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38話 ロイの過去に触れて(私たちは同じ傷を抱えてる)

「同じ両親の元に産まれても、兄弟間で種族が違う場合がある。シエルは因子って言ってたかな」


 因子――それはこの世界において種族を決定づけるものだ。ヒト種にはヒト種の因子が、獣人には獣人の因子が存在する。


 異種族間に生まれた子供は、両親からそれぞれの因子を受け継ぎ、割合が多い方の種族となる。


 たとえば、ヒト種とエルフなら『エルフの因子を持つヒト種』か『ハーフエルフ』となり、ヒト種と獣人なら『獣人の因子を持つヒト種』か『獣人』となる。


 ただ、受け継いだ因子がほぼ半分に近いとき、異種族の容姿を持つヒト種が生まれることがある。それがシエルやロイだ。ヒト種の因子がもう少し多ければ、二人はヒト種らしい見た目だっただろう。


 たったコンマ一でその後の人生が大きく変わってしまう――それはひどく残酷なものに思えた。


「俺が生まれたとき、母親は絶望したらしい。今まで自分が負った苦労を思い出したんだろうな。父親に申し訳ない気持ちもあったんだと思う。グランディールから遥々婿入りさせておいて、後継ぎが獣人まがいなんだもんな」


 ロイの母親はロイを激しく嫌悪した。それはそれは凄まじいものだったらしい。口を開けば罵倒が飛び、目を合わせただけで殴られる。徐にまくった袖の下には、無数の傷跡が刻まれていた。


 きっと革鎧で包まれた体にも、足にも、同じ傷が残っているのだろう。だから海で泳がなかった――いや、泳げなかったんだ。知らなかったとはいえ、己の迂闊さに唇を噛んだ。

 

「父親と使用人たちは、俺を気にしつつも母親を止められなかった。何しろ獣人の血を引いているからな。暴れられれば誰も太刀打ちできない。それでも唯一の後継ぎに死なれては困る。恐る恐る包帯を巻かれるたびに思ったよ。『いっそ殺してくれ』って」


 自嘲気味に笑うロイに胸がひどく傷んだ。それでも、その先を望んだ。己の傷を曝け出してくれる彼から、目を逸らしてはいけないと思ったから。

 

「その状況が変わったのは俺が五歳のときだ。妹が生まれた。俺と違って父親に似た容姿だ。どうなるかわかるだろ?」


 暴力の代わりに与えられたのは無関心だった。誰も彼もロイを忘れたように、妹にかかりきりになった。


 孤独に耐えられなくなったロイは、母親たちが席を外した隙を見計らって眠る妹に近づいた。危害を加えるためではなく、ただ純粋に妹の顔が見たくて。


 誤算だったのは母親たちがすぐに戻ってきたことだ。曇った母親の目には、虐げていたロイが大事な娘に手をかけようとしている姿に見えただろう。


「まるで子熊を連れた母熊だったよ。俺は三日三晩、生死の境を彷徨った。目を覚ましたときには、領地の森に住むドワーフ夫婦へ預けられることが決まっていた。夫婦には子供がいなくて、弟子を探しているところだったから」


 ドワーフ夫婦はロイに優しかった。私がルビィに生きていく術を教わったように、ロイも多くのものを夫婦から受け継いだ。


 それでも、本当の家族というわけにはいかなかった。どれだけお互いを思い合っていても、不敬罪が存在するこの国では、貴族と平民の壁は高すぎたのだ。


「皮肉にも獣人の血を引く俺は、森の生活に適していた。狩りも鍛冶もすぐに上達したよ。むしろ夫婦以外に誰もいない森は、屋敷よりも居心地がよかった。このまま一生ここで生きていくのも悪くない――そう思っていた最中に、俺はシエルと出会ったんだ。まだ六歳のあいつと」


 ロイが預けられた森はブリュンヒルデ領との領境にあった。一応、小さいながらも領境を示す石標が置かれていたが、まだ幼いシエルは気づかず迷い込んでしまったらしい。


 初めて会ったシエルは小さくて、痩せていて、頬には涙の跡がいくつもあった。さすがに見て見ぬ振りできず、小屋に招いてホットミルクを差し出したときも、おどおどと周囲を見渡していた。


 森で暮らすうちにすっかり人見知りになったロイは、シエルの事情を何も聞かなかったし、シエルもまた何も言わなかった。ただ、お互い同じ傷を抱えたもの同士だとはなんとなくわかった。従兄弟だと知ったのは後の話だ。


 それから二人は事あるごとに顔を合わせるようになった。成長していくにつれて、ロイはさらに人見知りに磨きがかかり、シエルは笑顔の仮面を被ることを覚えた。その頃にはお互いの事情も全て承知していたが、紡いだ絆が綻ぶことはなかった。


「命を助けられたとか、助けたとか、そんな大きな理由は特にないよ。ただ二人とも、他に寄り添う相手がいなかっただけだ。俺たちは似たもの同士で、同じ傷を抱えてた。お互い、そばにいると居心地が良かったんだ。だから、シエルがグランディールに向かうと決めたとき、騎士になってついて行くと決めた。それが今も続いてる」


 ああ、と心の中で嘆息した。アリステラで同じ匂いを感じ取ったのは間違いではなかったのだ。


 私も同じ傷を抱えている。それを無意識に感じ取っているから、二人は私に居場所を作ろうとしてくれているのかもしれない。


 いっそ全てを話してしまおうか。一瞬そう思ったけれど、ひりついた喉は言葉を吐き出してはくれなかった。


「俺が森で暮らしている間に、父親が病気で死に、意気消沈した母親も死に、領地は妹が継いだ。妹には一度も会ってない。今後も会うことはないと思う。向こうは俺の存在を知らないだろうし」


 コーヒーを飲み干したロイが、ふうと息をついてカップを脇に置いた。そして私に右手を伸ばすと、まるで壊れ物を扱うような手つきで頬を撫でた。


「ごめんな、こんな話をして。泣かせたいわけじゃなかったんだ」


 そのとき初めて、頬が涙で濡れていると気づいた。空っぽのコーヒーカップに透明な雫が落ちる。それを掬い上げるように、ロイは頬の手を顎に滑らせると、名残惜しそうに手を離した。


「そろそろ寝た方がいい。夜が明けたら起こすから」

「……うん」


 地面にカップを置き、鼻を啜りながらテントに戻る。シエルは小さく体を丸めて、安らかな寝息を立てていた。


 その脇に座り、顔にかかった髪をそっと払う。


 普段は見せないあどけない寝顔。突き出た喉仏も、ペンだこだらけの硬い手も、確かに男のものなのに、何も知らない子供のように見えるアンバランスさ。


 ロイはずっと、この寝顔を見つめてきたのだ。己の傷を抱えたまま。


 二人の関係は共依存と言えるものなのかもしれない。けれど、不意に触れたロイの過去も、シエルが抱えた仄暗い過去も、私にとっては泥の中に咲く蓮のように尊いものに思えた。


 傷を抱えながらも、二人は前を向いて進んでいる。花を咲かせることを諦め、逃げ出した私にできることは何もない。


 それでも、穏やかな夢を願わずにはいられなかった。パールが核を得た日に、アイスブルーの月に乞うたように。

 

「――良い子ね、シエル。何が襲ってきても、私たちが守ってあげる。だから安心して休んでいいのよ」


 起こさないように、そっとシエルの頭を無でる。猫の毛みたいに柔らかい感触が手のひらに伝わってくる。


 今が夜でよかった。


 傷も涙も覆い隠して、夜は平等に更けていくものだから。





 

 夜が明けたら起こすと言ったのに、結局ロイが最後まで見張りをしていた。危険だらけの森の中で、唯一の前衛に無茶をしてもらっては困る。出発を遅らせて無理やり仮眠させたけど、腹立ちは収まらなかった。


「なんで叩き起こしてくれなかったの? 遠慮しないでって言ったのに」

「あー……。正気でいる自信がなかったから」

「どういうこと?」

「まあまあ。過ぎたことはいいじゃん。とりあえず朝ごはん食べよ」


 首を傾げる私と、何故か目を逸らすロイの間にシエルが割って入る。エルフの血を引くから森の中だと調子がいいのか、それとも朝までぐっすり眠れたからか、いつもより元気そうだった。


「今日はどのくらい進むの?」

「そうだなあ。できれば最奥まで進みたいけど――」


 そのとき、シエルとロイが同時に森の奥に目を向けた。釣られて私も向けるが、そこには鬱蒼とした木々が生い茂っているだけに見えた。


「何? 何かいるの?」

「わからない。森がひどく騒いでるんだ。ロイも何か感じる?」

「森の匂いに混じって何か香ってくる。これは……」

 

 ロイが私たちから離れた瞬間、背後の茂みが大きく音を立てた。何か巨大な白いものがシエル目掛けて飛びかかってくる。


 魔法を使う暇はなかった。咄嗟に体を滑り込ませて、シエルの盾になる。飛び出してきたものがポチと同じ三つ首の魔犬(ケルベロス)だと気づいたときには、私の体は大きな口に咥えられていた。


「サーラ!」


 ロイとシエルの悲鳴が聞こえる。


 それに応えるよりも早く、鋭く尖った牙に胸を圧迫されて、私は意識を手放した。

種族が多い故に、因子の悲劇は度々起こります。割合の合計を10とすると、下記のような感じです。


シエル=ヒト5.01(母親)+エルフ4.99(父親)

ロイ=ヒト5.1(父親)+獣人4.9(母親)


ロイの母親もヒト5.1+獣人4.9です。父親はヒト10なので、本来ならロイはヒト種の見た目で生まれる確率が高いはずでした。


さて、次回サーラの運命はいかに。

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