第9話 折れたモップと、地下室の不衛生な住人
バキッ。
乾いた音が、静まり返った生徒会室に響いた。
私は手の中にある物体を見下ろした。
右手に握られているのは、モップの柄の上半分。
左手にぶら下がっているのは、無惨にささくれた下半分と、床にダラリと垂れ下がった布部分。
「……あ」
やってしまった。
床の汚れを落とそうとして、つい力を込めすぎてしまった。
この学園の道具は、どうしてこうも脆いのだろう。実家のデッキブラシは、ドラゴンが踏んでも折れなかったというのに。
(どうしよう)
私は折れた柄の断面を合わせた。
くっつかない。当たり前だ。魔法で直す?
いや、ダメだ。
昨日の女神像の一件で懲りたばかりだ。私が魔法で直すと、モップが「聖なる清掃用具」とかになって、勝手に床を磨き始めたりしかねない。
物理的に交換しよう。
それが一番安全で、確実だ。
私は壁に貼られた「校内見取り図」を確認した。
現在地は本館三階。
備品倉庫の文字を探して指でなぞる。
『実習棟・地下一階 旧資材置き場』
ここだ。
少し遠いが、誰にも見られずに新品のモップを手に入れるには、人気のない地下倉庫が最適だ。
私は折れたモップを鞄に隠し(突き出ている部分はハンカチで覆った)、部屋を出た。
◇
実習棟の裏階段は、降りるにつれて空気が冷たくなっていった。
一段、また一段。
石造りの階段を下りるたび、鼻をつく匂いが強くなる。
カビと、湿った土と、どこか鉄錆のようなツンとする刺激臭。
(うわぁ……)
私は袖口で鼻を覆った。
空気が澱んでいる。換気が悪いのだろうか。
壁の松明も消えかかっていて、足元がおぼつかない。
「暗いなぁ」
私はポケットから小さな携帯ランプを取り出し、カチリとスイッチを入れた。
細い光の筋が、闇を切り裂く。
照らし出されたのは、蜘蛛の巣が張った石壁と、埃の積もった床だった。
床の上には、黒い煤のようなものがうっすらと漂っている。
(汚い)
潔癖症というわけではないけれど、これは酷い。
歩くたびに、黒い靄が足元で舞い上がる。
服が汚れそうだ。早く用事を済ませて帰ろう。
私は地図を頼りに、奥へと進んだ。
廊下は長く、左右にはボロボロの扉が並んでいる。
『第一倉庫』『教材室』などのプレートが傾いてぶら下がっているが、どれも鍵がかかっていたり、中に瓦礫が詰まっていたりで開きそうにない。
目指す『資材置き場』は、突き当たりだ。
ズズズ……。
不意に、低い音が聞こえた。
私は足を止めた。
ランプを掲げ、周囲を見回す。
「……何の音?」
配管だろうか。
古い建物だし、水道管の中に空気が入って唸っているのかもしれない。
あるいは、風の音?
グルルル……。
いや、違う。
もっと有機的な、濡れた雑巾を絞るような、あるいは大型犬が喉を鳴らすような音だ。
(ネズミかな)
嫌な予感が確信に変わる。
実家の納屋にもいた。カブを食い荒らす巨大なドブネズミたち。
彼らは暗くて汚い場所を好み、病原菌を撒き散らす厄介者だ。
この異臭も、きっとネズミの巣の匂いだ。
不衛生極まりない。
王立学院ともあろう場所が、こんな管理でいいのだろうか。
「……早く済ませよう」
私はスカートの裾を少し持ち上げ、足早に歩き出した。
ネズミと鉢合わせするのは御免だ。
廊下の最奥。
そこに、ひときわ重厚な鉄の扉があった。
表面には複雑な幾何学模様が彫り込まれているが、錆びついて赤茶色に変色している。
その扉の隙間から、黒い煙のようなものが、シューシューと漏れ出していた。
(うわ、めっちゃ埃が出てる)
換気扇が逆流しているのだろうか。
それとも、中で何かが腐っているのか。
私は顔をしかめながら、扉の前に立った。
『立入禁止』と書かれた古い札が床に落ちている。
まあ、倉庫なんて大体関係者以外立入禁止だ。私は生徒会(の雑用係)だから関係者だろう。
私はモップの代わりを探すために、重たい鉄のノブに手をかけた。
ギィィィ……。
鍵はかかっていなかった。
いや、正確には、鍵穴の部分が内側からの圧力で弾け飛んだように壊れていた。
扉が数センチ、開く。
ブワッ!!
濃厚な黒い風が、隙間から吹き付けてきた。
「けほっ、けほっ!」
私は思わず咳き込んだ。
臭い。
生ゴミを煮詰めて一ヶ月放置したような、強烈な悪臭だ。
目もチカチカする。
ランプの光を中へ向ける。
そこは、倉庫というよりは、巨大な空洞だった。
床一面に、黒いヘドロのようなものが広がっている。
そして、部屋の中央に、何かがうずくまっていた。
軽自動車くらいの大きさがある、黒い毛玉。
いや、毛玉ではない。
背中から骨のような突起が生え、鋭い爪を持った、巨大な獣だ。
それが体を丸め、ズルズルと何かを啜っている音を立てていた。
グルルルルゥ……。
獣がゆっくりと顔を上げた。
赤い目が四つ、暗闇の中でギロリと光る。
口からは涎と、黒いガスが漏れ出している。
(……でかっ)
私は冷静に分析した。
これは、ネズミではない。
狸でもない。
おそらく、野良犬だ。
王都の地下には、栄養状態の良すぎる野良犬が住み着いているとは聞いていたが、まさかここまで巨大化しているとは。
しかも、ひどく汚れている。
泥だらけで、毛並みもボサボサだ。
あんなに汚い体で校内を歩き回られたら、床掃除の手間が百倍になる。
獣が私を認め、低く唸りながら立ち上がった。
その殺気のようなプレッシャーが、空気をビリビリと震わせる。
普通なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すところだろう。
腰を抜かして、食べられるのを待つのが正解かもしれない。
けれど、今の私は違った。
私の脳内を支配していたのは、恐怖ではなかった。
「折れたモップの隠蔽」というミッションと、目の前の「不衛生な環境」に対する、主婦的な義憤だった。
(許せない)
こんなに汚して。
ここは神聖な学び舎の地下だぞ。
私は鞄から、折れたモップの柄(上半分)を取り出し、手の中で構え直した。
そして、もう片方の手で袖をまくり上げる。
「……掃除、しなきゃ」
見つけてしまったからには、放置できない。
この特大のゴミ(野良犬)を追い出して、黒い汚れをピカピカに磨き上げるまで、私は帰れない。
獣が大きく口を開け、咆哮の予備動作に入った。
私もまた、深く息を吸い込み、腹に力を入れた。
やるなら徹底的にだ。
「洗浄」魔法のフルコースをお見舞いしてやる。
暗い地下室で、私と巨大な汚れ(魔獣)との、孤独な清掃活動が幕を開けようとしていた。




