとマルクくんの頭に手を伸ばす。子供の頃の私も、そうしてもらいたかったから。
「大丈夫。偽りのカミサマなんてぶち壊してやるわ」
静まり返った病院の中を歩く。手にはおにぎりとお茶が載ったお盆がある。
昔、私の部屋だったドアの前に立って深呼吸をする。心の中で、よし、と気合を入れてノックしようとしたとき、音も立てずにドアが開いた。中から顔を出したのはロイだ。奥のベッドには青い顔で眠るシエルがいる。
「あ、ごめん。まだ眠ってたのね。出直してくるわ」
「いや、入ってくれ。もうじき魔法の効果も切れるはずだ。目覚めたとき、サーラがいた方が落ち着くと思うから」
招かれるまま中に入り、脇のテーブルにお盆を置く。ランプの灯りに照らされたシエルの眉間には深い皺が寄っていて、安らかな夢を見ていないことは一目でわかった。
「さっきから、何度かうなされてる。たぶん、母親の夢を見てる」
隣の丸椅子に座ったロイに、「私と一緒ね」と呟く。
「ひょっとして、私が夜にうなされてるの、ずっと前から知ってた?」
「俺の部屋、サーラの隣だったから。シエルもルビィ村の地下室でうなされてるの見たって言ってたし、きっと俺たちと同じ痛みを抱えてると思ってた」
レーゲンさんに『夜はよく眠れるか?』と聞かれたときのことを思い出す。ロイかシエルが相談していたのだろう。もっと早く話しておけばよかった……と思うのは、今になったからわかることだ。
シエルを起こさないように注意しながら、私は母親との確執をロイに話した。北の森では話さなかったことも、全て。
ロイは最後まで聞き終わると、ただ一言「そうか」と言った。慰めでもなく、否定でもない、全てをあるがままに受け止めてくれる一言。それがとてもありがたかった。
「この前はごめんなさい。あなたは私を心配してくれただけなのに、拒絶するような真似をして」
「いや……。あれは俺が悪かった。いきなり触れてごめん」
目に見えてしょんぼりするロイに、ふ、と笑みが漏れる。
「いいわよ。ネーベルに触れられたときは鳥肌が立ったけど、ロイなら何故か嫌じゃないわ」
ロイが目を丸くする。満月みたいな瞳が今にもこぼれ落ちそう。そんなに変なことを言っただろうか。小首を傾げると、ロイは我に返ったようにはっと息を漏らすと、左手で顔を覆い隠した。
「ロイ? どうしたの? 顔が赤いけど、また風邪?」
「……大丈夫だ。それより、さっき聞こえてたよ。サーラがマルクに話してたこと」
「あっ……。そんなに声大きかった? ごめんなさい。つい頭に血が上っちゃって……」
「頑張ったな」
傷だらけの大きな手のひらが頭を撫でる。その優しさに涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。子供みたいにしゃくりあげる私に、ロイが目に見えてあたふたする。
「悪い。またいきなり触って……」
「撫でて」
「え?」
「もっと撫でて」
頭を突き出すと、ロイは一瞬迷う素振りを見せたが、何も言わずにそっと撫でてくれた。
「……人が寝てる前で何イチャついてんの」
低く唸る声がして、ベッドに目を向ける。いつの間に目を覚ましていたのか、不機嫌極まりない表情をしたシエルが私たちを見上げていた。
「なんでサーラ泣いてるのさ。ロイが泣かしたの?」
「違うわよ。起こしてごめんね。もう体は平気? 少しは楽になった?」
ベッドから起きあがろうとするのを押し留めて、シエルの額に手を伸ばす。少し汗で湿っていたので、氷魔法と風魔法を組み合わせて冷やすと、シエルは気持ちよさそうに目を細めた。
「今、何時? あれからどうなった?」
「今は零時を過ぎたとこ。マゼンダさんはネーベルに眠らせてもらって、司教はホテルにいる。マルクくんとエンゲルさんは、これからマゼンダさんにしっかり向き合うことに決めたって」
病院の待合室での出来事を話すと、シエルは深くため息をついた。
「そっか……。ごめんね、取り乱して。下手を打ったよ。あんなこと言うつもりじゃなかったんだけどな……」
ぐしぐしと顔を擦るシエルを前に、ロイと視線を交わし合う。今までの私なら話してくれるまで待っていただろう。でも、今は違う。アルマさんのときと同じだ。自ら話さなければわからないこともある。
「ねえ、シエル。聞かせてくれない? どうして、あんなにエルネア教団を嫌っているの?」
喉をごくりと鳴らし、シエルはロイを見つめた。迷子の子供が親を探すみたいに。
ロイはシエルの胸に手を置くと、宥めるようにぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だ。サーラはシエルを嫌ったりしない。もうそろそろ、シエルも楽になっていいだろ」
それに勇気付けられたのか、シエルは私に視線を向けた。水面のように揺らぐ瞳を。
「……僕、母さんを殺したんだ」
家族だからこそ、なかなか見捨てられないものです。とはいえ、エンゲルにはもうちょっと頑張ってもらいたいですね。子供を犠牲にして成り立つ絆はもはや呪いです。
次回、ずっと仮面の下に隠してきたシエルのトラウマが明かされます。




