第3話 積み上げられた「雑草」の山と、秘密の庭園
筆記試験の熱気が冷めやらぬまま、私は一人、校舎の裏手を彷徨っていた。
昼下がりの日差しが、煉瓦造りの壁に濃い影を落としている。
あちこちから、試験の出来を語り合う生徒たちの喧騒が聞こえてくる。
「あの問題、マジで意味不明だったよな」
「実技の爆発、見た?」
そんな声から逃げるように、私は人気の少ない方へ、またその奥へと足を進めていた。
とにかく静かな場所で深呼吸がしたい。
さっきの答案用紙に書き殴った「深読み論文」のことを思い出すと、羞恥心で地面に転がりたくなるからだ。
私は額の汗を拭い、目の前に広がる鬱蒼とした茂みを見上げた。
校舎の北側。
ほとんど人が寄り付かない、古いレンガ塀の崩れた隙間。
そこには、なんだか空気が澱んだような、蜘蛛の巣が張っているような奇妙な不快感があった。
(……通りにくそう)
けれど、この先からは微かに水の流れる音が聞こえる。
きっと静かな水場があるに違いない。
私は邪魔な枝を手で払い、顔にかかる粘つく空気を「えいっ」と手刀で切り裂いた。
パリン、と。
薄い氷が割れるような音がした気がしたが、足元の小枝を踏んだ音だろう。
私は構わず奥へと進んだ。
数歩歩くと、急に視界が開けた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
そこは、小さな庭園だった。
周囲を高い壁と樹木に囲まれ、外の喧騒が嘘のように遮断されている。
中央には古びた噴水があり、澄んだ水が静かに溢れ出していた。
まさに、理想的な隠れ家。
私の「平穏な休憩場所」として完璧だ。
……そう、思ったのだが。
私は眉をひそめ、足元の花壇を見下ろした。
「荒れてるなぁ」
酷い有様だった。
手入れがされていないのか、青黒い葉をつけた不気味な植物が、我が物顔で地面を覆い尽くしている。
茎には細かい棘があり、葉の裏には毒々しい紫色の斑点。
どう見ても、他の花の養分を奪って繁殖するタイプの、たちの悪い雑草だ。
実家の畑にも、よくこういうのが生えていた。
放っておくとカブが全滅する、農家の敵だ。
私はしゃがみ込み、その一本を指先で摘んだ。
(……園芸部の敷地かな?)
だとしても、あまりにも杜撰だ。
可憐な白い花が、この青い雑草の陰で息絶え絶えになっているではないか。
職業病のようなものが疼いた。
私の実家は貴族といっても名ばかりで、領地経営のために畑仕事は必須科目だった。
「雑草を見たら親の仇と思え」。
それがエヴァレット家の家訓だ。
私は袖を捲り上げた。
「……ちょっとだけ、ね」
休憩のついでだ。
ここを使わせてもらうお礼に、少し掃除をしておこう。
そうすれば、もし誰かに見つかっても「掃除をしていました」と言い訳ができる。
私は地面に膝をつき、呼吸を整えた。
普通の引き方では、根が残る。
魔力を指先に薄く纏わせ、土の中の根の形状を探る。
そして、土を緩めると同時に、一気に引く。
スポッ。
気持ちのいい音と共に、青い雑草が根こそぎ抜けた。
「よし、次」
スポッ、スポッ、スポポポッ。
リズムに乗ってきた。
無駄な動きを削ぎ落とし、両手をフル回転させる。
魔力の制御練習にもちょうどいい。
土中の根を感知し、最小限の力で引き抜く。
私の周りに、瞬く間に青い山の山が築かれていく。
白い花たちが「助かった」と言わんばかりに、日差しを浴びて背筋を伸ばした(ように見えた)。
(うん、綺麗になった)
作業に没頭すること、およそ十分。
花壇の一角は見事に整地され、ふかふかの土と、救出された白い花だけが残った。
積み上げられた雑草の山は、私の腰の高さほどになっている。
額の汗を手の甲で拭い、私は満足げに息を吐いた。
「ふぅ。こんなものかな」
これなら、園芸部の人も喜んでくれるだろう。
私は立ち上がり、服についた土を払った。
その時だった。
「――豪快だね」
背後から、男の声がした。
心臓が跳ね上がった。
人が来ないと思っていたのに、完全に油断していた。
私は恐る恐る振り返る。
そこには、一人の青年が立っていた。
噴水の縁に腰掛け、読みかけの本を閉じている。
輝くような金髪。
宝石のように透き通った碧眼。
仕立ての良いシャツを着ているが、ネクタイは緩められ、どこか気怠げな雰囲気を漂わせている。
逆光で顔がよく見えないが、とにかく整った顔立ちをしていることだけはわかった。
そして、その視線は私ではなく、私の横にある「雑草の山」に釘付けになっていた。
(……園芸部の人だ!)
しまった。
勝手にいじったのを怒られる。
私は慌てて姿勢を正し、直立不動になった。
「す、すみません! 勝手に入ってしまって……!」
青年はゆっくりと視線を上げ、私を見た。
その瞳には、怒りというよりは、何か得体の知れない生き物を見るような、純粋な驚きが浮かんでいた。
「……君、ここへどうやって入った?」
「え? あそこの茂みから……」
指差すと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「結界は? 何も感じなかったのか?」
「結界……ですか? いえ、蜘蛛の巣みたいなのはありましたけど、手で払ったら取れました」
「手で払ったら、取れた」
青年は私の言葉を復唱した。
そして、口元に手を当て、肩を震わせて笑い出した。
「くっ、ははは! 『聖域の拒絶』を手で払ったのか。傑作だ」
(……笑われた?)
どうやら怒ってはいないようだ。
変わり者の先輩なのだろうか。
彼は立ち上がり、優雅な足取りで私の方へ歩いてきた。
そして、私が積み上げた青い山を見下ろした。
「それで、これは?」
「あ、はい。花壇が荒れていたので、つい。その青い草、他の花の栄養を奪うタイプですよね? 実家の畑にも似たようなのがあって、放っておくと大変なことになるので、全部抜いておきました」
私は胸を張って報告した。
「良いことをしました」というアピールだ。
これで不法侵入の罪が少しでも軽くなればいい。
けれど、青年の反応は予想外だった。
彼はその場に膝をつき、私が抜いた「雑草」の一本を拾い上げた。
根についた土を愛おしげに撫で、信じられないものを見る目で呟く。
「……『蒼月の霊草』だぞ、これ」
「え?」
「一本で小さな屋敷が買える。王家の秘薬の主原料だ。温度管理と魔力調整を完璧にして、三年かけてやっとここまで育てたんだが」
「…………はい?」
私の思考が停止した。
屋敷?
秘薬?
三年?
視線が、私の横にある山に向く。
そこには、百本以上のそれが、無造作に、ゴミのように積み上げられている。
「ぜ、ぜんぶ……抜いちゃいましたけど……」
私の声が裏返った。
青年はゆっくりと立ち上がり、私に向き直った。
その顔には、今まで見たこともないような、極上の笑みが張り付いていた。
それは獲物を見つけた猛獣のようでもあり、新しい玩具を見つけた子供のようでもあった。
「素晴らしい」
彼は言った。
「根を傷つけずに、これほど完璧に収穫するとは。熟練の宮廷薬師でもこうはいかない。君、名前は?」
「……リュシア、です。リュシア・エヴァレット」
「リュシアか。覚えたよ」
彼は一歩、私に近づいた。
距離が近い。
甘い香水のような香りが漂ってくる。
「私はアルフレッドだ。……責任、取ってもらうからね?」
その名前を聞いた瞬間、私の脳内でようやく知識と現実がリンクした。
アルフレッド。
この国の第一王子。
そして、王立魔法学院の生徒会長。
目の前の、シャツのボタンを開けた気怠げな美青年。
教科書の肖像画よりもずっと生々しい、本物の王太子殿下。
(……終わった)
私は血の気が引いていくのを感じながら、呆然と立ち尽くした。
国宝級の薬草を、雑草と間違えて全滅させた。
しかも、王太子の私有地で。
平穏どころの話ではない。
これは、国家反逆罪とか、そういうレベルの話ではないだろうか。
アルフレッド殿下は、蒼ざめる私を見て、楽しそうに目を細めた。
「放課後、生徒会室に来なさい。たっぷりと、話を聞かせてもらおうか」
その声は優しかったが、逃走を許さない絶対的な響きを含んでいた。




