57話 一年越しのごめんね(まさか気にしてたとは)
「カンパーイ!」
オレンジ色の空の下、畦道のあちらこちらで木のジョッキがぶつかり合う音がする。蟒蛇もびっくりなスピードで酒を飲み交わす彼らの服は皆一様に泥で汚れているものの、その顔は田植えを終えた達成感と喜びに満ち溢れていた。
あの怒濤の出荷ラッシュも一旦落ち着き、季節は初夏に移り変わっていた。おかげさまでライス酒の評判は上々だ。早くも新酒の予約もいただき、領民一同喜びの悲鳴を上げている。
そのために農地を大幅に広げ、積極的に移住者を募って村も大きくした。目の前には一面の水田が誇らしげに苗を掲げている。上手くいけば去年の倍以上のライスが収穫できる予定である。
「いやあ、今年も無事に終わったね。サーラもお疲れ様」
賑わいから少し離れた場所に座る私の元へ、ジョッキを手にしたシエルが駆けてきた。中身はいつも通りササラスカティーだ。来年の今頃には念願のビールが飲めるだろう。
隣にロイの姿はない。泥まみれになったポチとシロとパールを露天風呂で洗っているからだ。他に被弾者はいないので、今年の一番風呂は彼らである。
「去年より作付け面積は広かったけど、人も増えたから早かったわね。私も今年は去年より早く植えられたわ。一年経っても体が覚えているものね」
「ミミ先生のおかげだね。今年は去年ほど疲れてない?」
隣に三角座りしたシエルが私の顔を覗き込む。
「疲れてないわよ。まあ、足腰は痛いけどね」
嘘ではなく、本当の気持ちだった。さすがに一年も経つと慣れるのか、去年ほどは気疲れしていない。シエルもそれを感じ取ったらしく、ほっとした表情を浮かべた。
この一年で、だいぶよそ行きの仮面が外れてきた気がする。それとも、私が仮面の下の表情を読めるようになったのかな?
「よかった。またお風呂でのぼせちゃったら大変だし」
「今年は大丈夫よ。露天風呂の魔法紋も自警団の魔法紋師の子が書いてくれたからね。人に任せると楽でいいわ。弟子がたくさんいれば、もっと楽できるのかな……」
「魔法紋の塾作っちゃう? サーラが望むなら建てるよ?」
ぽろりとこぼした一言に、シエルが目を輝かせて身を乗り出す。しまった。また仕事が増えてしまう。
「やめてよ。私に先生なんて務まらないわよ。それに、わざわざグランディールに作らなくても、アマルディに魔法学校があるじゃない」
「あそこはラスタの最難関だからなあ。もっと気軽に魔法紋を学べる場所が出来てもいいと思うんだけどね。みんなの生活も向上しそうじゃない? 魔力の弱い魔法使いも、もっと生計立てられるようになるだろうしさ」
まあ、確かにそうだけど……。ここで同意するとなし崩しに引き受けさせられそうなので黙っておく。いつまでグランディールにいるかもわからないし。
そのとき、村人たちが集まっている方で一際大きな歓声が上がった。
よく見ると、顔を真っ赤にしたピグさんが、綺麗な血豚の獣人の女性と並んでしきりに頭を下げていた。そういえば結婚するって言っていた気がする。その報告を受けたらしいミミは全身から喜びをあふれさせてピグさんに抱きついている。兄代わりだもんね。
去年はピグさんの半分ぐらいしか身長がなかったのに、今では胸あたりまで伸びている。後ろで三つ編みにした髪もかなり長くなった。獣人は成長が早い。自警団で鍛えられた成果か、服から伸びる手足には程よく筋肉がついていて、確実に大人の体つきに近づいていた。
「ミミも十三歳か……。すっかりお姉さんになったわね。仕事もバリバリしてくれてるし、とても一年前に私とシエルを地下室に閉じ込めた子とは思えないわ」
同意の言葉が返ってくるかと思いきや、シエルは何も言わなかった。木のジョッキを両手で握りしめ、何やらもじもじしている。
「あのさ、サーラ」
「何? お手洗いに行きたい?」
「違うよ。その……一年前はごめんね。勝手に生命魔法をかけて囮にして」
思わず面食らう。まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。黙ったままの私に何を思ったのか、眉を下げたシエルが言い募る。いつもの余裕ある態度を忘れたように、必死に。
「別に利用してやろうと思ったわけじゃないんだよ。夜を待つと逃げられるかもしれないし、ああするのが一番手っ取り早いと思って……。僕も一緒に囮になるんだからいいよねって、単純に考えたんだ。あのときの僕は開拓のことで頭がいっぱいで、囮にされた側がどう思うかってことまで考えが回らなかったんだよ」
聞きようによっては酷いセリフだが、シエルの育ってきた環境を思うと頭ごなしに非難できなかった。帝王学を学んでいたのなら、人を使うことに躊躇はなかったはずだ。それに、人間関係が構築されていない段階で話しても私に断られるリスクがあると踏んだんだろう。
ダンジョンに潜っていれば、囮になるのはよくあることだ。合意の上でも、合意の上じゃなくとも。人間とはそこまで親切でも愛情深くもない。最低限の安全を考慮してくれようとしただけで御の字とも言える。
けれど、シエルが望んでいるのはそんな答えじゃないと思ったので、「それで?」と静かに続きを促した。
「どうして、今謝ろうと思ったの?」
「今っていうか……ずっと謝りたいと思ってたんだ。ハリスさんが来た晩、サーラ泣いたじゃん。そこで初めて気づいたんだよね。ああ、目の前にいるのは血の通った人間なんだって。僕は領主として、どんなときでもそれを忘れちゃいけないんだって」
私は知らぬ間にシエルに情操教育を施していたようである。考えてみれば、あれを境によく気遣ってくれるようになったし、悪辣な騙し方もしなくなった気がする。
ふ、と自然に笑みが漏れた。そのまま黙って指を伸ばし、縦線が刻まれた眉間にデコピンをお見舞いする。いい角度で入ったのか、とても軽快な音がした。
「いった! 何すんのさ」
「これで許してあげるわ。それより、他に謝らなきゃならないことあるでしょ」
「え?」
「三万エニよ。私を騙くらかして契約させたの忘れてないからね」
軽く睨むと、シエルは一瞬ぽかんとした顔をして大きく肩を揺らした。ちょうど一年前、一面の水田を眺めていたときと同じ笑みを浮かべて。
「それは謝れないなあ。あれは僕の人生史上、一番の成果だと思うんだよね。どうしてもサーラを雇いたかったからさ」
「そんなに? 言っても熊を倒しただけよ。確かに、みんな苦戦してたのかもしれないけど、それは魔属性だったからでしょ。他に聖属性の魔法使いがいれば、私じゃなくても倒せたはずよ」
「そうだけど、そうじゃないんだ。もし熊の一件がなくても、僕はサーラを雇ってた」
「え?」
首を傾げる私に、シエルは黙って目を細めるとその場に立ち上がった。夕焼けの光がシエルの金髪をオレンジに染め、濃厚な土の香りを含んだ風が白い頬を撫でていく。その顔にはさっきとは打って変わった憂いのようなものが浮かんでいて、思わず目を奪われてしまった。
「いずれ話すよ。そろそろロイがポチたちを洗い終わる頃だと思うから、様子を見てきてやって。ケルベロスが二匹もいたら、体を拭くだけで大変だからね。――ああ、僕ならここにいるから大丈夫。去年みたいに黙っていなくならないからさ」
言うだけ言って、シエルはミミたちの元に歩いて行った。そのままピグさんに祝福の言葉を投げかけている。
聞きたいことは山ほどあったが、雇用主のお願いに逆らうわけにもいかない。頭の中に疑問符を浮かべたまま、近くの村人にジョッキを返して河原の方に向かう。
すぐにもうもうと立ち昇る白い煙が見えてきた。露天風呂の湯気だ。魔法紋師の子はしっかり仕事を果たしてくれたようである。
「こら、ポチ! 洗ったばかりなんだからはしゃぐなよ。シロとパールを見習って大人しくしてろ」
去年よりも立派な作りをした脱衣所の向こうで、ロイが声を荒げている。一年経っても、ポチは相変わらずのようだ。布で出来た目隠しの外から、「風魔法で乾かそうか?」と声を掛ける。私の声に反応したパールが、布の向こうでぴょんぴょんと跳ねる音がした。
「助かる。入ってきてくれ」
「失礼しまーす」
布をめくって中に入る……が、すぐに閉じた。今見たものが衝撃的すぎて心臓がバクバクする。そんな私の気持ちなぞ露知らず、首を傾げたロイが布の隙間から顔を出した。
「どうした? 入ってきてくれよ」
「入れないわよ! まだ服着てないじゃない!」
「ズボンは穿いてるだろ。着てもポチたちの毛で濡れるんだよ。それに、一度温泉で見てるだろ?」
「そうだけど……」
ああ、もう、男の人ってこれだから。覚悟を決めて脱衣所の中に入る。見事な筋肉美を見せるロイからは極力目を逸らして、いつもの半分ぐらいに細くなったポチとシロの毛を乾かす。パールは……乾燥させるのはよくないから脱衣所に置いてあったタオルで拭ってあげた。
すっかりふかふかになったポチとシロを前に、ロイが満足げに頷く。
「助かったよ。ついでに俺の髪も乾かしてくれないか。最近、切ってないから乾くのに時間がかかるんだよ」
「それはいいけど、先に服を着てよ。濡れても乾かしてあげるから」
「どうして? ……こんな傷だらけの体、見たくないか?」
その言い方はずるい。恐る恐る顔を向けると、ロイは捨てられた子犬のようにしょぼんとしていた。ああ、もう!
「せめて後ろを向いてしゃがんでよ。向かい合ってるとやりにくいから」
「! わかった」
一瞬で顔を輝かせたロイが、ポチみたいに従順にお座りをする。相手はいい歳をした成人男性だというのに、まるで大型犬と接している気分になり、気づかれないようそっとため息をついた。
「風が強かったら言ってね」
断りを入れて、ロイの髪に触れる。思ったよりも柔らかい感触に、ますます犬を触っている気持ちになる。けれど、その頭の下にあるのは犬とは似ても似つかない体だ。何もしていないのに、なんだか罪悪感を覚える。
女とは違う太い首、盛り上がった両肩から伸びる逞しい腕、均整の取れた大きな背中。そして……無数についた傷跡。温泉のときも確かに見たけど、あのときは最後に入って最初に出たから、こうして男の人の裸をまじまじと見るのは初めてだった。
考えてみれば、アルもノワルさんもゴルドさんも着替えには気を遣ってくれていたな。あれからもう一年。みんな何をしてるんだろう。アルは三男坊だから爵位は継がないはずだし、またどこかのダンジョンにでも潜っているのだろうか。
「サーラ?」
「あ、ごめん。ちょっと物思いに耽ってたの。ここに来て、もう一年経つんだなあって」
完全に乾いたロイの髪から手を離し、脱衣所に放ってあった着替えを手渡す。ロイはそれを手早く身につけると、やけに真剣な表情で私に向き合った。なんだろう、その目は。さっき裸を見たばかりだからか、心臓がどきりと音を立てる。
「……サーラは前にもパーティを組んでたんだよな。どれだけ一緒に居たんだ?」
「え? まあ、そうね。三年ぐらいかな」
「なんで離れたんだ? 好きなやつとか居なかったのか?」
いきなり何を聞くのか。この一年、アルたちについて問われたことがなかったから、完全に油断していた。別に好きな人がいたわけでも、後ろ暗いことをしていたわけでもないが、痴情のもつれでパーティを離れたとは話しにくい。
「なんで、そんなこと気になるの?」
「それは……」
そこで言葉を切り、ロイは私から目を逸らして唇を噛んだ。言いたいけど、言えないと言った様子だ。その姿に不安を覚える。これ以上聞くと何かが変わってしまう気がして。
「ごめん。なんでもない。次はサーラが入ればいいよ。着替え、ここに置いとくから。パールはサーラが出てくるまで見張っててやれ」
珍しく早口で捲し立て、領主館を出る前に渡しておいた袋を闇魔法の中から取り出し、ポチとシロを連れて脱衣所の外へ出ていく。その後ろ姿を見送り、私は深くて長い息を吐いた。いつの間にか呼吸を止めていたようである。
ロイは何が言いたかったんだろう?
首を傾げながら、袋から着替えを取り出す。アルマさんが見立ててくれたレモンイエローのワンピースが、まるでロイの瞳の色に見えて、私は人知れず狼狽えた。
サーラに何かが芽生え始めました。
次話は4章の登場人物と用語のまとめです。
5章ではついにサーラとシエルのトラウマに触れていきます。物語もいよいよ終盤戦。引き続きお楽しみいただけたら幸いです。




