閑話:迷いの森のリック
そうしてアプリコットの前から立ち去ったリックは、一人トボトボと歩いていた。足下に転がる石を蹴っ飛ばしながら進むのは、自宅のある森の方だ。
とは言え、帰宅するわけではない。日が落ちるにはまだ時間があるし、今はただ誰とも会いたくなくて、最近ではすっかり人が通ることの少なくなったこの道を歩いているだけなのだ。
「ちぇっ、何だよアイツ……俺と父ちゃんのことなんて、何も知らないくせに」
そう小さく呟いてから、リックは昔のことを思い出した。それは自分が三歳とか四歳の頃の、ぼんやりとした記憶から始まる。
リックにとって、父であるイリアスは憧れの存在だった。勿論祖父も凄い人だとは思っていたが、それはあくまで父がそう言うからであって、リックの中にある祖父の印象は、家の中で鍋の中身をグルグルかき混ぜている人だ。孫として普通に可愛がられていたはずなのだが、どうにもリックの中にはそのくらいの印象しか残っていない。
対して父は、完成した魔法薬の配達などのため、頻繁に村に出ていた。その際にリックもよくついていき、そこで父が多くの村人から慕われ、頼られている姿を何度も目にした。
――「イリアスさんの作る薬は相変わらず凄い効き目ですね!」
――「お婆ちゃんもすっかり腰が良くなったって言ってたんですよ。ありがとうございます」
――「俺は以前聖女様の<癒やしの奇跡>を受けたことがあるんだけど、イリアスさんの薬は全然負けてねーよ! いや、本当に凄いぜ!」
皆が口々に父を讃え、それに父がちょっと照れた顔で応える。だがその顔には誇りと喜びが満ちていて、そんな父と村の人達のやりとりを見る度に、リックの目は憧れでキラキラと輝いていたものだ。
だからリックは、父親が大好きだった。父のようになりたくて、父の役に立ちたくて、家のお手伝いも頑張った。将来は父の後を継いで自分も薬師になりたいと言えば、祖父も母も村の人達も笑顔で自分の頭を撫でてくれたし、父も「頑張れよ」と嬉しそうに応援してくれた。
幸せだった。満たされていた。だがその日々は、あっさりと終わりを迎えてしまった。祖父が死に、どういうわけか父が魔法薬を作れなくなってしまったのだ。
突然そうなってしまった父を、村の人達は責めなかった。でもいつまで経っても魔法薬が作れないままでいると、その態度は徐々に変わっていく。
――「イリアスさん、まだ調子悪いのかい? そろそろ前の薬の在庫もなくなっちまうんだけど……」
――「この前いただいた薬、どうも効き目が悪いみたいで……ごめんなさいね」
――「うーん、どうやら俺達は、イリアスさんに頼りすぎだったみたいだなぁ」
別に悪意を以て貶められていたわけではなく、今現在の父の能力に合わせて、評価が下方修正されていっただけだ。だが今まで頼られ感謝されていたはずの父が、今ではペコペコと頭を下げるばかりになってしまったのは、幼いリックにはとても辛い現実だった。
おまけにお金が稼げなくなったせいで、父と母が度々言い争いをするようになった。何とか薬師を続けるために研究を続けたい父と、そんな無駄金を使ったりせず、何でもいいから仕事をしてお金を稼いでこいと言う母。そんな二人の意見は最後まで折り合うことはなく、最後には母は実家に帰ることを選んだ。
過去の栄光に縋って、出来もしない仕事を続けるためにお金を使い続けるなんて間違っている。このままじゃすぐに生活が破綻して、暮らしていけなくなるだろう。だから無能になってしまった父を捨てて、自分と一緒に来なさい……そう告げてくる母の手を、リックは振り払った。
母が愛想を尽かした「諦めない父の姿」は、未だ現実を知らない幼子であるリックにとって、憧れの象徴のままだった。だから自分はここに残り、父と一緒に薬師としての未来を選ぶ……そんな感じのことを子供の言葉で精一杯主張するリックに折れたのは、母の方だった。
――「もういいわ。やっぱり貴方もイリアスの子供なので……なら好きにしなさい」
疲れた声でそう言った母は、それを最後に家を出て行き、その後は父子二人での暮らしが始まる。「人の命に関わる仕事だから」と父は錬金術による調合の手伝いは決してさせてくれなかったが、その分リックは母の代わりに家事を手伝い、二人で助け合って生活していく。
それは以前よりも忙しく、辛いことも多かったけれど……でもリックにとって、決して不幸な日々ではなかった。いつか父がまた魔法薬を作れるようになるとリックは固く信じていたし、もしそうならなかったとしても、その時は父の教えを受けた自分が、立派に父の後を継いだ薬師になろう。そんな決意の日々に、しかしまたも罅が入る。村にふらりとやってきた聖女が、その奇跡の力であっという間に村人の怪我や体調不良を治してしまったのだ。
――ズルい
父は毎日必死に考え、悩み、今の自分にできる最高の魔法薬を研究しているのに、何故聖女とかいう奴は祈るだけでそれを簡単に癒やしてしまえるのか。暗い妬みの炎に身を焦がされたリックには、聖女の笑顔が自分達を蔑み、父の努力を足蹴にして嘲笑うものにしか見えない。
故にリックは、聖女の力を目の当たりにした村長が呼んだ神子を、数え切れない程の悪戯の果てに村から追い出した。あんなズルくて汚い卑怯者が村にいついたりしたら、それこそ父の……自分達の居場所がなくなってしまうと考えたのだ。
勿論、それは村長や村の人だけでなく、父からも酷く怒られた。だがリックがやったのは反省ではなく、怒られた分だけ村の人達の手伝いをして、帳尻を合わせること。そうすることで、リックのなかで「聖女を追い出すこと」の正当性を確保し続けることができた。
結果、リックはそれ以上怒られることもなく、普通に村人に受け入れられた。こちらが呼びさえしなければ、聖女が村に立ち寄ることなんて滅多にない。だからそれで全てが上手くいっていた。いっていたはずなのに…………父が再び魔法薬を作れるようになる前に、あいつらはやってきて……そして聞きたくもない話を聞かされてしまった。
「村の人に何かあったら、父ちゃんが悲しむ、か…………」
子供とは知って気にせぬ愚か者ではなく、知らずに間違える未熟者である。狭い視野と浅い知識だけで物事を判断してしまうことはあるが、きちんと学びを得れば大人が考えるよりもずっと賢くなれるのだ。
そして今、リックはアプリコットからその事実を気づかされた。己の内にある正しさだけを盲信していた目を開かされ、これまで見えなかった道が見えるようになった。
勿論一〇歳と少しの子供が、そんなに難しい事を考えているわけではない。だが足下がぬかるんでいるとわかれば、泥が跳ねる前に水たまりから出て別の道を行く選択肢くらいは生まれるのだ。
「でも今更……どうしたらいいんだよ…………」
自分の手で誰かを追い出したというほの暗い達成感は、リックの中に今もある。汚れるとわかっていても、水たまりにバチャリと踏み込む感触を忘れられずに繰り返してしまうことは、大人だってあることだ。ましてや未熟な子供なら、その誘惑に抗えなくても仕方が無い。
「……………………」
だが、リックは「父のため」という思いを、言い訳にすることだけは嫌だった。皆に慕われる父が本当に大好きだったから、そこに泥を塗ることは他の何よりも許せなかった。
素直に過ちを認めるには子供過ぎる。だが目を反らして過ちを重ねることは父への尊敬が許さない。板挟みの感情にギュウギュウと胸が締め付けられ……ふと気づくと、周囲が暗くなっていた。
「うわ、夜!? え、嘘だろ!?」
いつの間に道を逸れていたのかと、リックは慌てて周囲を見回す。そうは言っても子供の足なのだからそれほど村から離れられるはずがないのに、辺りの景色にどうにも見覚えがない。
「ヤバッ、こんな夜まで出歩いてたら、父ちゃんに怒られちまう! 早く家に帰らなきゃ……でも、どっちだ……?」
妙に隙間の詰まった木々は全く視界が通らず、どの方向を向いても明かりが見えない。ならばと上を見上げるも、やはり生い茂る木の葉によって全く空が見えない。
「えぇ、何だよこれ!? うちの近くにこんな場所あったか?」
戸惑いながらも、リックは適当に歩いてみる。しかし行けども行けども景色は変わらず、加速度的にその不安が増していく。
「おーい! おーい! 誰かいないかー!」
こんなところで迷子になったなんて知られたら、馬鹿にされる。不安が頂点を越えたリックは、そんな恥も外聞もかなぐり捨てて大声で叫んだ。だが森の中は静まりかえっており、何処からも返事は来ない。
「おーい! おーい! 誰でもいいから、返事してくれよぉー!」
心細さに半泣きになりながら、それでもリックは歩き続け、叫び続ける。今ならばあのアプリコットが目の前に現れたとしても、泣いて縋って助けを求める……そのくらい追い詰められたリックの目の前で、不意にカサッと下草が揺れた。
「ヒッ!?」
それが村人ならば、姿を現す前に声をかけてくるはず。だがそれがないということは、つまり自分の声を聞きつけて近寄ってきた知り合いではないということだ。
リックの脳裏に、イノシシに襲われて大怪我をした三人の話が蘇る。とっさに地面に落ちていた棒を拾い、全身をガクガク震えさせるリックの前に現れたのは……
「オヤ? こんなところに子供が一人とは、随分と珍しいデスネ?」
黒い帽子を目深に被り、黒い外套で身を包んだ、なんとも黒々しい謎の存在であった。





