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60話 朝倉紗夜(サーラ・ロステム)

 二十八年前。私はお金持ちでも貧乏でもない、ごく普通の家庭に生まれた。


 父親はサラリーマン。母親は専業主婦。兄弟はいなかったけど、一人っ子なんて特に珍しくもなかったから、何とも思っていなかった。ただ、少し他所と違っていたのは、母親の心がガラス細工みたいに脆かったことだ。


 別にそれを責めているわけではない。心が弱い人間はたくさんいるし、強い心を持つことが必ずしも正しいわけでもない。


 ただ、母親は依存心が高く、父親がいないと何もできない女だった。記憶の中にある限り、家事も近所付き合いも父親に頼り切りだったと思う。


 他人と話すことが苦手で、些細なことで大袈裟に傷つき、被害者面して喚き散らす。手の中にある幸せには目を向けず、他人の幸せばかりを羨ましがり、己の不運をぐちぐちと嘆き続ける。


 万事がそんなものだから、父親も疲れ果ててしまったのだろう。私が十歳になった頃に単身赴任を命じられたのを機に、そのまま帰ってこなかった。


 しばらくして届いたのは緑色の紙と、通帳や印鑑など重要なものをしまっている場所のメモと、代理人の電話番号だけ。


 母親には相談できる人もおらず、抵抗する力もなかったから、激しく父親を罵りつつも、易々諾々と紙にサインした。


 幸運だったのは、父親にはまだ私に対する憐憫と愛情があって、家の権利と高校までの学費を保証してくたことだ。


 正直、それなら一緒に連れて行ってもらいたかったが、世間の母性神話は平成になっても続いていたから、母親と引き離すのは可哀想だと思ったのだろう。


 そして、私は朝倉という姓に変わり、今まで父親に向いていた執着は必然的に全て娘の私に向いた。門限は十八時と厳しく決められ、どこに行くのも許可が必要になり、誰と何をしたかまで詳細に報告しなければならなかった。


『どうしてママの言うことを聞けないの』

『こんな時間まで何をしてたの? 嫌らしい』

『なんで私ばっかり……。何も悪いことなんてしてないのに』

『あんたもママを捨てるつもりなの? そんなことしたら、ママ死んじゃうから』

『紗夜! なんなのその目は! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!』


 じわじわと首を真綿で締められるような圧迫感に苦しみながらも、まだ未成年の身では逃げることもできない。それに、その頃の私にはまだ母親への情が残っていたので、少しでも彼女の心の澱を軽くしようと、ひたすら機嫌をとる日々が始まった。


 成績が落ちると怒られるから、常に好成績をキープ。楽しそうにしていると機嫌を損ねるから、娯楽の類は全て封印。誰かといると干渉が激しくなるから、いつも一人でいるようにした。


 それでも足りなかった母親は、ある日訳のわからないカミサマを抱えて帰ってきた。今まで見せたことのない安堵の表情を浮かべて。


 団体の名前は今でも思い出せない。どこにでもありそうな名前だったと思う。教義は扶助と献身。胡散臭い偶像を日がな一日拝むようになった母親は、胡散臭い自己犠牲を美徳とするようになった。


 教団にお布施を渡すため、父親が残してくれた家を手放し、食事は一日一食になった。メニューはいつも一緒。ご飯と、教団の畑で収穫した野菜炒めと、味のない味噌汁だけ。肉は命を奪うものだからと言って食べさせてもらえなかった。


 だから、あの頃の私は常に飢えていて、姿も見窄らしくて、常に暗い目をしていたと思う。けれど、救いの手が差し伸べられることはなかった。カミサマに目が眩んだ母親が人目も憚らずに勧誘しまくったからだ。


 助けを必要とするときに、誰かに助けてもらえるかどうかは、日頃の行いに左右される――なんて真っ赤な嘘だ。もし、それが本当なら、まだ無垢な子供だった私はどんな罪を犯したと言うのか。


 今までどれだけ人のために尽くした聖人君子だろうと、見捨てられるときは見捨てられる。全てはただの運でしかない。そう思わないとやっていられなかった。


 事勿れな教師も、自分が恵まれた環境にいると露ほども思わないクラスメイトたちも、私をいない人間として扱うことに決め、母親はますますカミサマに依存していった。


 それでも、私が少女から娘に成長する頃には立場が逆転して、ある程度の自由は与えられるようになっていた。私の稼ぎをあてにしていたからだ。


 コミュ障はコミュ障なりに、若さ相当の体力だけはあったから、私はいくつもバイトを掛け持ちしていた。家に居たくないのもあったし、少しでも早くお金を貯めて出て行こうとしていたから。


 未成年者が働ける時間ギリギリまでシフトを入れていたので、帰宅はいつも夜遅くなってからだった。確か、あの日も秋の虫が鳴く物悲しい季節だったと思う。いつものように「居なくなっていますように」と願いながら玄関を開けると、母親はお風呂に入っていた。


 喉が渇いたと言っただけで過剰に飲み物を用意されたり、風邪を引いただけで信心が足りないと詰られるおかげで、自分からは話しかけなくなっていたから、そのまま無言でカビ臭い煎餅布団に潜り込んだ。


 それから、どれだけ時間が経ったかはわからない。うとうとして、このまま夢の中に逃げられそうだな……と思ったところで、不意に感じた重苦しい空気に目を覚ました。


 まるで闇がとぐろを巻いてのしかかってきたような感覚――今まで感じたこともない恐怖に、心臓がバクバクと跳ねたのを覚えている。


 息をするのも憚られるような緊張感の中、そっと視線を巡らせると、豆球のオレンジ色の明かりを背にした母親がじっと私を見下ろしているのに気づいた。右手に何か光るものを持って。


 殺される――咄嗟にそう思った。けれど、金縛りにあったように体は動かなかった。私が目を覚ましていると気づいていたのかどうか……。母親はふいと踵を返すと、そのまま家を出て朝まで戻らなかった。


 止めていた息を吐き出し、全身から汗が吹き出す感覚は十年以上経っても忘れられない。部屋にはカミサマ以外何もなかったから、母親が右手に持っていたのが刃物だったのか、それとも別の何かだったのか、今でもわからない。本当に殺そうとしていたのかも。


 けれど、そのとき強く思ったのだ。母親は私を憎んでいる。そしてもう、ここには居られないと。






 ひどく息苦しい感覚がして目を覚ました。頭の上から鳥の魔物たちの鳴き声と、強い光が差し込んでくる。


 胸の上にはプルプルした体を震わせるパール。最近、ますます大きくなってきたので、ずっしりとした重みを感じる。

 

「うう、パール……。苦しいから、どいてよ……」

「おはようございまス。もう始業時間は過ぎてますヨ」


 一瞬の間を置いて、腹の底から悲鳴を上げる。それに驚いたパールが胸から転げ落ちて、床の上でぽよんと跳ねた。

 

「な、何やってんのよあんた! ここは私の、んぐっ」

「朝からうるさいデスネ」


 黒手袋に包まれた大きな手に口を塞がれて、何度も目を瞬かせる。え? 何? 何なの?


「随分とうなされていましたネエ。悪い夢でも見ましたカ?」


 問われても答えられない。何とかして手を引き剥がそうともがくが、びくともしない。ならばと周囲に視線を走らせるが、運悪く杖は床に転がっていた。それに気づいたネーベルが、フフ、と笑う。

 

「いい格好デスネ。杖のないアナタはただの女。このまま息の根を止めてあげましょうカ? それとモ……優しく慰めてあげましょうカ?」


 伸びてきた左手にシャツのボタンを外される。ゾッと全身に鳥肌が立ったとき、体を大きく膨らませたパールがネーベルの背中に激突した。表面を凍らせていたらしい。ガキン、といい音がする。


 ただ、ダメージはほぼゼロのようで、ネーベルは痛がることなく、いつも通りチェシャ猫のように笑っている。

 

「器用な真似をするようになりましたネエ。冗談デスヨ、冗談。こんなまな板の小娘、こちらからお断りデス」


 私から離れたネーベルが、いきり立つパールに両手を掲げる。その隙にベッドから飛び降りて杖を手に取り、ネーベルに突きつけた。

 

「寝込みを襲って何のつもり? レーゲンさんにチクるわよ」

「失礼ナ。ワタシは寝坊助を叩き起こしに来ただけデス。アナタが起きてこないかラ、皆サン心配してますヨ。女の部屋だからと遠慮せズ、スペアキーを作っておくべきでしたネ」


 やれやれと肩をすくめたネーベルがドアの鍵を開ける。途端に、廊下にいたコリンナやミミが雪崩れ込んできた。ずっと聞き耳を立てていたらしい。口々にネーベルを変態だと非難するのを、レーゲンさんがとりなしている。


 シエルとロイは……いた。何故か顔を真っ赤にしたロイを、シエルが困り顔で抑えている。


「頼もしいお仲間がいて何よりデスネ。何を一丁前に悩んでいるのか知りませんガ、ここにいる限リ、アナタはサーラ・ロステムという人間だと忘れないことデス。でないト――何もかも失いますヨ」

 

 謎めいた笑みを浮かべ、ネーベルの姿が掻き消えた。ロイとミミが揃って廊下の奥を睨みつけている。いつも通り生命魔法で筋力を増強して出て行ったのだろう。目で追えるようになったのは、さすがというところである。


「もう! レーゲン様! あの方をしっかり躾けてくださいませ!」

「上司ですけど、さすがにあれはないです!」

「いや、俺、別にあいつの教育係ってわけじゃねぇんだけどな……」

「サーラ! あいつに何されたんだ!」

「落ち着いてよ、ロイ。大声出したら驚いちゃうよ」

 

 急に賑やかになった部屋の中で、ぷっと吹き出す。そんな私を、みんなが呆気に取られた顔で見つめている。

 

 笑いが収まる頃には、悪夢の余韻はすっかり消えていた。

田植えが過ぎたので、サーラは28歳になりました。


サーラが自分の意見を言えないのは、全て否定されてきたからです。その枷を外すのは容易ではありませんが、枷ごと受け入れてくれる仲間を見つけたので、もう一人で悪夢に苦しまなくてもいいでしょう。


さて、次回。グランディールの事態はさらに悪化していきます。シエル激おこ回です。

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