間話:聖女タチアナは退かない
「瞳に映るは神の意志。疑は義なり、信は真なり! 見よ、我が右腕は折れず砕けぬ神の武器なり!」
戦闘態勢に入ったタチアナは、まず自分の体を強化する。そのためには一瞬とはいえ敵から視線を外さなければならないが、強化なしで<終焉の秘蹟>を使ったりしたら、自分の腕の方が終わり果ててしまう。神の力は万人に平等。敵を倒せる強大な力は、自身を傷つける諸刃の剣でもあるのだ。
「一撃必殺、一劇終幕! <未来を断ち切る右の幻腕>!」
更に聖句を続け、右腕に紅い光を宿したタチアナが黒ずくめに斬りかかる。だが暢気に聖句の詠唱を待っていた黒ずくめは、あろうことかあくびをしながら片手でそれを受け止めた。
「ふわぁ……ズイブンとのろまな攻撃デスね?」
「そんな!?」
「ソレに威力の方も、まあまあではあるようデスが……まあまあの域は出ないデスねぇ」
「きゃっ!?」
黒ずくめが払うように腕を振るうと、タチアナの体が弾き飛ばされる。だが体に感じる痛みより、あっさり攻撃を防がれた精神的な衝撃の方がよほど強い。
「どういうこと!? 何でアタシの攻撃が、日に二回も防がれるのよ!?」
「オヤ、私の他にも防いだ方がイタのですか……では『まあまあ』というのは訂正します。そうですね……大分ショボイとかデスカ?」
「馬鹿にしてっ!」
跳ね起きたタチアナが、再び腕を振るう。だがやはり正面から受け止められ、黒ずくめが更なるため息を吐く。
「正面から向かってくるだけとは、イノシシのような方ですね。それにソモソモ、いくら日暮れが近いとはいえ、村の中で戦闘を始めるのは良くないのデハ?」
「ならアンタは、ご丁寧に場所を変えてくれるような優しい悪党なわけ?」
「……確かに面倒デスね」
空は赤く染まっているが、まだ周囲には村人がいる。だが村人達はどういうわけかこちらを一切気にしておらず、タチアナ達の周囲には奇妙な空白地帯が生まれている。
もっとも、それはタチアナにとって好都合以外の何物でもない。その原因が目の前にいる黒ずくめだったとしても、村人を巻き込む心配をしなくていいのはそれだけで大助かりだ。
「ま、イイでしょう。どうせすぐに片付きますから、大した手間でもないデスしね」
「……チッ」
同じ台詞をアプリコットが言ったなら、タチアナはムキになって突っ込んでいって攻撃を続けただろう。が、黒ずくめから感じる圧倒的な気配と、明らかに格下扱いされているという事実が、タチアナの湧き上がりそうな頭を逆に冷やしてくれた。
(今の手応えとコイツの様子からすると、普通に戦っても勝ち目がない、か……)
幸いにして、敵は油断しまくっている。「面倒」とか「すぐに片付く」と言いつつも、今もこうして自分から攻めてこないのがその証拠だ。もう少し力が拮抗しているなら「攻められない理由があるのでは?」と考えもするが、この状況でその発想は、現実逃避の甘い罠でしかない。
(なら、どうする? って、使うしかないわよね……)
それは「まだ使いこなせないから」と使用を禁じられているもう一つの<神の秘蹟>。アプリコットとの時は勢いで使おうとして止められたわけだが、今回はあの時とは訳が違う。
(今ここでコイツを止めなかったら、きっと酷い事になる。そしてアタシには、まだコイツを止められるかも知れない手段が残ってる……なら迷う必要なんてないじゃない!)
「やぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「熟考したのに、結局正面から向かってくるのデスか? それは流石に私を馬鹿にしすぎデスヨ?」
三度正面から突っ込んで行くタチアナに、黒ずくめが面倒臭そうに腕を振るう。当然のように受け止められるが、それもまた狙いのうち。
「茫然自失、忘全消失! <過去を断ち切る左の影腕>!」
「ムッ?」
全身全霊の一撃を囮にして、更なる奥の手を打つ。少し前に自分が見事にしてやられたことを真似するのとで、タチアナは黒ずくめの脇腹に、赤く輝く手刀を叩き込むことに成功した。
「貴様!」
「うわっ!?」
脇腹に感じた違和感に、黒ずくめがタチアナの体を吹き飛ばす。地面に叩きつけられゴロゴロと転がされたタチアナだったが、痛む体を気合いで起こすと、しきりに脇腹を気にする黒ずくめを見て勝利の笑みを浮かべた。
「何デスかこれは? 何と汚らしい……くっついて外れないデスよ!?」
「くっついてるんじゃないわ、そこから消えていってるのよ! それを喰らったからには、アンタはもうおしまいよ!」
タチアナが放った<消縁の秘蹟>は、在るべき今へと繋がる過去を断ち切ることで相手を無力化する。生まれてから今日に至るまでの知識、記憶、経験……そういった全てのものを失えば、残るのは生きているだけの肉の塊。ただ一撃で相手を再起不能にする、それは不殺なれど必勝の一撃だった。
「ぐっ……やっぱりこうなるか……」
無論、そんな明らかに人の分を超えた力を、ノーリスクで使えるはずもない。慌てる黒ずくめを前に、タチアナもまた自身の左腕を苛む力に顔をしかめる。特に今回は黒ずくめを欺くために事前強化なしで力を使ってしまったので、攻撃したタチアナの腕もまた、黒ずくめと同じように<消縁の秘蹟>の効果を受けてしまっている。
「汚い! 汚い! 神の力がこびりつく! アア鬱陶しい!」
「うっ、うっ、うぅぅ…………」
痛みや苦しみとも違う、何かが吸い取られていく感じ。見た目は何も変わっていないのに、タチアナの意識の中では左腕がカラカラに乾ききってしまっているように思える。
(大丈夫、大丈夫! アタシはタチアナ・エンディード! こんなことくらい、楽勝で乗り越えて――)
「フゥ、漸く収まりましたか」
「……えっ?」
額から油汗を流して耐えるタチアナの前で、苦しんでいたはずの黒ずくめが平然とした声でそう言いながら、まるで埃を払うかのように自らの脇腹をポンポンとはたいている。そのあり得ない光景に、タチアナは一瞬我を忘れて思わず叫んでしまった。
「何で!? そりゃアタシの力じゃ完全に<消縁の秘蹟>を使いこなすことはできないけど、それでも三〇年くらいは過去を切り捨てたはず! それだけ過去を失って、どうして何の変化もなく、そんな平然としてられるの!?」
力の制御が不完全だったせいで、タチアナの腕からは、おおよそ三年から五年の過去が失われている。余波の自傷ダメージでそれなのだから、きちんと攻撃を食らった黒ずくめからは最低でもその一〇倍は過去が失われているはずなのに、何故? そう問うタチアナに、しかし黒ずくめはひょいと肩を竦めて答えた。
「ああ、ナルホド。そういう力だったのですか……そう言われても、たかだか三〇年デショウ? 私の生きてきた年月からスレバ、その程度は……そうですね、貴方にわかるように言うなら、昨日の朝に食べた食事が思い出せなくなった、くらいデスかね?」
「そんな!?」
今度こそ、タチアナは絶望に包まれた。自爆覚悟で放った奥の手が、前日の朝食のメニューを忘れさせる程度の効果しかなかったと言われ、その足下がグラリと揺れる。
「これで終わりデスカ? まあただの人間にしてはよくやった方だと思いマスヨ?」
ガックリと項垂れるタチアナの方に、黒ずくめが悠然と歩み寄ってくる。それを呆然と見つめるタチアナの脳裏に浮かんだのは、何故か恐怖ではなく、小憎たらしい少女の顔であった。
――勝負はその『神に仇為す存在』を倒してから、改めてすることにしましょう!
「……そうよ」
消えかけていた……いや、間違いなく消えていた闘志の火が、タチアナの胸に再び宿る。その火種となったちんちくりんの得意げな笑みを思い出せば、握る拳に力が入り、その口元が不敵に吊り上がる。
「アンタをぶっ倒してもう一回勝負するって、約束したのよ! だからアタシは、こんなところで負けてなんてられないのよっ!」
「あー……さっきからコロコロと態度が変わってマスが、本当に何なのデスか? ちょっと気持ち悪くなってきたんで、もう黙っててクダサイ」
「あぐっ!?」
黒ずくめの手が、タチアナの頭を掴んで持ち上げる。ちぎれそうな首の痛みに、しかしタチアナはもう怯まない。
「黙るわけないでしょ! アタシはタチアナ・エンディード! アンタなんかに、絶対負けたりしないんだからっ!」
タチアナの両手に、赤い光が宿る。己の過去と未来の全てを代償とした本当に最後の手段を使おうとした、正にその時。
「おいおい、女の子にそんな乱暴をするもんじゃないよ?」
「ぽぐあっ!?」
「……えっ!?」
突然黒ずくめが吹き飛んでいき、タチアナの体がふわりと抱き留められる。呆気にとられるタチアナの視線の先にあったのは、何処か見覚えのある得意げな笑みを浮かべた、やたらと体格のいい三〇代くらいの女性の姿であった。





