第6話 赤ペンだらけの教科書と、すれ違う相談
図書室の空気は、古紙と乾いた埃の匂いがした。
重厚な樫の扉を背にして、私はようやく息を吐き出した。
天井まで届く本棚の迷宮。
足音を吸い込む分厚い絨毯。
ここなら、誰も追ってこないはずだ。
私は一番奥、窓際にある個室ブースに滑り込み、鞄から教科書を取り出した。
机の上に、ドン、と分厚い本を置く。
『初等魔法理論・第一巻』。
今日配られたばかりの新品だが、表紙は既に手垢で少し汚れている。
私はそのページをめくり、ため息をついた。
「……はぁ」
憂鬱だ。
今日の授業を振り返るだけで、胃が裏返りそうになる。
魔力測定器を破壊し。
実技で標的を蒸発させ。
帰り際には公爵令嬢の猛攻を棒立ちで受け流してしまった。
どう考えても「普通」ではない。
このままでは「要注意人物」としてマークされ、最悪の場合、退学処分になってしまうかもしれない。
(勉強しなきゃ)
私は筆箱から赤ペンを取り出した。
ノックを一回。カチリ、という音が静寂に響く。
問題は、この教科書だ。
授業で習う術式と、私が身体で覚えている感覚が、どうしてもズレる。
教科書通りにやろうとすると、魔力が詰まって暴発しそうになるのだ。
例えば、五十二ページの『風魔法の起動プロセス』。
『第一節:大気中のマナを感じ取り、精神を同調させる』
『第二節:四小節の詠唱を行い、風の精霊に呼びかける』
『第三節:右回りに杖を三度回し、魔力を緩やかに放出する』
……長い。
長すぎる。
こんなことを戦場でやっていたら、お爺様に「寝言は寝て言え!」と背中を蹴り飛ばされる。
「ここは、もっとこう……」
私は教科書の記述に二重線を引き、余白に赤ペンを走らせた。
『精神同調は不要。直接掴んで圧縮』
『詠唱省略可(イメージのみで十分)』
『杖の動作は無駄。視線誘導だけで発動する』
さらに、掲載されている魔法陣の図解にも手を入れる。
線が多すぎて魔力の通りが悪い。
ここを繋げて、ここは削除して、バイパスを通せば、三倍の効率で発動できるはずだ。
カリカリ、カリカリ。
ペン先が紙を削る音だけが、私の世界を埋め尽くしていく。
気づけば、見開きページは真っ赤な修正だらけになっていた。
「よし。これで少しはマシになったかな」
自分用にカスタマイズした術式なら、出力調整もしやすいはずだ。
明日からはこの「修正版」を頭に入れて、さらに出力を絞る練習をしよう。
そう思って、ペンを置いた時だった。
「――熱心だね」
頭上から、甘い声が降ってきた。
心臓が口から飛び出るかと思った。
椅子がガタッと音を立て、私は弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、今、私が一番会いたくない人物だった。
アルフレッド殿下。
この国の王太子にして、私を「責任」という言葉で縛り付けた張本人。
彼は私の背後の本棚に肘をつき、楽しそうに私を見下ろしていた。
「あ、あ……で、殿下……!?」
「探したよ、リュシア。約束の時間になっても来ないから、迷子になったのかと思ってね」
嘘だ。
まだ放課後になったばかりだ。
完全に待ち伏せされていた。
私は慌てて立ち上がり、教科書を隠そうとした。
けれど、遅かった。
殿下の長い指が伸びてきて、机の上の教科書をスッと取り上げたのだ。
「何を勉強していたんだい? ……おや」
彼の視線が、真っ赤に染まったページに釘付けになる。
終わった。
教科書への落書き。
しかも、学院指定の教本を「効率が悪い」と全否定するような書き込みだ。
これは先生への侮辱であり、教育カリキュラムへの反逆だ。
「す、すみません! それは、その、私が覚えが悪くて……! 自分なりに分かりやすく書き直していただけで、決して先生の教えを否定するつもりでは……!」
私は必死に弁解した。
冷や汗が背中を伝う。
殿下は何も言わなかった。
ページをめくる手が止まっている。
その碧眼が、私の書き込んだ赤文字を一行ずつ、貪るように追っている。
長い沈黙。
空調の音さえ聞こえなくなりそうなほどの静寂。
(怒ってる……絶対に怒ってる)
不敬罪だ。
教科書を汚した罪で、地下牢行きかもしれない。
やがて、殿下はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その表情からは、感情が読み取れなかった。
ただ、瞳の奥が奇妙に揺らめいているように見えた。
「……リュシア」
「は、はいっ!」
「君にとって、ここの授業は……どうかな?」
低い声だった。
試すような、深淵を覗き込むような声色。
私はスカートの裾を握りしめ、正直な気持ちを吐露した。
「……辛い、です」
嘘をついてもバレるだろう。
私は涙目で訴えた。
「周りの皆さんと合わせるのが難しくて……。どうしても、感覚が違って……手加減しようとすると、上手くいかなくて……」
自分だけが浮いている。
その事実が、何よりも苦しい。
「だから、毎日が綱渡りみたいで……正直、逃げ出したくなります」
私の悲痛な叫びを聞いて、殿下はふぅ、と小さく息を吐いた。
そして、教科書をパタンと閉じ、私に優しく微笑みかけた。
「そうか。やはり、そうだったんだね」
彼は納得したように頷いた。
「レベルが低すぎて、苦痛だったか」
「……へ?」
私は目を瞬かせた。
何か、会話が噛み合っていない気がする。
レベルが低い? 私が? いや、授業が?
殿下は私の手を取り、強引に歩き出した。
「わかった。君のその才能を、退屈な教室で腐らせるわけにはいかない」
「え、あの、殿下? どこへ?」
「生徒会室だ」
彼は迷いのない足取りで、図書室の出口へと向かう。
「君には『特別カリキュラム』を用意しよう。授業免除の特権を与えてもいいが、まずは私の側で、その……有り余る力を発揮してもらう」
特別カリキュラム。
その響きに、私は戦慄した。
それはつまり、補習のことではないか?
落ちこぼれの私を、生徒会室という檻に閉じ込めて、基礎から徹底的に叩き直すつもりなのだ。
「授業免除」というのも、きっと「授業に出るレベルに達していない」という意味に違いない。
(いやだぁぁ……!)
もっと厳しくなる。
お爺様との修行の日々がフラッシュバックする。
朝から晩まで魔法漬け。
自由時間なし。
平穏な生活とは対極にある、地獄の特訓コース。
「あの、私、普通に勉強したいだけで……!」
抵抗を試みるが、殿下の握力は意外に強かった。
彼は振り返らず、背中で語るように言った。
「安心していい。君が求めている『最適解』を、私が提供する。……この教科書の続きを、君がどう書き換えるのか。実に楽しみだ」
その声は弾んでいた。
新しい玩具を手に入れた子供のように。
私はズルズルと引きずられながら、遠ざかる図書室を涙目で見つめた。
私の平穏な放課後は、こうして強制終了を迎えた。
行き先は、学園の権力の中枢、生徒会室。
そこで待ち受けているのが、私の「普通」を決定的に破壊する日々だとは、この時の私はまだ知る由もなかった。




