17. トマトの勝利
エリナの漆黒の瞳に、暗い炎が宿っている。
せっかく見つけた仲間たち。
せっかく掴んだ希望の光。
やっと笑えるようになった、温かな時間。
それを踏みにじられ、大切なものを汚された怒り。
――許さない。
仲間の尊厳を踏みにじり、それを楽しんでいるような奴らを放置なんて、できるわけがない。
「近づかないで」
シャリィィィン!
剣を抜く音が、店内に響き渡った。
錆びた刀身が、ランプの光を受けて鈍く輝く。
エリナの構えは、完璧だった。
重心は低く、足は肩幅に開き、剣先は相手の喉を狙っている。
五年間、復讐のためだけに磨いてきた剣技。
その全てが、今、カルロスに向けられていた。
漆黒の瞳に、殺意が宿っている。
本気だ。
この少女は、本気でこの男に剣を振るうつもりだ。
凍てつくような殺気が、店内の空気を一変させた。
さっきまで談笑していた客たちが、一斉に息を呑む。
酒を飲んでいた手が止まり、会話が途切れ、誰もが固唾を飲んでこちらを見つめている。
女将が、カウンターの奥から心配そうに様子を窺っていた。
だが、カルロスは怯まなかった。
「おお、怖い怖い」
むしろ、面白そうに目を輝かせている。
「だがな、お嬢ちゃん」
カルロスが、ゆっくりと懐に手を伸ばした。
「剣を抜くって意味、わかってるか?」
シャリン。
短剣が、抜き放たれた。
エリナの剣よりも短いが、よく手入れされた、鋭い刃。
ギラリと、不吉な光を放つ。
「それは、殺し合いの合図ってことだぜ?」
カルロスが、嘲笑を浮かべた。
「Fランクの小娘が、俺たちCランクに勝てると思ってるのか?」
カルロスの仲間たちも、武器に手をかけた。
一人は剣。もう一人は斧。
どちらも使い込まれた、本物の武器だ。
刃こぼれの跡が、幾多の戦いを物語っている。
一触即発。
店内の空気が、針で刺せば弾けそうなほど張り詰めていく。
周囲の客たちが、巻き込まれないように席を立ち始めた。
椅子が倒れる音。足音。誰かが小さく悲鳴を上げる声。
だが、誰も止めに入ろうとはしない。
Cランクの冒険者相手に、命を懸けて仲裁に入る勇気のある者は、この場にはいなかった。
カルロスが、一歩踏み出した。
エリナとの距離が、詰まる。
剣の間合い。
あと一歩踏み込めば、お互いの刃が届く距離。
エリナは、剣を振るうタイミングを計っていた。
次の瞬間、血が流れる。
誰もがそう思った。
あと、一秒。
あと、一瞬で――――。
その時だった。
レオンの瞳が、黄金の光を帯びた。
【運命分岐点:不戦勝】
【発生イベント:十秒後カルロスが自滅】
【推奨行動:何もせずに待たせる】
「待って、エリナ」
確信を持った、落ち着いた声だった。
「何もしなくていい」
「は? 何を言ってんの?」
エリナが、困惑した声を出す。
「彼は、勝手に自滅する」
その言葉に、カルロスが激昂した。
「なんだぁ!?」
顔を真っ赤にして、怒鳴り散らす。
「この俺様が自滅だとぉ!? 舐めてんのか、コラァ!」
威嚇するように、大股で一歩踏み出した。
だが。
酒で鈍った足は、思うように動かなかった。
椅子の足に、見事に引っかかる。
「うわっ!?」
巨体が、無様にバランスを崩した。
必死に何かに掴まろうと、手を伸ばす。
その手が掴んだのは、隣のテーブルのテーブルクロス。
そして、そのテーブルの上には。
ちょうど運ばれてきたばかりの、グツグツと煮えたぎるトマト鍋が。
「あ」
カルロスが、間抜けな声を漏らした。
次の瞬間。
ガッシャァァァン!!
凄まじい音と共に、鍋がひっくり返った。
真っ赤なトマトソースが、カルロスの顔面に直撃する。
「ぎゃあああああああ!!」
絶叫が、店内に響き渡った。
「熱いィィィ!! 熱い熱い熱いいいいいい!!」
カルロスが、顔を押さえて転げ回る。
真っ赤なトマトソースが、顔中にべったりと付着していた。
まるで血まみれの怪物のような惨状。
いや、実際に火傷を負っているのだろう。顔が赤く腫れ上がり始めていた。
◇
一瞬の静寂。
誰もが、目の前で起きたことを理解できずにいた。
そして。
「ぶはっ……!」
誰かが、吹き出した。
それが合図だったかのように、店内が爆笑の渦に包まれた。
「ぶはははははは!! カルロスの野郎、鍋に頭突っ込みやがった!」
「自分から顔面ダイブとか、どんなギャグだよ!」
「これがCランクの実力か! 笑わせるぜ!」
「煮込み料理に負けた男! 伝説になるぞ!」
客たちが、腹を抱えて笑い転げている。




