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14. 二度とこない『明日』

 シエルも、目の前の肉塊をしばらく見つめていた。


 湯気が立ち昇る、黄金色に焼き上げられた肉。


 表面はカリカリで、中はジューシー。切り分けると、肉汁がじゅわっと溢れ出す。


 こんな上等な肉を、最後に食べたのはいつだったろう。


 恐る恐る、一口かみしめる。


 その瞬間、シエルの体が固まった。


 俯いたまま、動かなくなる。


 銀色の睫毛の下で、碧眼が揺れていた。


 ――美味しい。


 こんなに美味しいものを、久しぶりに食べた。


 いつ次の食事にありつけるか分からない逃亡生活では、決して口にできなかった味。


 肉の旨味が、口の中いっぱいに広がる。


 噛みしめるたびに、幸福感が全身を駆け巡る。


 そして、同時に。


 涙が、にじんできた。


 ずっと追われ続けてきた。


 六十歳の好色な大貴族との政略結婚が決まり、「お前はアステリア家の商品だ」と、父に言われた。


 「家のために尽くすのが、貴族の娘の務めだ」と。


 シエルは、それに抗った。


 自ら髪を切り、男装して、家を出た。


 「商品価値」をなくすために。自分の人生を、自分で決めるために。


 それから数か月、実家の追手から逃げ続けた。


 路地裏で眠り、残飯で飢えを凌ぎ、時には盗みを働いたこともある。


 何とかこのクーベルノーツの街まで辿り着いたものの、まともな仕事は見つからなかった。


 エリナたちとパーティーを組んでからも食費を削り、宿代を削り、ギリギリの生活。


 そんな日々の中で、こんな上等な肉を食べることなど、夢のまた夢だった。


 シエルは、静かに涙を拭う。


 そんな限界の暮らしも今日、ようやく終わりを迎えようとしている。


 未来に明るい光が差し込んだのだ。


 その事実が、シエルの胸を熱くさせた。



      ◇



 エリナがシチューを一口含んだ瞬間、その体が凍りついた。


 スプーンを持つ手が、微かに震えている。


 漆黒の瞳が、大きく見開かれた。


 ――この味は。


 じゃがいもの優しい甘み。人参の素朴な味わい。ローリエの上品な香り。そして、最後に加えられた生クリームのまろやかさ。


 それは、死んだ母が作ってくれたシチューと、恐ろしいほど似ていた。


 記憶が、堰を切ったように溢れ出す。


 五年前。運命の日の、前夜。


 あの日、家族で夕食を囲んでいた。


 小さな村の、小さな家。


 でも、そこには確かな温もりがあった。


 母が作ってくれた、特製のシチュー。


『エリナ、おかわりは?』


 母の優しい声が、耳の奥で蘇る。


 柔らかな栗色の髪。優しい茶色の瞳。エプロン姿で、お玉を持って微笑んでいた。


『もうお腹いっぱい!』


『あら、せっかく作ったのに』


 母は、少しだけ残念そうに笑った。


『じゃあ、明日の朝、温め直して食べましょうね』


 明日。


 その「明日」は、二度と来なかった。


 翌朝、盗賊団が村を襲った。


 朝霧の中から、突然現れた黒い影たち。


 松明の炎。悲鳴。剣戟の音。


 父は、家族を守るために剣を取った。


 農夫だった父が、錆びた剣を握って、盗賊たちの前に立ちはだかった。


『エリナ、母さんと弟を連れて逃げろ!』


 それが、父の最後の言葉だった。


 背中を斬られて倒れる父の姿を、エリナは見た。


 母は、エリナを逃がすために盾となった。


『エリナ、マイクを連れて走りなさい! 振り返っちゃダメ!』


 母の背中に、盗賊の刃が突き刺さった。


 それでも母は、最後まで立っていた。エリナたちが逃げる時間を稼ぐために。


 弟のマイクは、逃げる途中で矢に射抜かれた。


 まだ八歳だった。小さな体が、エリナの腕の中で崩れ落ちた。


『お姉……ちゃん……』


 弱々しい声で、弟はエリナの手を握った。


 その手が、力を失うまで、そう長くはかからなかった。


 全てが、血と炎に呑まれた。


 あの温かな食卓は、永遠に失われた。


 エリナの漆黒の瞳に、透明な雫が浮かんだ。


 慌てて俯き、長い黒髪で顔を隠す。


 ――私だけが、生き残った。


 家族は皆死んだのに、私だけが生きている。


 そして今、こんな美味しいものを食べている。


 こんな温かい場所で、笑っている。


 罪悪感が、エリナの胸を締め付けた。


 父さん。母さん。マイク。


 ごめんなさい。私だけ、こんな……。


 レオンは、そんなエリナの様子に気づいていた。


 震える肩。俯いた顔。黒髪で隠された表情。


 何があったかは分からない。


 でも、彼女が深い傷を抱えていることは、見れば分かった。


 訳ありの少女たちだ、トラウマを引き起こす地雷はそこら中にあるのだろう。


 ふとした味、匂い、音、言葉が、過去の記憶を呼び覚ます。


 それは、傷を負った者なら誰でも経験すること。


 しかし、かける言葉が思いつかなかった。


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