第5話 真紅の連撃と、ただ立っていただけの私
演習場の空気は、まだ焦げ臭い匂いを残していた。
授業が終わり、生徒たちが三々五々と校舎へ戻っていく中、私は杖についた土をハンカチで丁寧に拭き取っていた。
指先がまだ微かに震えている。
さっきの「石像消失事件」の動揺が収まらないのだ。
早く寮に帰ろう。
そして布団を頭から被って、今日のことは全部忘れよう。
そう決めて、鞄を持ち上げた時だった。
「――待ち遊ばせ」
凛とした、よく通る声が降ってきた。
私はビクリとして顔を上げる。
目の前に、真紅の髪を縦ロールにした少女が立っていた。
吊り上がった気の強そうな瞳。胸元には公爵家を示す獅子の紋章。
クラスでも一際目立っていた、ベアトリス・フォン・ベルンシュタイン嬢だ。
彼女は扇子のように広げた自分の杖を、切っ先鋭く私に向けた。
「リュシア・エヴァレット。貴女に決闘を申し込みます」
「……はい?」
私は目を丸くした。
決闘。
あまりにも物騒な単語に、思考が追いつかない。
「と、とぼけないでちょうだい。さっきのあれ……石像を一瞬で消滅させた魔法。あれを見せつけられて、黙っていられると思って?」
ベアトリス嬢は頬を紅潮させ、早口でまくし立てた。
その瞳はギラギラと燃えている。
(……怒ってる)
私は血の気が引くのを感じた。
やはり、さっきの失敗を見咎められたのだ。
由緒正しい公爵家の方からすれば、石像をどこかに飛ばしてしまった(と思っている)私の不手際は、学院の品位を損なう許しがたい行為だったに違いない。
これは「教育的指導」という名の制裁だ。
「貴女の実力が本物か、それともただのまぐれか。この私が暴いて差し上げますわ!」
「あ、あの、待ってください、私は……!」
「問答無用! 構えなさい!」
彼女は聞く耳を持たなかった。
周囲に残っていた生徒たちが、「おい、始まったぞ」「公爵令嬢と特待生(仮)だ」と騒ぎ出し、遠巻きに輪を作り始める。
逃げ場がない。
私は鞄を胸に抱きしめ、おどおどと後ずさった。
どうしよう。
戦う? 無理だ。
手加減ができない私が魔法を撃ち返したら、彼女を消し飛ばしてしまうかもしれない。
そんなことをしたら、エヴァレット家は明日にも取り潰しだ。羊たちは没収され、お父様とお母様は路頭に迷う。
(耐えるしかない)
サンドバッグになろう。
幸い、防御魔法なら多少は自信がある。
お爺様に山の上から岩を落とされた時に必死で覚えた、「皮膚ガード」がある。
「行きますわよ!」
ベアトリス嬢が高らかに叫ぶ。
彼女の杖の先に、真っ赤な魔法陣が展開された。
「炎よ、螺旋を描き敵を討て! フレイム・ランス!」
ドシュッ!!
空気を裂く音と共に、槍のような形状をした炎が飛んできた。
速い。
そして、熱い。
私の顔の真ん中を狙っている。
(ひっ……!)
私は反射的に目を瞑り、奥歯を噛み締めた。
身体中の魔力を、皮膚の表面に集める。
薄く、限りなく薄く。
服の下、肌の上一ミリのところに、見えない膜を張るイメージ。
来る。
当たる。
ガィィィン!!
硬質な音が響いた。
「……え?」
私は恐る恐る目を開けた。
痛くない。
熱くもない。
目の前で、炎の槍が弾け飛んでいた。
まるで、見えない鋼鉄の壁に激突したかのように、火の粉となって四散していく。
「なっ……!?」
ベアトリス嬢が目を見開いていた。
「無詠唱……!? しかも、障壁の展開が見えない……!?」
彼女は狼狽した様子で、再び杖を振るった。
「なら、これならどう!? フレイム・バースト!」
今度は爆発する炎だ。
私の足元に着弾する。
ドォォォン!!
爆風が巻き起こり、砂煙が舞い上がる。
周囲の生徒から悲鳴が上がる。
私は咳き込みながら、煙の中を手で払った。
(……びっくりした)
足元が少し暖かかった。
冬場にコタツに入った時くらいの温度だ。
私の靴も、靴下も、皮膚に密着させた「ガード」のおかげで無傷だ。
ただ、制服のスカートが風で捲れそうになったので、私は慌てて手で押さえた。
煙が晴れる。
私はその場に立っていた。
一歩も動かず。
煤ひとつつけず。
「…………嘘、でしょう?」
ベアトリス嬢の声が震えていた。
彼女の顔色は、さっきまでの紅潮が嘘のように蒼白になっている。
「私の最大火力を、直撃させて……防御魔法の光すら見せないなんて」
違うのです。
光らせると目立つから、透明にしているだけなのです。
お爺様が「光る障壁なんぞ、敵に位置を教えるようなものだ」と言って、光ると殴られたから癖になっているだけなのです。
「はぁ、はぁ……まだよ! まだ終わらないわ!」
彼女は肩で息をしながら、次々と魔法を放ってきた。
炎の矢。
炎の鞭。
炎の礫。
私はそのすべてを、ただ突っ立って受け続けた。
動けないのだ。
怖くて足がすくんでいるし、下手に動いてガードの隙間ができたら火傷をしてしまう。
だから、地蔵のように固まって、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
カンッ、キンッ、ガガガガッ!
私の周囲で、激しい音が鳴り続ける。
まるで雨あられだ。
でも、不思議と恐怖心は薄れていった。
彼女の魔法は見た目は派手だけれど、芯がないというか、お爺様の「岩石落とし」に比べれば綿毛のような軽さだったからだ。
(……そろそろ終わるかな)
私はぼんやりと、彼女の杖の先を見ていた。
これ以上長引くと、放課後の王太子殿下との面談に遅れてしまう。
そっちの方が百倍怖い。
「くっ……ぅぅ……!」
ベアトリス嬢の動きが鈍くなった。
杖を持つ手が下がり、膝がガクガクと震えている。
顔中汗だくで、呼吸も絶え絶えだ。
「なぜ……なぜ、攻撃してこないの……」
彼女が絞り出すように問うた。
「私なんて……相手にする価値もないと、言うの……?」
「え?」
違います。
反撃したら貴女が消し飛ぶからです。
あと、単純に喧嘩は校則違反だからです。
私が弁解しようと口を開いた瞬間。
カラン、と。
彼女の手から杖が滑り落ちた。
ベアトリス嬢は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。
両手を地面につき、肩を震わせる。
「……私の、負けよ」
消え入りそうな声だった。
「全魔力を使い切っても、貴女の髪の毛一本焦がせないなんて……。完敗だわ」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
私は慌てて駆け寄ろうとした。
魔力切れは辛い。頭痛がするし、酷い時は吐き気がする。
保健室に運んだ方がいいかもしれない。
けれど、彼女は私を手で制した。
「来ないで! ……情けをかけないでちょうだい」
ベアトリス嬢はふらつきながら立ち上がった。
そして、泥だらけになったドレスを払うこともせず、潤んだ瞳で私を睨みつけた。
「リュシア・エヴァレット。覚えておきなさい。……私は、いつか必ず貴女に追いついてみせる。貴女を、私の最大のライバルと認めてあげるわ!」
捨て台詞を残し、彼女はよろよろと去っていった。
取り巻きらしき生徒たちが「ベアトリス様!」と叫んで追いかけていく。
後に残されたのは、無傷の私と、穴だらけになった地面だけ。
「……ライバル?」
私は首を傾げた。
よくわからないけれど、どうやら許してもらえたらしい。
いじめのターゲットにされることもなく、一方的に「認められた」ようだ。
(よかった。友達になれそうってことかな?)
ライバルというのは、確か「好敵手」と書いて「とも」と読むやつだ。
あんなに高貴な方とお近づきになれるなんて光栄だ。
ちょっと激しい性格みたいだけど、悪い人ではなさそうだ。
私は鞄を持ち直し、時計を確認した。
まだ間に合う。
「急がないと」
私は小走りでその場を去った。
周囲の生徒たちが、
「見たか? 一歩も動かなかったぞ」
「魔法を皮膚で弾いたのか?」
「化け物だ……」
と、戦慄の眼差しを向けていることには、最後まで気づかないふりをして。




