40話 絶体絶命とはまさにこのこと(二度と体験したくない)
勘を頼りに地面を転がり、迫ってきた何か――おそらく脚を躱す。直後に左腕に痛みが走り、火傷をしたみたいに熱くなった。蜘蛛の爪に引き裂かれたのだろう。血がだらだらと指先に伝ってくるのを感じる。
周囲に視線を走らせる。少し離れた場所にスマホらしき金属板が落ちていた。淡い光といえど、杖を探す明かり代わりにはなるかもしれない。
血の匂いに興奮したのか、蜘蛛は見境なく脚を振り回し始めた。どれか一本に当たれば、そのまま精霊界行きだろう。
なんとか地面を這い、その場から逃れようと試みる。しかし、相手は絶対的な捕食者だ。すぐに全身を蜘蛛の糸で絡め取られる。
『あんたは一人ぼっちで死ぬのよ』
不意にあの女の声が脳裏に響いた。
「こんなところで死ぬのは嫌!」
火事場のなんとやら。咄嗟に蜘蛛の糸を噛みちぎり、伸ばした右手で板を掴む。
次の瞬間、闇を切り裂く白光がその場を支配した。
断末魔のような蜘蛛の声と、キャインと鳴くケルベロスの声が聞こえる。チカチカする視界が治ったとき、辺りは狂おしいほどの静寂に包まれていた。
涎らしきものが頭にぽつりと落ちたので、ケルベロスは無事のようだ。蜘蛛が動く気配はない。掴んだ板で辺りを照らすと、蜘蛛はひっくり返って完全に沈黙していた。どうやら目を回したらしい。
ほっと息をついたと同時に、頭上から「サーラ!」と聞き慣れた声が聞こえた。
顔を上げると、赤々と灯る松明の明かりの中に、血相を変えたロイとシエルの顔が浮かび上がっていた。
「来てくれたの……」
言い終わるより前に、ロイが穴の中に飛び下りて来た。ふらついた私の体を支え、傷に触らぬように優しく抱きしめてくれる。その体温に思わず安堵した。誰かがそばにいてくれることで、ここまで安心したのは初めてだった。
力が抜けたせいか、手のひらから板が落ちる。けれど、ロイは私の傷の具合を観察することに夢中で、それには気づかなかった。
「ロイ、その蜘蛛は念の為にトドメを刺して、闇魔法の中に入れておいて。放っておくと、死体に惹かれて魔物が集まってくる。僕は魔法で梯子を作るから」
頭上でシエルが指示を出す。ロイは頷くと、私から体を離して蜘蛛に向き合った。その間に板を拾おうとしたが、ふと思い立ち、聖属性の魔力を抑えてから手を伸ばす。予想通り、今度は触れても光らなかった。
「やっぱり……」
「どうした? 傷が痛むか?」
「ううん、大丈夫。助けに来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。匂いが消えてて難航したけど、あのケルベロスが必死に助けを呼んでたから辿り着けたんだ」
シエルのそばには、心配そうにこちらを見下ろすポチと白いケルベロスがいた。
半ば担がれるようにして穴から抜け出し、ポチの背中に乗せられて洞窟の外に出る。眩い太陽の光に照らされた左腕は見るも無惨な状態だった。
袖が大きく引き裂かれ、流れた血で真っ赤に染まっている。もしロイたちが来てくれなかったら、蜘蛛から逃げ出せても、そのうち失血死していただろう。
白いケルベロスに先導されるまま、さっき目を覚ました野原に戻り、ポチの背中から地面に下ろされる。ぺたりと太ももをつけてへたり込む私の背中をシエルが支え、険しい表情をしたロイが私のローブに手をかけた。
「服を脱がすぞ」
「えっ、な、なんで?」
「脱がなきゃ治療できないだろ。大丈夫。田植えの日に一度見てるから」
全然大丈夫じゃない。でも、背に腹は変えられない。せめてシエルにはそっぽを向いてもらい、ロイの手に体を委ねた。
幸いにも傷は二の腕だけだったので、ズボンと下着は脱がされずに済んだ。露出した傷に手を翳し、ロイが低い声で囁く。
「俺はレーゲンみたいに上手く治療魔法を使えないから、痛かったり、辛かったりしたらすぐに言ってくれ」
頷いたのを合図に、ロイが治療を開始する。傷口に熱が集中して呻き声が漏れそうになったが、手の甲を噛んで必死に耐える。
治療はあっという間に終わった。これだけの傷を治すのなら、さぞや疲労がすごいだろうと思っていたのに、少し怠いだけで、動くのに支障はなさそうだった。
「……もしかして、ロイの生命力を使ったの?」
「俺の方が体力があるからな。これぐらい何ともないから、気にするなよ」
子供に言い含めるように言って、ロイは私を草むらの上に横たえた。そして闇魔法の中から毛布を取り出し、体に被せてくれた。
「あの……。服は……?」
「近くに湖があるみたいだから、血を落としてくる。ズボンは完全に体力が回復したら洗おう」
言うだけ言ってポチを連れてさっさと歩いて行く。私の血で毛が汚れたから一緒に洗うのだろう。その場に残ったシエルが水を飲ませてくれる。八歳も下の子に、それも雇用主に介抱されるとは情けない。
「ケルベロスが森の中にいたこともびっくりだけど、サーラが穴の中にいたのもびっくりしたよ。なんで、またあんな無茶したの」
声に静かな怒りが滲んでいる気がする。ズボンのポケットに入れていた板――いや、太陽の下で見たら完全にスマホだった――を取り出してシエルに見せる。その途端にケルベロスの目が輝いた。
ケルベロスに連れてこられたとき、見ていた夢を思い出す。あの夢の中で女性がポケットから落とした何かはこれじゃなかったか。
大型の魔物は人に比べて長生きだ。あの小さな子犬は、ケルベロスの在りし日の姿だったのかもしれない。
「これ、さっきの穴で拾ったの。元はこの子の持ち物みたい。何かはわからないけど」
ささやかな嘘をつく。本当のことを言えば、私が異世界人だとわかってしまうから。
シエルはスマホを穴が開くように見つめると、小さくため息をついて肩をすくめた。
「これはサーラが持っていてよ。正体不明じゃ売れないし、見つけたのはサーラだからサーラに権利がある。このケルベロスもそれでよさそうだし」
シエルの声に応えるように、ケルベロスが元気に吠えた。きっと、ケルベロスは私を女性の仲間だと思っているのだろう。グランディールから人が消えた後も、返す機会をずっと待っていたのだ。
「ねえ、シエル。ここってどうして、聖女の森って言われてたの?」
「モルガン戦争が終わった後に、ラスタに魔物避けの結界を張りに向かった聖女がしばらく滞在していたみたいなんだ。遥か昔はこの森にも塔があったと言われているし、グランディールは不思議と聖女に縁がある土地なんだよ。母さんも何代目かの聖女の血を微かに引いていたみたいだし」
「そっか……」
うっかりな同胞の落とし物を黙ってポケットにしまう。エルネア教団には……いや、誰の目にも触れさせてはいけない。これはきっと、まだ発見されていない聖属性の鉱石と呼べるものだろうから。
私のスマホもそうだったのだろうか。でも、それなら燃えるのはおかしいか。属性耐性があるはずだもの。
「ロイが戻ってくるまで、ちょっと眠ったら? 何が来ても僕たちが守るから、安心して休んでよ」
涎と土埃で汚れた頭を躊躇いなく撫でる手は、とても、とても優しかった。
仮眠した後もなんだかんだお姫様みたいにお世話され、夜が明ける頃には完全に体が回復していた。寒くないよう寄り添ってくれる白いケルベロスのお腹から体を起こし、大きく伸びをする。
右側には安らかに眠るシエル。左側にはポチ。ロイは少し離れた場所で朝食の準備を始めているところだった。
「ごめん、ロイ。連続で徹夜させちゃって」
「いや、ポチやシエルと交代したからちゃんと寝てる。体はもう大丈夫か?」
「うん。介抱してくれてありがとう」
毛布から抜け出し、ロイの向かいに座る。
「朝食は私が作るわ」
「助かる。俺たちはサーラみたいに作れないから」
「久しぶりに食べたわよ、あの甘い雑炊。……でも、美味しかった」
ロイが微笑む。そして、私の左腕に視線を移すと、「……もうあんな無茶するなよ」とシエルと同じことを言った。
「サーラがケルベロスに連れて行かれたとき、心臓が止まりそうだった。穴の中で見たときもそうだ。サーラはここを動かずに俺たちを待つべきだった」
「ごめん。……でも、もしシエルが危ない目にあったら、私はまた同じことをするわ。それが仕事だもの。穴にはもう入らないと思うけど」
「サーラが死んだらシエルは立ち直れない。雇用主の心を殺したら護衛失格だろ」
しばしロイと見つめ合う。嘘をついている目ではない。その眼差しの強さに耐えかねて、そっと目を逸らした。
「服、ズタボロだな。戻ったらアルマに直してもらえばいい。最近、なんかギクシャクしてただろ。話すきっかけになるんじゃないか」
「……気づいてたの」
「サーラのことなら。他の奴らが気づいてるかは知らない」
仲間思いの言葉に思わず口元が緩んだ。自分で思うよりも、私は随分とわかりやすい性格をしているようだ。なら、きっとアルマさんも気づいているだろう。私の醜い心に。
「……私ね、母親が怖いの」
パンにチーズを乗せる手は止めず、独り言のように呟く。ロイは何も言わない。口を挟むべきではないと思っているのかもしれない。
「アルマさんに赤ちゃんができたこと、喜ばしいことだとわかってるの。でも、どうしても……得体の知れない存在になってしまった気がして、まともに顔が見れなくて……」
そう。私は母親になったアルマさんが怖かった。
あの女とは違うとわかっている。でも……子供を持つと人は変わる。良くも悪くも。日々成長していく子供に向き合うためには、親も変わらざるを得ないのだ。
それに――私は羨ましい。妬ましいと言ってもいいかもしれない。アルマさんとナクトくんの間に生まれてくる子供が。恵まれた家庭を約束された子供が。大多数の側にいられる子供が。
黙り込んだ私に、ロイが静かに言葉を続ける。
「それをそのまま話してやればいい。アルマはきっとわかってくれる。それに俺も母親は怖い。子連れも。できれば近寄りたくない」
「人には言えないね」
「言わない。誰かに否定されるのはもう十分だ」
私たちは世間に受け入れられない。だから口を噤む。大多数の人間に擬態しながら。
ロイが無口なのも、何を言えば正解なのかわからないからだ。やっぱり私たちはよく似ている。
「……ホットサンドにするから、銅板に火の魔力通してくれる?」
「ん」
銅板の上に置いたフライパンにパンを並べる。すぐに漂ってきた香ばしい匂いが、二人の間を繋いでいた。
シエルの「何が来ても僕たちが守るから〜」のくだりはセリフが偶然被ったわけではなく、テントで寝たふりしていたからです。
次回、温泉回です!




