第8話 真夜中の接着剤と、輝きすぎた女神像
翌朝の教室は、異様な熱気に包まれていた。
いつもなら眠そうな顔で挨拶を交わすクラスメイトたちが、今日は机の周りに集まり、興奮した様子でひそひそと話し込んでいる。
「見たか? あれ」
「見た見た! 嘘みたいにピカピカだった!」
「絶対に精霊様の仕業だよな……」
「いや、宮廷魔導師団が極秘に結界を張りに来たに違いない」
私は自分の席に座り、教科書を机の中に押し込みながら、聞き耳を立てた。
心臓が嫌なリズムで跳ねている。
(……精霊様?)
嫌な予感がする。
背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
彼らが話しているのは、十中八九、あそこのことだ。
中庭にある、古い噴水広場。
私は思わず、窓の外を見た。
ここからは見えないけれど、校舎の裏手にあるあの中庭で、昨日の夕方――正確には、生徒会室での「補習」が終わった後の帰り道――私が何をしたか。
記憶が、鮮明に蘇る。
◇
昨日の夕暮れ時。
私は疲れ果てていた。
殿下の計算ドリル(国家予算の修正)をクリアし、ほうほうの体で寮へ戻ろうとしていた時のことだ。
中庭を通りかかると、噴水の中央に立つ女神像が目に入った。
「嘆きの女神」と呼ばれるその石像は、長年の風雨に晒され、鼻が欠け、翼は折れ、全身が苔むしていた。
それだけなら、ただの古い像だ。
けれど、私が通り過ぎようとした時、女神像の足元に、新しい亀裂が入っているのに気づいてしまったのだ。
『ピキッ』
そんな音が聞こえた気がした。
(……あ)
私は立ち止まり、青ざめた。
もしかして、私だろうか?
今日一日、校内で魔力を漏らしまくっていた(と思っている)私だ。
その余波が、こんな古い石像にトドメを刺してしまったのではないか?
もし明日、この像が崩れ落ちていたら。
「昨日、ここを通ったエヴァレットが怪しい」と犯人探しが始まるかもしれない。
魔力測定器に続いて、女神像まで破壊したとなれば、今度こそ退学だ。
(直さなきゃ)
周囲を見回す。
誰もいない。夕闇が迫り、カラスが鳴いているだけだ。
私は女神像の前に立ち、杖を取り出した。
実家で壊れた納屋を直す時に使っていた、生活魔法の応用。
イメージは「接着剤」。
割れた箇所を繋ぎ、欠けた部分を補う。
「……リペア」
小さく呟き、魔力を注ぐ。
少し多めにしよう。
古いから、普通の修復だけじゃすぐにまた壊れてしまうかもしれない。
石の密度を上げて、表面をコーティングして、ついでに汚れも落として……。
ジュワァァァ……。
光が収まると、女神像は白くなっていた。
苔が落ちて、さっぱりしたように見えた。
「よし、これで大丈夫」
私は満足して、誰にも見られなかったことを確認し、その場を走り去ったのだ。
◇
……はずだった。
私は教室を抜け出し、小走りで中庭へと向かった。
確認しなければならない。
私の「接着」が上手くいったかどうか。
もし接着剤がはみ出していたり、変な形にくっついていたら、こっそり修正しなければ。
角を曲がる。
中庭の入り口が見える。
そこには、黒山の人だかりができていた。
(えっ?)
生徒だけじゃない。教師までいる。
何事だろうか。
私は人ごみの隙間から、恐る恐る中を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
「…………なに、あれ」
そこにあったのは、私の知る「嘆きの女神像」ではなかった。
形状は同じだ。
慈悲深い表情で水瓶を抱える、翼の生えた女性。
けれど、質感がまるで違う。
輝いていた。
物理的に、発光しているように見えるほど、純白の石肌が艶めいている。
朝日に照らされ、その表面は大理石というよりは、巨大な真珠かオパールのように七色の光沢を放っていた。
折れていたはずの翼は完璧な曲線を描き、欠けていた鼻筋はシャープに整い、何より――
「水が……光ってるぞ」
「聖水だ! これ、高濃度の聖水になってる!」
誰かが叫んで、噴水の水を掌にすくっている。
水瓶から溢れ出る水が、キラキラと金粉を散らしたように輝き、周囲に清浄な空気を撒き散らしていた。
(やりすぎた……!)
私は柱の陰に隠れ、頭を抱えた。
汚れを落としすぎた。
コーティングを厚くしすぎた。
おまけに、カビが生えないように「浄化」の付与を込めたせいで、ただの地下水が聖水フィルターを通したみたいになってしまったらしい。
「ありえない……この石材の純度、ダイヤモンドに近いぞ」
「『時の逆行』魔法か? いや、それ以上の『物質再構築』だ」
「伝説の錬金術師が夜中に訪れたに違いない」
「いや、これは女神の奇跡だ! 拝んでおこう!」
生徒たちが手を合わせ始める。
教師たちが深刻な顔で魔力計をかざしているが、針が振り切れて壊れているのが遠目にも見えた。
まずい。
非常にまずい。
「ちょっと直しました」で済むレベルではない。
これはもう、文化財の改竄だ。あるいは宗教的な奇跡の捏造だ。
私がやったとバレたら?
「女神の生まれ変わり」とか変なあだ名をつけられて、一生拝まれる生活?
あるいは「国宝損壊罪」で投獄?
どちらにしても、私の「平穏」とは真逆の未来しか見えない。
「……逃げよう」
私は一歩、後ずさった。
知らぬ存ぜぬだ。
私は何も見ていない。
昨日の夜は、部屋で大人しく寝ていた。そう、夢遊病の誰かがやったに違いない。
そっと背を向け、抜き足差し足でその場を離れようとした時。
「――リュシア君?」
背後から声をかけられた。
ビクリと心臓が跳ねる。
振り返ると、眼鏡をかけた初老の教師が立っていた。
魔法史を担当している、厳格そうな先生だ。
「あ、おはようございます……」
私は引きつった笑顔で挨拶した。
バレたか?
今の挙動不審な動きを見られたか?
教師は眼鏡の位置を直し、私の肩越しに、光り輝く女神像を見た。
「君も、あれを見に来たのかね」
「は、はい。すごい人だかりだったので、何事かと」
「ふむ。……実に不思議だ。昨日の夕方までは、崩れかけの瓦礫同然だったのだがね」
教師は探るような目で私を見た。
「昨晩、この近くを通ったりしなかったかね?」
「い、いいえ! 私は寮に直行しました! 一歩も外に出ていません!」
食い気味に否定する。
必死さが裏目に出ていないことを祈るばかりだ。
教師はしばらく私をじっと見つめていたが、やがてふっと相好を崩した。
「そうか。いや、すまない。君のような新入生に、あれほどの高等魔法が使えるはずもないか。……あれは、おそらく学院に古くから住まう『善き精霊』の仕業だろう」
「せ、精霊、ですか?」
「うむ。学び舎を愛する精霊が、見るに見かねて直してくれたに違いない。……そうでなければ、説明がつかんからな」
教師は「説明がつかん」の部分を強調して言った。
どうやら、あまりに現実離れした現象すぎて、人間の仕業だと認めるよりはオカルトに分類した方が精神衛生上良いと判断したらしい。
「よかった。精霊さんのおかげですね」
私は胸を撫で下ろし、同調した。
そうだ、お化けのせいにしよう。
七不思議の一つ、「夜中に勝手に直る女神像」。
ロマンチックでいいじゃないか。
「では、予鈴が鳴りますので」
私は一礼し、逃げるようにその場を去った。
背中で、教師がまた何かブツブツと呟いている気配がしたが、絶対に振り返らない。
もう二度と、学園の備品には触れないと心に誓った。
もし今度壊れているものを見つけても、見なかったふりをしよう。
たとえ校舎が半壊していても、ガムテープで補修するくらいに留めておこう。
そう固く決意しながら、私は廊下を歩いた。
けれど。
その時の私は気づいていなかった。
私の「過剰な修復」によって、地下に眠っていたもっと厄介なモノの封印まで、ついでに刺激してしまったことに。
廊下の床下から、微かに、本当に微かに。
獣の唸り声のような重低音が響いてきたのを、私はただの空腹の腹の虫だと思って聞き流していたのだった。




