【2-9】 高嶺の花と勉強会!
待ち合わせをしていることも忘れて浮かれている俺たちの意識を現実に戻すように、俺のポケットが小刻みに振動した。
はっと我に返りスマホを取り出すと、画面には着信の通知と、発信者の名前が表示されている。
飯田晃成。
まず。すっかり忘れていた。
「も、もしもし?」
『天川! 図書館に着いたけど、今どこにいるんだ?』
そうだった。俺と飯田、そして目の前の花室冬歌は、今日の放課後に勉強会を予定していたのだった。つかそのために特別棟に寄ったのに、目的を見失ってしまった。
「ああ、今向かってる。ちと待っててくれ」
それだけ言って通話を切る。そして、無言で目線を上げた。
視線の先にいる花室冬歌は、俺の言わんとしていることを察したようだ。
「思わぬところで時間を費やしてしまったわね。急いで向かいましょう」
こいつ切り替え早えな……。
そして、図書館。
「わりい、遅れた」
努めて平静を装って、待ち合わせ相手の前に歩み寄る。
「おう! って、花室さんも一緒だったのか」
図書館の入り口前でスマホをいじっていた飯田が、俺たちの登場に破願した。
「途中で花室を見つけて、一緒に来たんだ」
嘘は言っていない。結果的にこの図書館を目指していたのは間違いではないからな。
「まあ気にすんな。俺らも今来たところだから」
「そりゃ、そうだろ!」
軽口にノってくれた。よかった、飯田の心境を危惧していたが、あまり気にしていないようだ。
図書館の扉をくぐりながら、飯田が鋭い質問を投げかけてきた。
「でも、なにしてたんだ?」
「そりゃお前、こいつがさくらがwa……」
「ぎろり」
「……桜が散りゆく儚くも美しい様が芸術的だって見蕩れてたんだよ」
桜川へのヘイトをぶちまけていたなんて飯田の前で漏らそうものなら、この部屋が鮮やかな赤で染められること請け合い。俺の鮮血によってだが。
「へー。芸術ってすごいんだな。俺なんかにはちっとも理解できないけど」
理解できてたまるか。ただの八つ当たりの産物でしかねえんだから。
これ以上この話題を深堀りするのは分が悪い。そう思って、やや強引に空気を切り替えることにした。
「それじゃ、始めるか。ほら、座ろうぜ」
「じゃあ、失礼しまーす」
そそくさと椅子を引く飯田に俺も続く。
六人用のテーブルの端に三人固まって、花室、対面に飯田、その隣に俺という配置でそれぞれ腰を下ろした。
そして、勉強会という名の社交場が始まる。
花室はペンを一本取り出すと、飯田に向き直った。
「始めるといっても、まずはなにを重点的にやるか決めないと。飯田くん、赤点の危機に直面しているのはどの教科?」
「え」
飯田があっけにとられた表情を見せる。
そのアホ面の理由は俺には分かる。
俺はアルカイックスマイルで飯田の肩を叩いてやった。その様子を花室が訝し気に凝視している中、飯田の重い口がおそるおそる開かれる。
「大変申し上げにくいんですけれども、その……全教科教えていただくことは可能でしょうか」
「はい?」
花室の目が細められた。いちいち怖っええんだよこいつは。飯田なんか委縮しちゃってるぞ。
「一教科だけじゃないの?」
「残念ながら……」
もじもじと遠慮がちに答える飯田。そんな遠慮しちゃって~。もっとした方がいいマジで。
「参考までに、直近のテストの点数を教えてもらってもいいかしら」
「だいたい忘れちゃったけど、覚えてる限りなら」
言われて飯田は、唸りながら記憶を漁る。
「確か国語が五十点くらい、化学、生物が二十点くらい、英語が三十前後」
「なんか、絵に描いたような成績不良者だな」
「致命的ね……」
めいめいに感想を述べる。俺たちの反応は当然のことだ。
「で、数学が九点」
「おっと、一桁」
「致命ね」
死んじゃったぞ飯田。
「どうしてそこまで低い点数が取れるのか、逆に教えてほしいくらいだわ」
「まあ、あるあるだな」
当たり前のように高得点を取る人間と、反対に赤点常連の者たち。
彼らは互いに互いの在り方を理解できない。どんな勉強をすれば高得点が出せるのか、あるいはそこまで低い点数を取れるのか。
教える側は何が理解できないのかを理解できない。故に学力に大きな開きがあると教えにくいなんてのはよくある話だ。
バカと天才は紙一重とはよく言ったものだ。俺もつくづくそう思う。
花室は悩ましそうに息を吐いた。
「とにかく、そうと決まれば早く取り掛かりましょう。まずは数学からね。基礎を早めに固めておいて、ひたすら問題を解くのが一番簡単だと思う。次に生物、化学の順で理系科目は仕上げていくわ。今日はとりあえず教科書と私のノートを見ながらやっていきましょう」
誰に伝えるでもない語り口調でカバンから教科書やらノートやら取り出し、机の上でとんとんしている。
やはりこいつの頼りになりそう感は大きいな。ようやくまともな勉強会が始まりそうだ。
「高校数学は公式の暗記をしておけばある程度の点数は取れるわ。大学受験を考えるなら一年生の内容から理解しておかないと難しいけれど、私は飯田君の内情は把握していないしそこまで付き合ってあげることはできないから。とりあえず中間テストで赤点を回避する勉強法で進めていくわ」
淡々と述べながらページをめくる花室。
彼女の言葉に他意はないのだが、俺の隣に座するアホはなにやら見当違いな衝撃を受けている。
「つ、付き合えない……? そんな、嘘だ」
「? それはそうでしょう、私も自分の進路があるし、つきっきりで面倒を見ることはできないわ」
「進路――それはつまり、俺とは別の道を歩みたいということですか?」
「だから、あなたの進路は知らないわよ。もし同じ大学を目指すというのならこうして勉強を教えることはできるけれど」
「勉強の話なんて今は関係ないでしょう‼」
お前はなんでこの空間にいるんだ?
「さっきからなにを言っているのかしら。やる気がないのなら私は帰るけれど」
「あー花室。待ってくれ」
見かねたように席を立ち上がろうとする花室を引き止める。
「お前とこのアホの間には認識の齟齬が生じている。とにかく、飯田がお前に教えを請おうとしているのは確かだ。少しの間だが、面倒を見てほしい」
ほらお前も、と飯田の頭を机に打ち付ける。
「ごぶっ。お、おでがいじばず」
「……分かったわ。いいから、教科書を開きなさい」
逡巡の後、ため息を一つ吐いて座りなおす。
「あ、ありがとうございます!」
なんだ、こうしてみれば相性が悪くは見えないな。
ひとまず目下の目標である、『花室冬歌とお近づきになる』は順調に進みそうだ。
この勉強会も、回を重ねれば自然と二人の距離は縮まるはずだ。ま、時間の問題だな。
これでこちらのフェーズはひとまず終了。だが、懸念点は残る。
俺が今打てる手は打ち切ったが、詰めは甘くないだろうか。
なにも警戒せず、のうのうと進めていくわけにはいかない。俺一人でこの二人の関係を取り持とうとしているわけではないのだ。
これは競争だ――俺には競う相手がいる。それも、俺には手に余るほどの。持て余すほどの――桜川ひたち。あの女がどう出てくるか。最大限警戒して対策を練らなければいけない。
俺は自分のノートから眼前の少女へと視線を移した。
花室冬歌。俺は意図せずして、あの桜川ひたちへの対抗手段となりうるカードを手にしてしまったのだ。
もっとも、花室ほどの人間を俺に扱うなどかなわないが。こいつ自体、桜川を毛嫌いしているという一点のみでどこまで動くか目途が立たない。
「……なにか?」
「なんでもねえ」
思いのほか長く見つめすぎて、本人に勘付かれた。鋭い視線が飛んできたので不意に目を逸らす。
「っつか花室。本当にすごいんだな」
とっさに思い浮かんだのと、少しばかり本心から漏れ出た弁明をこぼす。が、抽象的な内容になってしまったため、花室は変わらず怪訝な表情を浮かべたままだ。
「や、ほら」
なので、飯田のノートを指さして視線を向けさせる。
さっきまでまっさらだった紙面が、今や無数の計算式と文字列で埋め尽くされていた。
「こいつ、前まで微分の微の字も知らなかったのに、ちょっと教わっただけである程度基礎が付いたように見える」
「それはそうでしょう。むしろこのレベルの基礎ができなかったらお手上げよ」
花室は得意げにするでもなく、平然と言ってのけた。
「や、でも。九点の男だぞ。九点。それと比べたら、進歩した方だろ」
「いやあえへへ、花室さんのおかげですよ」
「この程度でそんな反応をされると、一周回ってバカにされているように思えるわね……」
「いやいや、だからこそすごい事なんだ。数学学年末テスト九点を舐めるなよ」
「あなたたちの方こそ舐めているの?」
「いやあ、お恥ずかしい」
「心の底から恥じてほしいわ……」
軽く流していることだが、俺は内心で本当に感心していた。
ほぼゼロからスタートした飯田の高校数学も、一年の範囲をゆうに網羅し、今回の定期テストにまで及ぶほどの知識をたった一回でつけたのだ。
一口に天才といったが、こいつは真に天賦の才と呼べるものを授かっているのではないかと思う。
例えばこの花室や桜川。こいつらは難なく弱者の手を取り、高みへと導いてゆけるのだろう。
そこが俺とは違う。ゆえに、俺たちは手を取り合えない。
だから、対立するのだ。




