20話 事件は突然起きるもの(事前にわかってたら防げるのに)
執務室の机で書類仕事をしながら、窓の外を眺める。雨の中でも職人たちは元気そうだ。揃いのレインコートを着て、口々に威勢のいい声を張り上げている。
六月も中旬に入り、グランディール領は少しずつ開拓が進んできた。領主館はまだ完成していないが、周りにはいくつか店が建ち始めている。ハリスさんのおかげで徐々に街道が整備され始めたので、人の行き来も頻繁になってきた。
今も新規の移住希望者がシエルと面談している。帝都でレストランを営んでいたという、黒猫の獣人夫婦だ。最近の物価高と地代の高騰に押されて店の継続が難しくなり、グランディール領で心機一転しようと考えたらしい。
ただ、手持ちが少ないので店の建設費用は捻出できず、屋台という形で営業許可をくれないかということだった。
「そうですね……。いずれ市内にアリステラのようなフードコートを作るつもりでしたから、出店いただくのは構いませんよ。ただ、まだ店鋪が出揃っていないので、少し先の話になります。よろしければ、それまで領主館の専属料理人になりませんか? 今は従業員が交代で作ってくれているんですが、そろそろ手が回らなくなってきまして」
「え? でも、あたしらは貴族様のお口に合う料理なんて……」
「ご冗談を。あなた方が開いていた『猫の尻尾亭』は古代食から異国の料理まで幅広く提供する人気のレストランでしょう。塔の聖女様もお忍びで通っているともっぱらの評判でしたよ。帝都の貴族たちも、あなた方を手放すなんて馬鹿なことをしたものです」
黒猫夫婦は虚を突かれたような顔をした。
古代食とは初代聖女が好んで食べたとされる料理で、いわゆる伝統的な和食だ。それに洋食、フレンチ、イタリアンを混ぜこぜにしてルクセン国民好みの味付けに魔改造したものがルクセンの国民食である。
「仕方ないです。あたしら獣人だし……。こっそり食べに来てはもらえたかもしれないけど、出資者になってくれる人はいなくて……」
「ここは種族混合のラスタに一番近い領地です。領民にも獣人は多いですよ。偏見がないとは言いませんが、他所の領地に比べれば住みやすいと思いますし、僕も種族の垣根を越えた多様性豊かな領地を目指しています」
よほど欲しい人材なのだろう。たらし込みにかかっている。
仕事をする振りをしながら様子を伺うと、黒猫夫婦は無事に専属料理人の雇用契約を結んだみたいだった。
旦那さんの方はクロビス。奥さんの方はネレイア。歳はレーゲンさんと同じく三十二歳だそうだ。
「住居は完成したばかりの従業員寮がありますので、そちらをお使いください。女中のミミが案内します。まだ子供ですが、しっかりした子ですから、何か困ったことがあれば気軽に相談してください」
何度も頭を下げながら退室していく黒猫夫婦に手を振り、締結したばかりの雇用契約書を大切に引き出しに仕舞い込む。
この位置だと背中しか見えないので表情は窺い知れないが、きっと満面の笑みを浮かべているのだろう。普段は出ない鼻歌まで歌っている。
「よかったわね。料理人ゲットできて」
「本当にラッキーだったよ。あの人たちの料理、帝都で一度食べたことあるんだけど、めちゃくちゃ美味しかったんだ。これでサーラの負担も少し減るね。今までありがとう」
「今際の際みたいなことを言うのはやめてよ。料理ぐらいいつでも作るわよ」
「ほんと? じゃあ、またおにぎり作って。サーラのが一番美味しいんだよね」
また余計なことを言ってしまった。苦笑しながら席を立ち、小棚の上に置いていた紅茶を淹れる。魔法紋でポットを保温しているのでまだ温かい。
「ありがとう。徐々に領民も増えてきたね。そろそろ新しい村を作ることも考えなきゃなあ。北側の村の跡地はどれも完全に廃墟になってたし、ピグたちみたいな不法滞在者もいなかったしね」
「森の調査もできてないもんね。人手が足りなくて」
「それもあるけど、夏は魔物が活発化するから、できれば秋に行きたいんだよね。何が収穫できるのかも知りたいしさ。そのときは頼むよ」
仕事が際限なしに増えていく。けれど、雇用契約書にサインしたのは自分なので仕方ない。
賃金の高い騎士や傭兵を雇うだけの余裕はないし、そもそもグランディール領の規模なら騎士団を形成するほどでもない。領付きの探索者組合が開設されるか、領民から雇用した自警団が組織されるまでは、私とロイが頑張るしかないのだ。
「ここに来て大体一ヶ月半ぐらいか……。髪の毛、だいぶ伸びたね」
見事な金髪を見下ろす。最初に会った頃は肩につくかつかないかぐらいだったが、今は鎖骨あたりまで伸びている。前髪も目にかかって、いかにも邪魔そうだ。
「そうだなあ……。アマルディに行くのも面倒だし、ここで切ってくれない? 元の長さに揃えてくれるだけでいいから」
「えっ、なんでよ。ロイに頼めば?」
「ロイは雑なんだよ。あの頭見ればわかるでしょ」
確かに。ロイの髪型はよく言えば無造作ヘア、悪く言えばボサボサだ。鍛冶仕事は丁寧なのに不思議なものだ。
「もー……。切り揃えるだけだからね。変になっても文句言わないでよ」
念を押して机の上に大きめの鏡を置き、鋏を持つ。私も節約のため自分の髪は自分で切っているが、人の髪の毛を切るのは初めてだ。
括り紐を解き、ごくりと喉を鳴らして刃を入れると、金糸のような髪がはらりと床に落ちた。
「綺麗なのに、勿体無い……。これ以上、髪伸ばさないの?」
「昔はもっと長かったんだよ。女の子みたいで嫌だったんだけど、切るの許してもらえなくてさ。見た目を近づけても、エルフになれるわけじゃないのにね」
鋏を使う手が止まった。鏡の中のシエルは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。けれど、その瞳にはアリステラのフードコートで見せた曇りがあった。
シエルが今までどう生きてきたのか、私は何も知らない。自ら話してくれるまで聞くべきではないと思っている。
誰しもアルみたいに恵まれた環境にいるわけではないし、下手に傷を広げる真似はしたくなかった。私には物語の主人公みたいに人の心を癒すスキルはないから。
できることは、ただ話を聞くことだけ。……だから冷たいって言われるのかもしれない。
「母さんが死んだときに短くしようかと思ったんだけど、まだそこまで思い切れないんだ。笑ってくれていいよ」
「……笑わないわよ」
それ以上シエルは何も言わなかった。しゃき、と鋏を動かす音だけが二人の間に響く。
窓の外はざあざあと雨が降り続いている。
六月は水の季節。元の世界の梅雨みたいなもので、一ヶ月に渡り、雨の日が続く。風魔法が使えるからいいものの、この期間は洗濯物が乾かなくなるので辛い。スライムはその分、元気だけど。
「――はい、できた。どう?」
「うん。いい感じ。ありがとう。また伸びてきたら切ってくれる?」
「考えとくわ。……そういえば、ロイの誕生日もうすぐよね。私のときみたいに誕生日会するの?」
肩についた髪を払って、あえて明るい口調で言うと、シエルは「そうだなあ」と会話に乗ってきた。本当にこの子は大人だ。たまに不安になるくらい。
「あんなに賑やかなのは絶対嫌がるだろうから、僕たちだけでしようか。場所は別館の居間で、料理は黒猫夫婦に作ってもらって」
「えっ、私も賑やかなの苦手だったんだけど……」
「知ってる。あれはほら、田植えの打ち上げも兼ねてるんだよ。宴会や祭りは領民の心をまとめるのに役立つからね」
つまり利用されたわけだ。「本当にしたたかねえ」と唇を尖らせる私に、シエルが笑い声を上げた。
「お祝いしたいと思ったのは本当だよ。感謝もしてるし」
「大したことしてないけどね。今のところ危険な魔物もいないし、申し訳ないぐらい――」
そのとき、身の毛もよだつ咆哮が上がり、窓ガラスがビリビリと震えた。直後に二回目の咆哮。さっきは南の方からだったが、今度は北からだ。雨音に混じって職人たちの怒声も聞こえる。
間髪入れずに外に飛び出したシエルのあとに続く。みんな渡し船の桟橋を目指しているようだ。河岸にはたくさんの人が集まっていた。その中に唸るポチを連れたロイの姿を見つけ、シエルと共に駆け寄る。
「ロイ、何があったの? さっきの声は?」
「わからない。ポチが反応してるから、たぶん魔物だと思う。渡し船の従業員が言うには、大河の水嵩が異常に増してるって。今、空を飛べる奴らが状況を確認してる」
ロイの視線の先には、激しい雨にも負けず空を飛ぶ鳥人たちがいた。雨がひどいので、遠視用のゴーグルは役に立たない。そのうち、北から猛スピードで戻ってきた一人が真っ青な顔で叫んだ。
「クラーケンだ! クラーケンが北から近づいてくるぞ!」
エスティラ大河は南北の海に繋がっているため、海に棲む魔物も出現します。彼らは『海の魔物』ではなく、『水属性の魔物』なので、海水でも淡水でも生きられる個体が多いです。
次回、サーラが頑張ります。




