第1話 壊れやすい水晶と、私の平凡な計画
王都の風は、少し埃っぽい匂いがした。
石畳を叩く無数の靴音。馬車の車輪が軋む音。そして、これから始まる人生の分岐点に興奮を隠せない新入生たちの、上ずった話し声。
私は胸元で、麻のリボンをきゅっと握りしめた。
指先が冷たい。心臓が早鐘を打っているのが、服の上からでもわかりそうだ。
目の前にそびえ立つのは、王立魔法学院の正門。
白い石灰岩で作られたアーチは首が痛くなるほど高く、そこには王家の紋章である「双頭の鷲」が彫り込まれている。
「……よし」
小さく息を吐き出す。
大丈夫。準備はしてきた。
私の名前はリュシア・エヴァレット。
北の辺境にある中位貴族、エヴァレット男爵家の三女だ。
実家は羊とカブしか名産品がないような田舎で、正直なところ、貴族としての華やかさとは無縁の場所だった。
ドレスよりも作業着が似合う生活。社交界のダンスよりも、暴走した家畜を魔法で止める方が得意。
そんな私がこの最高学府に入学した理由は、たった一つ。
『平穏な人生の切符を手に入れるため』。
これに尽きる。
学院を卒業さえすれば、文官としての資格が得られる。そうすれば、どこか静かな地方都市の資料室で、本に囲まれてひっそりと暮らすことができるはずだ。
派手な魔法使いとして戦場に出るつもりもなければ、高位貴族に見初められて玉の輿に乗るつもりもない。
目立たず。
騒がず。
ほどほどに。
それが私の絶対的な行動指針だ。
「次、受験番号四〇二番!」
太い声が響く。
私はびくりと肩を震わせ、慌てて列を進んだ。
大講堂の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
高い天井には魔法の灯りが無数に浮遊し、ステンドグラスを通して極彩色の光を床に落としている。
だが、今の私にそんな美しい景色を楽しんでいる余裕はない。
前方にある演壇。
そこに置かれた、直径三十センチほどの透明な水晶球。
あれが、私の運命を左右する「魔力測定器」だ。
(……あんなに薄くて、大丈夫なのかな)
遠目に見ても、その水晶は繊細そうだった。
実家の裏山で修行に使っていた「魔力耐性岩」とは大違いだ。あれはハンマーで殴っても傷つかない黒曜石の塊だったけれど、王都の道具は随分と洒落ている。
前の受験生――茶色い髪の少年が、震える手で水晶に触れる。
ボウッ、と。
水晶の中心に、赤い灯火のような光が灯った。
ろうそくの火くらいの、頼りない大きさだ。
「……ふむ。魔力量一二〇。合格ラインだ。次」
試験官の教師が淡々と告げる。
少年は「よっしゃ!」とガッツポーズをして、足取り軽く講堂の袖へと消えていった。
(……え?)
私は瞬きをした。
今ので、合格?
あの、ろうそくの火みたいな光で?
私の記憶にある「魔法」とは少し違う。
お爺様――私の魔法の師匠であり、実家の隠居老人――にしごかれていた時は、もっとこう、焚き火というか、山火事みたいな勢いで魔力を練らないと「夕飯抜きだぞリュシア!」と怒鳴られたものだ。
次の生徒が進み出る。
今度は青い光だ。さっきより少し強い。ランタンくらいの明るさがある。
「おお、一八〇か。なかなか筋がいい」
教師の声が少し弾む。
周囲の受験生からも「すげえ……」とどよめきが起きた。
(……なるほど)
私は顎に手を当て、脳内で素早く計算式を組み立てる。
ここが王都の基準なのだ。
私の田舎の常識が、ここでは通用しない。
お爺様の指導がどれだけスパルタで、非常識だったかがよくわかる。あやうく田舎者の馬鹿力を出して、恥をかくところだった。
基準値は一〇〇前後。
優秀とされるのが二〇〇弱。
ならば、私が狙うべき数値は「一五〇」あたりだ。
低すぎて補習になるのは目立つ。
高すぎて期待されるのはもっと困る。
『可もなく不可もなく』。
これこそが、平穏への黄金比。
自分の番が近づくにつれて、私は体内の魔力回路を確認する。
へその下あたりにある魔力の貯蔵庫。そこには、たっぷりと溜まった魔力が静かに渦巻いている。
(蛇口を絞らないと)
イメージするのは、水門だ。
普段通りに開けば、たぶん洪水になる。
だから、閉じる。
ぎちぎちに、限界まで。
一割?
いや、それでも多すぎるかもしれない。
今の生徒たちの光を見る限り、彼らの出力は私の「準備運動」にも満たないレベルだ。
百分の一。
いや、千分の一くらいか?
正直、そこまで微細なコントロールは苦手だ。
お爺様はいつも「出せ出せ!」としか言わなかったから、蛇口を閉める練習なんてほとんどしていない。
けれど、やるしかない。
ここで失敗して「魔力過多の変人」なんてレッテルを貼られたら、私の平穏計画は初日で破綻する。
「次、四〇五番、リュシア・エヴァレット」
名前を呼ばれた。
私は深呼吸を一度だけして、演壇への階段を上る。
試験官たちの視線が集まる。
中央に座っている白髪の老紳士は、おそらく学院長だろうか。分厚い眼鏡の奥から、値踏みするような目を向けてくる。
(礼儀正しく。田舎者だと思われないように)
スカートの裾を摘み、練習通りのカーテシーをする。
それから、恐る恐る水晶球の前へと歩み寄った。
近くで見ると、やはりその水晶は脆そうに見えた。
ガラス細工のような透明度だ。
綺麗だけれど、なんだか頼りない。
「手を触れて。魔力を込める必要はない。自然に溢れ出るものを測定する」
試験官が事務的な口調で言う。
自然に溢れ出るもの。
それが一番困るのだ。
今の私は、全身の毛穴という毛穴を閉じる勢いで魔力を抑え込んでいる。気を抜けば、ダムが決壊するように溢れ出してしまう。
(そっと。触れるだけ)
私は右手を震わせながら、水晶の表面に指先を這わせた。
ひやりとした感触。
その瞬間、体内の魔力が出口を求めて指先に殺到する。
いけない。
戻れ。まだ出るな。
私は必死に内側でブレーキをかけた。
千分の一。いや、もっと絞って。
針の穴を通すようなイメージで。
ほんの少し、雫が一滴落ちるくらいでいい。
じり、と。
指先から魔力が漏れた。
その瞬間だった。
――ピキッ。
硬質な音が、静寂な講堂に響き渡った。
光は出なかった。
代わりに、嫌な音がした。
私の思考が停止する。
目の前の水晶球に、蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。
(……え?)
私は慌てて手を引っ込めた。
直後。
パァァァァァンッ!!
乾いた破裂音と共に、水晶球が粉々に弾け飛んだ。
キラキラと美しい破片が、スローモーションのように宙を舞う。
演壇の上に、細かなガラスの粉が雪のように降り注ぐ。
台座だけが、虚しく残されていた。
「…………」
沈黙。
完全なる沈黙。
数百人はいるはずの大講堂から、呼吸音さえ消えたようだった。
やってしまった。
私の顔から、急速に血の気が引いていくのがわかる。
(うそ、壊れちゃった……!?)
力の加減を間違えたわけではないはずだ。
本当に、ちょっぴりしか流していない。
それこそ、豆電球を灯すくらいのつもりだった。
だというのに、どうして?
(……あ、そうか)
一つの推論が頭をよぎる。
古いのだ、きっと。
何千人もの生徒が触れてきたから、経年劣化で脆くなっていたのだ。
運悪く、私が触れたタイミングで寿命が来たに違いない。
そうでなければ、あんな微弱な魔力で水晶が割れるわけがない。
あるいは、私の手の置き方が悪かったのか。
緊張して力が入りすぎて、物理的に握りつぶしてしまった?
いや、まさか。そこまで馬鹿力ではないはずだ。
どちらにせよ、最悪だ。
初日から学校の備品を破壊した。
しかも、魔力測定は「不能」。
恐る恐る、顔を上げる。
正面に座っていた試験官たちの顔色は、真っ白だった。
特に学院長らしき老紳士は、口を半開きにして、カタカタとペンを取り落としている。
怒っている。
絶対に怒っている。
神聖な儀式の場で、こんな粗相をするなんて。
「あ、あの……申し訳、ありません……!」
私は消え入りそうな声で謝罪した。
視線が痛い。
穴があったら入りたい。いや、魔法で穴を掘って埋まりたい。
「弁償……します。実家に手紙を書いて、羊を何頭か売れば、これくらいは……」
私の言葉に、試験官の一人がハッと我に返ったように眼鏡を押し上げた。
そして、隣にいる学院長と何やらひそひそと耳打ちを交わす。
「……測定不能……いや、振り切れたのか?」
「馬鹿な、あれは国家遺産級の純度だぞ。宮廷魔術師団長でもヒビを入れるのがやっとだ」
「だが、現に粉々だ」
「どう処理する? このままではパニックになる」
「隠蔽だ。とりあえず合格させて、後で個別に……」
早口すぎてよく聞こえないが、不穏な空気が漂っていることだけはわかる。
「弁償」とか「パニック」とか聞こえた気がする。
やはり、高価なものだったのだ。
どうしよう。
入学取り消しだろうか。
田舎に帰って、お爺様に「水晶を割って退学になりました」なんて報告したら、今度こそ山に捨てられるかもしれない。
数秒とも数時間ともつかない沈黙の後。
学院長が、震える手でハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
そして、掠れた声で告げた。
「……合格だ」
「はい?」
私は思わず聞き返してしまった。
「ご、合格だと言ったのだ。測定は……まあ、その、機器の不調だろう。君の魔力は確認できた。十分だ。下がりなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」
私は何度も頭を下げ、逃げるように演壇を降りた。
背後から、ざわ、ざわ……と波のような囁き声が聞こえてくる。
「見たか?」「失敗か?」「光らなかったよな」「壊したぞ、あいつ」「どんだけ不器用なんだよ」
突き刺さる視線に耐えながら、私は自分の席へと戻った。
膝の上で拳を握りしめ、小さく溜息をつく。
(危なかった……)
どうやら、お情けで合格にしてもらえたらしい。
機器の不調という温情ある判断に感謝しなければ。
それにしても、王都の道具は本当に繊細だ。
これからはもっと気をつけなければならない。
教科書をめくる時も、ドアノブを回す時も、細心の注意を払おう。
目立ってしまったけれど、これは「不器用な失敗」として処理されたはずだ。
『ドジな田舎娘』。
うん、悪くない。
それなら愛嬌のあるモブとして、平穏に過ごせる可能性はまだ残っている。
私はそう自分に言い聞かせ、乱れた呼吸を整えた。
演壇の方で、教師たちが青ざめた顔で粉々になった水晶の破片を集め、まるで猛毒物でも扱うかのように厳重な箱に封印していることには、気づかないふりをして。
こうして。
私の「普通」を目指す学園生活は、最初の一歩から盛大に道を踏み外した状態で幕を開けたのだった。




