第4話 消えた石像と、見えなかった青い炎
午後の日差しが、広大な演習場の芝生を焼き付けている。
私の胃は、依然としてきりきりと痛んでいた。
一時間前の出来事が、悪い夢のように脳裏に焼き付いて離れない。
『責任、取ってもらうからね?』
王太子殿下のあの笑顔。
楽しげで、それでいて逃げ場を完全に塞ぐような、捕食者の瞳。
思い出すたびに、指先が冷たくなる。
私は杖を握る手を一度離し、手のひらの汗をスカートで拭った。
(……考えちゃダメ。今は授業に集中しないと)
演習場には、私たち新入生三十名ほどが集められている。
科目は「魔法実技・基礎」。
課題は最も初歩的な攻撃魔法、「ファイアボール」だ。
三十メートル先に並べられた、人型の石像。
あれに向かって炎の球を放ち、どれだけダメージを与えられるかを競う。
「次! ドラン・クラーク!」
教師の声に合わせて、赤髪の大柄な男子生徒が進み出た。
彼は自信満々に杖を構え、大声で詠唱を叫ぶ。
「我が魔力よ、紅蓮の炎となりて敵を穿て! ファイアボール!!」
ドォォォォン!!
轟音と共に、バスケットボールほどの大きさの火球が放たれた。
炎は石像に直撃し、黒い煙を上げて爆発する。
石像の表面が少し焦げ、周囲の芝生が熱風で揺れた。
「おおーっ! すげえ威力!」
「さすがドラン、魔力量多いな!」
クラスメイトから歓声が上がる。
ドランと呼ばれた彼は、鼻の下をこすって得意げにガッツポーズをした。
(……危なっかしいなぁ)
私はそれを見て、ひっそりと眉をひそめた。
あんなに煤が出るような不完全燃焼の炎を出して、もし服に引火したらどうするつもりなのだろう。
それに、無駄に拡散している。
あれでは狙った場所だけでなく、周りの草木まで焼いてしまう。
お爺様なら、「山を焼く気か馬鹿者!」と杖で頭を殴ってくるレベルだ。
「火遊びは慎重に」
「後始末が一番大事」
それが、エヴァレット家の鉄則だ。
だからこそ、私は決めていた。
絶対に、火事だけは起こさない。
ボヤ騒ぎなんてもってのほかだ。
ただでさえ王太子殿下に睨まれているのに、これ以上目立つ失敗をして「放火魔」なんてあだ名をつけられたら、退学一直線だ。
「次、リュシア・エヴァレット」
名前を呼ばれた。
心臓がドクンと跳ねる。
私は深呼吸をして、指定された白線の位置まで歩いた。
視線の先には、無傷の石像が一体。
灰色の石材で作られたそれは、どこか冷ややかな目で私を見下ろしているように見えた。
(……小さく。とことん小さく)
私は杖を構えた。
意識するのは、台所のコンロだ。
あるいは、ランタンの灯火。
魔力を練る。
恐怖心からか、指先が少し震える。
その震えを抑え込むように、私はイメージを凝縮させた。
拡散させてはいけない。
広がると危ないから、中心に集める。
赤色じゃダメだ。赤い炎は温度が低くて煤が出る。
不純物をなくして、酸素を完璧に供給して、もっと純粋な、綺麗な燃焼を。
ぎゅっ、と。
魔力の渦を、米粒くらいのサイズまで圧縮する。
(これなら、もし当たっても焦げるくらいで済むはず)
ボヤも出ない。
音もしない。
誰にも迷惑をかけない、ひっそりとした小さな炎。
「……ファイアボール」
私は詠唱を省略し、ぼそりと技名だけを呟いて、杖を振った。
シュッ。
風を切るような、短い音がした。
杖の先から、何かが飛んだ手応えはあった。
けれど、私の目には何も見えなかった。
あまりにも小さく絞りすぎたせいで、炎というよりは、青白い火花が一瞬散っただけのように見えた。
(……あ)
失敗したかもしれない。
火が消えてしまった?
私は慌てて標的の方を見た。
静かだった。
爆発音も、燃え上がる音もしない。
三十メートル先の石像は――
――なくなっていた。
「……え?」
私は目を瞬かせた。
ない。
石像が、ない。
さっきまでそこにあったはずの、灰色の人型が消えている。
倒れたわけではない。足元を見ても、瓦礫ひとつ転がっていない。
ただ、石像が立っていたはずの台座だけが、つるりと綺麗な平面を残してそこに在った。
その台座の中心が、ほんのりと赤く発光しているように見えるのは気のせいだろうか。
(どこに行ったの?)
まさか、外した?
いや、外したとしても、石像は残っているはずだ。
あ。
もしかして。
(……不発だ)
魔法が発動すらしなかったのだ。
杖を振っただけで、魔力が出なかった。
だから石像は無傷で……いや、でも石像が見当たらないのはなぜ?
もしかして、最初からあそこには何も置かれていなかった?
私の見間違い?
混乱する私の耳に、周囲の静寂が痛いほど突き刺さる。
シーン……。
誰も喋らない。
歓声もなければ、野次もない。
風が吹いて、芝生がサワサワと揺れる音だけが響く。
恐る恐る、振り返る。
クラスメイトたちは、ポカンと口を開けていた。
ドラン君に至っては、持っていた杖を取り落としている。
そして、教師。
実技担当の強面な先生が、眼鏡をずり落ちさせたまま、目の前の台座と、私の杖を交互に凝視していた。
「…………」
やばい。
空気が重い。
これは、あれだ。
「あまりにも期待外れで言葉が出ない」というやつだ。
測定不能の凡人が、実技でも不発をやらかした。
見えない炎(笑)。
石像すら倒せない(というか、どこに行ったのかもわからない)制御不能ぶり。
「あ、あの……すみません」
私は縮こまり、消え入りそうな声で言った。
「火が……出ませんでした。その、緊張してて……」
私の言葉に、教師がビクリと肩を震わせた。
彼はゆっくりと、錆びついた機械のような動作で首を回し、私を見た。
その瞳孔は極限まで開いていた。
「……火が、出なかった……?」
教師は掠れた声で復唱した。
それから、震える指で、何もなくなった台座を指差した。
「……痕跡すら残さず……蒸発させておいて……火が出ていない、だと……?」
「え?」
蒸発?
何を言っているのだろう。
「いや、あの、石像が見当たらないんですけど……私がどこかに飛ばしちゃいましたか?」
「……飛ばした? いや、あれは……」
教師は言葉を詰まらせ、額に脂汗を浮かべた。
そして、何か恐ろしいものを見る目で私を一瞥し、手元の成績表に震える文字で何かを書き込んだ。
「……判定不能。……いや、特A……いや、測定器の準備が必要だ……」
ブツブツと呟き始める教師。
周囲の生徒たちも、ようやく呪縛が解けたようにざわめき始めた。
「おい、見たか?」
「何も見えなかったぞ」
「失敗だよな?」
「でも石像ねえじゃん」
「あいつ、マジで何なんだ……?」
困惑の波が広がる。
私は居た堪れなさに、杖を背中に隠した。
どうやら、「失敗」ということにしておいてもらえそうだ。
石像の行方は謎だが、少なくともボヤ騒ぎにはならなかった。
誰も怪我をしていないし、芝生も燃えていない。
(よかった……)
私はホッと胸を撫で下ろした。
とりあえず、この場はやり過ごせた。
「不器用な生徒」という評価が固まれば、これ以上注目されることもなくなるはずだ。
私は教師に一礼し、そそくさと列の後ろへと戻った。
私の背後で、台座に残った余熱が空気を歪ませ、陽炎のように揺らめいていることには気づかないまま。
そして、教師が私の名前の横に、二重丸を通り越して真っ赤な「要注意(Sクラス)」という印をつけていたことにも、もちろん気づかないまま。




