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第四話

 暗闇から目を開いた瞬間、飛び込んできたのは真白の天井だった。

 それが見知らぬ天井だという事にも気が付かず、マリアンナは異様な程に大きく、速く打っている自分の心臓の音が静まるように胸を押えた。

 もう片方の手で顔にかかるこげ茶の髪を払い、同じ色の瞳を細める。


(また、あの夢)


 婚約破棄をされてから、毎晩彼女は同じ夢を見た。いや、正確には同じではない。

 夢の基本は婚約破棄をされた時のマリアンナの記憶だ。だが、夢は全てが現実に忠実という訳ではない。少なくともあの場でマリアンナはナイフなど持っていなかった。

 だが、繰り返される夢の中でマリアンナは何が夢で、何が本当に起きた事なのかが、頭の中で曖昧になってきているような気がしていた。

 それが彼女には酷く恐ろしかった。


『憎め』


 怒りに満ちた暗く低い声。それが自分の心の声だとは思いたくない。

 夢の中でナイフを握りしめていた自分は、あの夢を見続けていたら何をしようとしていたのだろう?考えながらマリアンナは胸に押し当てた手のひらを握りしめる。

 夢は自分の欲求を写した鏡なのかもしれない。自分はあのナイフで憎い相手を刺してしまいたいのだろうか?

 現実と夢、両方に苛まれ続けて疲れたマリアンナは段々と自分の心が分からなくなっているのを感じていた。

 その時、静かに扉が開く音がして、横になったままマリアンナは首を横に向けた。扉からは二人の娘が入ってくる。一人は彼女の侍女であるフロラだった。


「お嬢様。お目が覚めたんですね。良かった!ご気分は悪くありませんか?」


 心配顔のままだが、ほっとしたようにこちらに近寄ってくるフロラに、マリアンナも人心地ついた気分になり、そして、急に自分が置かれている状況に混乱しだす。


「体調は大丈夫よ。それよりフロラ…私?」


 だが、基本的に頭の回転が速くないマリアンナから多くの言葉は出てこない。それを察するのが優秀な侍女の役目とばかりにフロラが言葉を続ける。


「大丈夫です。ここは危険な場所ではありませんので安心してくださいませ。マリーお嬢様、庭園でお倒れになった事は覚えていらっしゃいますか?」


 マリーというのはマリアンナの愛称で、家族や友達からは呼び捨てに、使用人たちからは親しみを込めて愛称に敬称を付けて呼ばれることが多かった。フロラは最近、マリアンナの侍女になったばかりだったが、彼女はすぐにマリアンナのことを『マリーお嬢様』と呼ぶようになり、マリアンナもそれを許していた。

 そんな彼女に言われて思い出した出来事に、マリアンナは顔を僅かに顰める。


「覚えていらっしゃるなら、説明は少なくてすみますね。あの後、お嬢様がお倒れになってしまって、……フィルガンド公爵令嬢の傍に従僕がおりましたので、その方がお嬢様を運んでくださったのです」

「ここは何処?」

「お嬢様が散策していた庭園を所有する方のお屋敷ですわ。お屋敷が近くにありますのと、公爵令嬢がその方とお知り合いだというので、お嬢様が休めるように手配してくださったのです」


 説明をゆっくりと頭の中で理解しながらマリアンナは体を起こした。すかさず、フロラが背中を支え、枕を背中の後ろに挟んでくれる。

 少しだけ頭が重い気もしたが、地面に倒れこんだはずなのに体は全く痛くない。倒れたと言っても柔らかい芝生の上だったからからもしれない。

 だけど、さすがにドレスは濡れてしまったらしく、コルセットも外されて下着と覚えのない寝衣を着ていたマリアンナは、触れるだけで分かる寝衣の上質な絹の手触りに、この屋敷の主の裕福さを感じ取り小さく息を吐いた。

 何しろあの迷路のような広大な薔薇の庭園を個人が所有しているというのだ(マリアンナはてっきり国が所有している物だと思っていた。それくらいの規模なのだ)、並みの貴族ではないだろう。

 マリアンナはそう考えて僅かに憂鬱になる。挨拶するのも緊張するし、噂の事もまた何か聞かれるかもしれない。


「そう。じゃあ、クリス様と屋敷の主…お名前は何とおっしゃるのかしら?」

「プリメーラ・ヴァトン様ですわ」

「ヴァトン?聞いたことのないお名前ね。ともかく、その方に謝罪とお礼を申し上げなくては、お会いすることはできるのかしら?ああ、でもドレスが汚れしまってはご挨拶もできないわね」


 体調が悪くない以上、ベッドで横になり続けているのは礼儀に適わない。だが、マリアンナは話している途中から倒れた時に汚れたであろうドレスを思い出して、困ったように眉をハの字にした。


「それでしたらご心配には及びませんわ。マリアンナ様」

「貴方は?」


 フロラと一緒に部屋に入ってきた娘が、ここにきて初めて声を発する。

 その存在に気が付いてはいたが、フロラが紹介してこないし、彼女の目が何となく冷たい気がしてマリアンナは自分から声を掛けられずにいたのだ。


「フィルガンド家でクリス様の侍女をしております。フェスタと申します」


 侍女?その言葉にマリアンナは首を傾げる。

 それまでフロラの影になってマリアンナからは見えていなかったが、フェスタと名乗った侍女は一見すればどうしたって侍女には見えなかったのだ。

 侍女と言えばフロラが着ている紺色のような暗い色で、スカート部分があまり膨らまず、飾りの少ないシンプルなドレスが一般的だ。

 どうして、そうなのかマリアンナは正しい答えは持たないが、恐らく動きやすい事と汚れが目立たない事、そして、主人より目立たない存在であることが侍女としての仕事であるからなのだろうと思う。

 現にフロラは良く見ると亜麻色の髪に深い緑の瞳が印象的な美人だが、容貌で劣る私が彼女と一緒にいても服装が華やかなだけで結局は私の方が目立つし、主人であることも一目瞭然になる。

 だが、フェスタはそれとは違った。

 彼女が着ているのは白と青のギンガムチェックのドレスで、飾りは少ないが、スラリとしたスタイルを際立たせるためか、上半身は腰の細さを強調するように生地が体の線にぴったりと沿い、スカート部分はフンワリと広がるデザインだった。

 更にふわふわ揺れる長いブロンドの髪は緩くドレスと同色のリボンで上の部分だけ結ばれ、大半は背中に流され、青い瞳が印象的な顔には淡い色合いで化粧が施されている。何処をどう見たって、侍女じゃなくて何処かの令嬢にしか見えない。


「このような格好でご不快に感じられましたら申し訳ありません。クリス様は暗い色をお好きではないため、侍女にもこのような華やかなドレスを着るように命じられているのです。ご不快でしたらすぐに着替えてまいりますが」


 思わずフェスタを凝視してしまったマリアンナの言いたいことなどお見通しの様で、丁寧だが感情のない声で告げられた言葉に首を横に振る。

 マリアンナも驚きはしたが、不快には感じなかった。彼女は基本的に美しいものを見るのが好きなのだ。


「でしたら、話を戻させていただきます。ドレスの事でしたらご心配には及びません。着ていらっしゃったものは、今、染み抜きをさせていただいていますので少々お待ちいただければ綺麗にお返しできます」

「そう。迷惑を掛けました。ありがとう」


 染み抜き程度で綺麗になる程度の汚れでよかったと胸を撫で下す。


「ですが、マリアンナ様さえよろしければ、すぐにプリメーラ様がお会いしたいそうです。幸いに貴方様が着るのにちょうどよいドレスがあるそうで、こちらの屋敷の使用人がお召し代えの支度をすませています」

「そう…なの。そちらにクリス様もいらっしゃるのかしら?」

「申し訳ありません。クリス様は所用にて既に屋敷を離れられております。ですが、マリアンナ様の事を心配されて、お世話をさせていただくために私をこちらに残して行かれたのです」


 聞いておいてなんだが、クリスの不在を聞いて明らかにほっとするマリアンナ。

 彼女が齎した良くは分からない同盟の話は、今マリアンナが最も思い出したくない記憶を呼び起こす類のものだ。せっかく、忘れようと努力しているのに。

 だが、これだけクリスに世話になっておいてお礼の一つもしないなんて、淑女として恥ずべき行為だとマリアンナは自らを奮い立たせる。(『淑女たる者、受けた恩は三倍にして返すべし』である)

 しかし、クリスが既にここにいないのであれば、いずれマリアンナからクリスを訪問する機会を作らなくてはならなくなった訳である。


(気が重い)


 思いながらそれを表に出さず、面倒なことは早めに済ませてしまうべきだろうと、とりあえずはマリアンナはフェスタの提案を受け入れて、屋敷の主であるというプリメーラと対面すべくベッドから降り立つことにした。

数日の間に評価やお気に入り登録をありがとうございます。とても励みになっています。

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