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22話 私はそんな善い人間じゃない(だから優しくしないで)

 古びた玄関の前に立っている。


 今どき珍しい銀色の丸ノブを捻ると、油の切れた蝶番が嫌な音をたてた。玄関で靴を脱ぎ、煤けた畳の上に足を踏み出す。


 右手には薄汚れたキッチン。奥には仰々しい祭壇。六畳一間の安アパートの中には、寂寥と、欺瞞と、言いようのない惨めさが澱のように横たわっていた。


 部屋を見渡してもあいつはいない。いない隙を狙って来た。二度と戻らないために。


 日に焼けた押入れを開け、今日のために隠しておいたリュックを取り出す。中には当面の生活費と、ささやかな着替えが入っている。必要なものはそれだけだ。あとは全て捨てていく。


「さよなら、カミサマ。これでお別れかと思うとせいせいするわ」


 澱の中に毒を吐き捨て、靴を履き、扉を開ける。希望に満ちあふれた光が差し込むと思いきや――対峙したのは昏い闇だった。


「あなた、どこに行くつもりなの。家を出て就職するってどういうことなのよ」


 闇はキイキイ声でがなり立てた。お教会とやらから駆けつけて来たのだろう。


 バラした誰かに心の中で呪いをかける。世の中にはお節介な奴が大勢いる。親子の諍いを解消してやろうなんて奴が。


「どこでもいいでしょ。放っておいてよ。私はもう大人なの。あんたの指図なんて受けないわ」

「なんてこと……! 誰がここまで育ててやったと思ってるの! ママを捨てていくっていうの? あなたのために、どれだけ人生を犠牲にしたと思ってるのよ!」


 抉るような胸の痛みには気付かないふりをして平静を装う。動揺したら負けだ。


 こいつはいつもこうやって私を縛ってきた。他人の悲しみを理解できない冷たい人間だと。自分のことしか考えない醜い人間なのだと。何度も、何度も、何度も。

 

「知らないわよ。自己犠牲は美徳なんでしょ。いつも言ってるじゃない。――どいて。もう行くわ」

「待ちなさい! 許さないわよ! あんたみたいな冷たくて醜い子、どこに行ったって上手くやっていけないわ。感情ってものがないの? この人でなし! あんたはいつか一人ぼっちで死ぬのよ!」


 どっちが、と呟いた言葉は声にならなかった。


 震える唇を噛みしめ、喚く闇を押し除けて外に駆け出す。


 そう。私は逃げた。あの女から。私を縛る全てのものから。そして、ずっと逃げ続けている。


 どこに行けばいいのかもわからないまま。






「……あれ」


 まず視界に入ったのは真新しい天井だった。綺麗に揃った木目が私を見下ろしている。


 壁にかかっているのはミントグリーンのローブ。近くの机には見慣れた筆記具が並んでいて、隅には黄緑色の魔鉱石がついた長杖がひっそりと立てかけられていた。


「私の部屋……」


 そう声を出した途端、思いっきりむせた。まるで何日も水を飲んでいないように喉が干上がっている。


「サーラ!」

「サーラさん!」


 至近距離から上がった声にびくりと体がすくむ。ロイとミミだ。ベッドの脇に座っていたらしい。状況を把握するのに意識を取られて全然気づかなかった。


「わ、私、レーゲン先生呼んできます!」


 ミミがまさしく脱兎のごとく駆けていく。残されたロイは、ただ私を見下ろしている。


「ロイ……? 私……」

「この馬鹿!」


 顔を真っ赤にしたロイが私の胸ぐらを掴んだ。


「死ぬなよって言っただろ! なんであんな無茶するんだよ!」

「いや、死んでない……。生きてるってば……。ここ、精霊界じゃないでしょ……?」


 精霊界は元の世界でいうあの世だ。人は死ぬと精霊になって精霊界を旅し、やがてまたこの世界に生まれてくるという。エルネア教の教えでは女神はそれを統括する存在になっている。

 

 胸元を締め上げる手を制止しようかと思ったが、体が動かなかった。怖いからではない。険しく細められたロイの目に涙が浮かんでいたからだ。

 

「もう目を覚さないかと……」

「……ごめん」


 素直に謝ると、ロイは胸元から手を離して私を抱きしめた。男の人に抱きしめられるのは初めてなので、どうしていいのかわからない。これ、仲間としてのハグよね?


「サーラ!」


 戸惑っているうちに、シエルとレーゲンさんが駆けつけて来た。私に縋り付くロイを見て一瞬怯んだようだったが、そのまま二人がかりで引き剥がして丸椅子に座らせる。


 シエルはひどくやつれていた。目の下のクマも酷い。空いた椅子に座ったレーゲンさんが、私の顔を覗き込む。


「この寝ぼすけめ。俺が誰かわかるか?」

「レーゲンさん……」

「最後に何があったかは?」


 瞼に映る記憶はタコの頭に置いた右手と眩い白光だ。そう話すと、レーゲンさんは「記憶は飛んでねぇみたいだな」と頷いた。


「あんたはクラーケンを倒して力尽き、そのまま川に落ちた。すぐに回収して、ここに戻って来てから三日経ってる」

「三日も? え? その間の介護は誰が……」

「ミミとアルマだよ。あとでお礼言っとけよ」


 ドアの外で心配そうに佇むミミに目を向ける。まさか子供に介護されるとは。本当に申し訳ない。


「念入りに調べたが、あんたに外傷はなかった。倒れた原因は魔素欠乏症――魔力の使いすぎだよ」

「これが魔素欠乏症……。初めてかかったわ。目を覚ましたってことは、魔力が回復したのよね?」

「氷属性はな。聖属性は精神力。魔力と違って量を計れねぇから、なんとも言えねぇ。しばらく聖属性の魔法は使うなよ」


 魔素欠乏症とは、属性を維持するための魔力量を下回るほど急激に魔力を消費したときにかかる病気だ。


 消費量によって症状の度合いは変わり、軽度の場合は眩暈や吐き気が起き、重度の場合はそのまま昏倒してしばらく寝込む。私は重度だったのだろう。三日も寝てたぐらいだから。


「とんでもねぇ女だな、あんた。聖属性で威力を底上げしたとはいえ、クラーケンが氷にぶち抜かれたのは初めて見たぜ。あれだけの魔法、連発されたらグランディール中が氷のオブジェになっちまうわ。杖が安全装置の役割を果たしてたってわけか」

「魔法使いは切り札を隠し持つものだからね。杖で目標を定めないと、つい魔力を込めすぎちゃうの」


 何度ルビィに怒られたことか。だから私は魔法紋師の道に進んだのだ。魔法紋なら魔力を流すだけで魔法が使えるから。


「ええと……。あのあと、どうなったの? ルビィ村は無事? 田んぼは?」

「無事だよ。あとはご領主様に聞け。俺は診療所に詰めてるから、何かあればすぐに言えよ」


 立ち上がったレーゲンさんが、ミミを連れて部屋を出ていく。残されたのは重い沈黙だ。さっきまでレーゲンさんが座っていた椅子にシエルが腰を下ろし、膝の上で両手を組む。

 

「まずはありがとう。君のおかげで何もかも助かった。でも……何が言いたいのかわかるよね」

「……ごめんなさい、殴った上に命令を破って。すぐに荷物をまとめて出て行くわ」


 クビ覚悟でやったのだ。悔いはない。また気ままな一人旅に戻るだけだし。


「どうしてそうなるの。僕たちが恩人を追い出すような人間に見えるの?」

 

 ベッドから下りようとする私を押し留め、シエルが唸るように言う。冷静さを保とうとしているが、荒れ狂う感情が今にもあふれそう――そんな目をしていた。


「僕たちが言いたいのは、どうしてあんな無茶したのかってこと。自分さえ犠牲になればいいって思った?」

「違うわ。私、そんなにお人好しじゃないもの。あそこにいた人たち、私が聖属性だって知ってたでしょう。あれで逃げたら悪者扱いじゃない。ただ私は保身のために……批判されないために動いたのよ」


 半分嘘で、半分本当だ。私はただ守りたかった。自分を、そしてシエルの目の前に映る景色を。


「そうだとしても、僕たちは君が心配なんだ。倒れてまで他人の期待に応えてほしくない。批判なんて気にしないでよ。それを跳ね除けるのが僕の仕事だし、そもそも自分にできないことを誰かに任せて責めるのはおかしい。そうでしょ?」

「……なんで? なんで、そんなに優しくしてくれるの? 聖属性は珍しいから? 事務仕事もできるから? でも、私じゃなくたって……」

「君がいいんだ。重荷になっちゃいけないと思って黙ってたけど……。僕たちは君にいてほしいんだよ。開拓が終わっても、ずっと」


 息が詰まった。どう返していいのかわからなかった。だから正直に口にした。いつもならただ飲み込んでいただけの言葉を。

 

「わからないわ……。だって、そんなに大したことした覚えがないもの。腕は多少立つかもしれないけど、熟練の探索者に比べたら雑魚よ。可愛くもないし、ナクトくんやアルマさんみたいな善人でもないわ。だから、そんなに優しくされると……」


 怖いの、と呟く私の両手をシエルが握る。初めて会ったときのように力強く。


 ……温かい。まるでルビィの手みたいに。

 

「わからなくていい。ただ知っていて欲しいんだ。僕たちが君を大切に思ってるってことを。今すぐじゃなくていい。もし君がここにずっと居たいと思ってくれるなら、いつでも受け入れる準備はできてるから」


 最後にもう一度だけ強く手を握って、シエルは部屋を出ていった。


 足音が徐々に遠ざかっていく。それでも、ぬくもりはずっと手の中にあった。


「……ごめん、サーラ」


 ロイがぽつりと呟く。

 

「何がごめんなの?」

「胸ぐらを掴んだから」


 ふ、と口元を緩め、項垂れるロイの頭を撫でる。いつもなら絶対にしないことだ。


 求められて絆されたわけじゃない。ただ――私の右手首で光る金色のボタンが、とても綺麗に見えたから。


「いいわよ。怪我をせずに済んだのは、きっとロイのプレゼントのおかげだからね」


 ロイがゆっくりと顔を上げる。夜空に浮かぶ満月みたいな瞳で、まっすぐに私を見つめる。


 彼の目に、私はどんな風に映ってるんだろう?


 そう思ったとき、ロイが真剣な表情で口を開いた。


「……俺、サーラは可愛いと思う」

 

 思わず吹き出した。真剣な顔で何を言うのかと思えば、いつの間にそんなお世辞を覚えたんだろう。


「なんで笑うんだよ」


 不服そうに唇を尖らせるロイに、私は大きく声を上げた。


「ありがと!」

仕事を引き受けるたび、サーラが給料のためと嘯くのは無意識に母親が喜ぶ行為(自己犠牲や献身)を忌避しているからです。


バラしたのは教師か、クラスメイトの親。


次回、クラーケンの後始末をつけに行きます。

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