第12話 机上の証拠物件と、断れない『補習契約書』
カチャリ、と硬質な音がした。
私はビクリと肩を震わせ、目の前のローテーブルに置かれたティーカップを見つめた。
波打つ紅茶の水面が、いつまで経っても静まらない。
それもそのはずだ。カップを持つ私の指先が、小刻みに震え続けているのだから。
「……冷めないうちにどうぞ」
ソファーの対面に座るアルフレッド殿下が、優雅に紅茶を含みながら言った。
窓の外は既に漆黒の闇に包まれている。
広い生徒会室の奥、執務スペースからさらに隔てられた応接室。
ここにいるのは、私と殿下、そして私の膝の上で丸くなっている紫色の毛玉だけだ。
「は、はい……いただきます」
私はカップを両手で包み込み、なんとか口元へ運んだ。
味なんてしない。
喉を通る液体が、熱いのか冷たいのかさえ分からない。
なぜなら、テーブルの上には、紅茶と一緒に『とある書類の束』が並べられているからだ。
それはまるで、裁判における証拠物件のように、私の罪を無言で告発していた。
「さて、リュシア。状況を整理しようか」
殿下はカップを置き、長い足を組み替えた。
その動作一つ一つが絵画のように美しいけれど、今の私には死刑判決を下す裁判官の所作にしか見えない。
彼は一番上の書類を指先で弾いた。
「まず、入学試験での魔力測定器の破損。……報告書によれば、君は『触れただけ』で国家予算級の水晶を粉砕したそうだね?」
「……はい。手が滑ってしまって」
私は消え入りそうな声で答えた。
弁解の余地はない。
不器用でした、すみません。
「次に、筆記試験での答案。……古代語の翻訳問題で、君は学会の定説を覆す『新解釈』を展開し、採点官を熱狂……いや、錯乱させた」
「……深読みしすぎました。次はもっと素直に書きます」
「そして、私の庭園での『草むしり』。希少な『蒼月の霊草』を根こそぎ収穫し、更地にした」
「……雑草だと思って。親切心のつもりでした」
「さらに、実技演習での標的消失。目撃者の証言では『青い閃光が見えた直後、石像が蒸発した』とのことだ」
「……火加減を間違えました。弱火のつもりが、ちょっと強火になってしまったみたいで」
殿下は書類を一枚めくるたびに、楽しそうに、けれど逃げ場のない視線で私を見つめてくる。
私は膝の上のナスをギュッと抱きしめた。
ナスが「キュゥ」と苦しげな声を上げるが、今は許してほしい。何かにすがっていないと、椅子から崩れ落ちてしまいそうだ。
「極めつけは、先ほどの地下倉庫だ」
殿下は身を乗り出し、私の顔を覗き込んだ。
「『災厄の魔公爵』と呼ばれた封印指定の悪魔を、君は『野良犬』と呼び、モップ片手に洗浄魔法で洗い流し、あまつさえペットにした」
「……汚かったので。衛生的に良くないと思いまして」
私の言い訳は、もはや風前の灯火だった。
並べられると壮観だ。
入学してたった二日で、これだけのトラブルを起こしている。
普通の生徒なら、一つでも退学ものだろう。それが五つ。役満だ。
(終わった……)
私は目を伏せた。
脳裏に、実家の両親の顔が浮かぶ。
「リュシア、頑張ってね」と送り出してくれた母の笑顔。
「王都で文官になれたら、村の誇りだ」と涙ぐんでいた父の顔。
ごめんなさい。
娘は文官どころか、破壊魔として故郷に帰ることになりそうです。
お爺様の修行のせいで、力の加減がバカになっていました。
「……退学、でしょうか」
私は震える声で尋ねた。
覚悟はできている。せめて、実家への手紙は自分で書きたい。
殿下はしばらく無言だった。
室内の空調の音だけが響く。
やがて、彼はふっと息を吐き、背もたれに体を預けた。
「普通なら、即刻退学どころか、危険分子として地下牢行きだね」
「ひっ……」
「だが」
殿下は言葉を切り、テーブルの引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
そして、羽根ペンと一緒に私の前へと滑らせてきた。
「私は君の才能を……いや、その『規格外のドジ』を惜しいと思っている」
「え?」
私は顔を上げた。
殿下は微笑んでいた。
聖母のように優しい、けれど目の奥だけは決して笑っていない、不思議な表情で。
「君には『更生』のチャンスを与えようと思うんだ。どうかな?」
「こ、更生……ですか?」
「ああ。君はまだ、自分の力の使い所を間違えているだけだ。私が直接指導し、正しい方向へ導いてあげよう。そうすれば、退学は免除する」
天の助けだ。
私は身を乗り出した。
退学にならない? 地下牢にも行かなくていい?
ただ、殿下の指導(補習)を受けるだけで?
「やります! お願いします! なんでもします!」
私は食い気味に返事をした。
補習上等だ。お爺様のスパルタ修行に耐えた私だ。殿下の指導くらい、きっと耐えられるはずだ。
平穏な学園生活のためなら、放課後の勉強会くらい喜んで受け入れる。
「ふふ、いい返事だ」
殿下は満足げに頷き、羊皮紙を指差した。
「では、ここにサインを。これは『生徒会特別補佐』としての任命書だ」
「特別補佐……?」
聞き慣れない役職だ。
雑用係のリーダーみたいなものだろうか。
「表向きは生徒会の一員として活動してもらう。だが実質は、私の目が届く範囲で行動し、私が指示した『課題』をこなしてもらうためのポジションだ」
「なるほど。つまり、要観察処分ということですね」
「……まあ、そういう解釈で構わないよ」
私はペンを握りしめ、迷わずサインをした。
『リュシア・エヴァレット』。
文字が少し右上がりになってしまったが、まあいいだろう。
これで私は、退学の危機を脱したのだ。
サインを終えると、殿下は羊皮紙を丁寧に回収し、代わりに小さな箱を差し出してきた。
「これを」
私は箱を受け取り、蓋を開けた。
中に入っていたのは、青いリボンがついた、金色のバッジだった。
中央には生徒会の紋章である「天秤と剣」、その周りを美しい宝石が彩っている。
「生徒会役員の証だ。明日からはこれを制服の胸につけて登校しなさい」
「こ、こんな立派なものを……?」
私は戸惑った。
補習生の私が、こんなキラキラしたバッジをつけていいのだろうか。
これではまるで、私が優秀な生徒であるかのように誤解されてしまわないだろうか。
「それは『首輪』だよ、リュシア」
殿下が楽しそうに言った。
「そのバッジをつけていれば、教師たちも君に無闇な干渉はしなくなる。君が何か壊しても『生徒会の管轄だ』と判断して、報告が私のところに回ってくるようになるからね」
「ああ、なるほど!」
私は納得してポンと手を打った。
これは「免罪符」ではなく「管理タグ」なのだ。
『この生徒は危険なので王太子の管理下にあります』という警告マーク。
それなら納得だ。
「ありがとうございます、殿下。私、皆さんに迷惑をかけないよう、一生懸命大人しくしています!」
私はバッジを胸に押し当て、深々と頭を下げた。
「期待しているよ。……さて、夜も遅い。寮まで送らせよう」
殿下がベルを鳴らすと、控えていた騎士が入ってきた。
私は立ち上がり、膝の上のナスを抱き直した。
「あ、この子は……」
「その『子犬』も、君の部屋で飼うことを特別に許可する。ただし、決して外で放し飼いにしないように」
「はい! ありがとうございます!」
ナスも嬉しそうに「キュゥ!」と鳴いた。
よかったね、ナス。君も処分されずに済んだよ。
私は何度も礼を言い、部屋を後にした。
背後で、殿下が回収した羊皮紙――『国家最高機密・専属魔導官契約書』と書かれた書類を、大切そうに金庫へしまっている姿には気づかないまま。
そして、彼が「これで最強の『盾』と『矛』が手に入った」と、独り言のように呟いていたことにも、もちろん気づくはずもなかった。
廊下に出ると、夜風が心地よかった。
胸元のバッジが、月明かりを浴びてキラリと光る。
(よかった……)
いろいろあったけれど、なんとかなった。
初日から波乱万丈だったけれど、これでようやく、私の学園生活は軌道修正されたのだ。
明日からは「生徒会の雑用係」として、目立たず、ひっそりと、殿下の言いつけを守って生きていこう。
それが一番、安全で平穏な道なのだから。
私は軽い足取りで、寮へと向かった。
私の進む先に、平穏とは程遠い、国を巻き込むドタバタ劇が待っているとはつゆ知らず。
「まずは、明日の朝一番でモップを弁償しなきゃ」
そんな小さな心配事を胸に抱きながら、私の長い一日はようやく幕を閉じたのだった。




