「お礼を貰っちゃいました!」
そんな小さな大事件から、三日後。その日アプリコット達は、フランソワの家にある豪華な部屋に招かれていた。やたらフカフカするソファに座って待っていると、程なくして木製の立派な扉が開かれる。
「やぁやぁ、待たせてしまったようだね」
入ってきたのは、四〇代くらいの男性だった。威厳よりは可愛げが先立ちそうなぱっちりした目元はフランソワにそっくりで、更にその口元には中央で左右に分かれ、毛先がクルンと丸まったヒゲがフッサリと生えている。
(フサフサです!)
(フサフサですわ!)
「凄いのだ! このおっちゃん、ヒゲがフッサフサなのだ!」
「ちょっ、シフさん!?」
アプリコットとレーナは内心で思うだけに留めたのに対し、普通に声に出してしまったシフの口を、レーナが慌てて抑える。だがその男性はフサフサのヒゲを楽しげに揺らしながら笑うと、そんな二人を手で制した。
「ははは、聞いていた通り、元気なお嬢さん方のようだね。私はフランソワの父で、フレッド・シュトーレン伯爵だ。どうぞよろしく」
「ひゃ、ひゃくしゃくしゃま!?」
「おおー! 大きな家に住んでるので偉い人だとは思ってましたが、伯爵様でしたか! 私は見習い聖女のアプリコットです!」
「我はシフなのだ!」
「お二人とも!? そこはもっとちゃんと……あ、わ、私はレーナと申します。伯爵様におかれましては、本日はお日柄もよろしく……?」
「そんなに畏まらなくてもいいよ。元々聖女様を相手に権威など振りかざすつもりはないし、何より君達はクレソンの、ひいては娘の恩人だ。もっと気を楽にしてくれたまえ」
「は、はい…………」
フレッドの言葉に、レーナが身を縮こまらせながら言う。
聖女は、基本的には政治的な権力からは切り離された存在となっている。これは<神の奇跡>という人の手に余るものを政治的に利用しては、いずれ人は神に見放され、奇跡が失われるのではないかと危惧されているからだ。
が、畏まらなくていいと言われたからといって、一般人が王侯貴族を前に自然体でいることは難しい。それに表向き咎められはしなくても、人の内心まで変わるわけではない。許されるからといって、礼節を捨ててもいいというわけではないのだ。
もっとも、今に限って言うのなら、フレッドは本心からそう思っている。貴族のような教育を受けているわけでもない一二歳の子供であり、権力と切り離された見習い聖女であり、何より娘の友人で長年仕えてくれた使用人の恩人でもある相手に偉ぶるような、フレッドは恥知らずの大人ではなかった。
「にしても、まさか私が仕事で家を空けていたほんの数日の間に、これほど色々な事が起こるとは……君達が居合わせてくれなければ、私は優秀な執事を失い、娘はその笑顔をなくしていたことだろう。まずは心から感謝の言葉を伝えたい。本当にありがとう」
「はい! 助かって良かったです!」
「ええ、本当に。お二人とも元気そうで何よりですわ」
「フランソワもじいやも、ママをくれるいい奴だからな! 助けるのは当然なのだ!」
倒れた翌日こそ休んだが、その後のクレソンは既に普通に仕事をしている。その姿を見て、またその側で笑っているフランソワの姿を見ているだけに、三人は心からそう口にする。
だからこそ、フレッドの言葉はまだ終わらない。ただ頭を下げて終わりにするほど、貴族の矜持は安くないのだ。
「それに関して、娘も何かお礼を考えているようなのだが、私からもきちんと形になるようなお礼をしたいと思ってね。何か欲しいものはあるかね?」
「なら、我はママが欲しいのだ!」
いかなる遠慮もなく、シフが真っ先にそう叫ぶ。その隣では再びレーナがアワアワし始めたが、フレッドは笑顔のままだ。
「ふむ。ママというのは、マーマレードジャムのことでいいのかな?」
「そうなのだ! ママは素晴らしく美味しいのだ!」
「わかった。そう言うことなら、これをあげよう」
そう言うと、フレッドは服のポケットから小さな指輪を取りだし、シフに渡す。
「それは当家の使いであることを証明する指輪だ。君達の身分を証明するようなものではないが、それを使って買い物をすれば、このアレスタリア王国内であれば我が家に支払いが来る。それを使って好きなときに好きなだけマーマレードジャムを買うといいだろう」
「うぉぉー!? 何だそれは! 凄いのだ! おい見ろレーナ、アプリコット! これは無限のママとなる凄いやつなのだ!」
「伯爵様、よろしいのですか? そんな大層なものをいただいてしまっても……?」
「構わないとも。よほど無茶な使い方をされれば撤回するかも知れないけれど、流石にジャム程度を買われたくらいで、我が家は傾いたりしないからね」
問うレーナに、フレッドがヒゲをシュピンと撫で上げながら答える。実際シュトーレン伯爵家の財政は健全に回っており、シフが毎日ジャムを一瓶食べ尽くしたとしても、そんな出費は誤差の範囲でしかない。
それに、今渡したのはあくまでも小間使いようのものなので、あまり大きな買い物はできないし、しようとすれば連絡が来るようになっている。信用はしても盲信はしない辺り、フサフサのヒゲに抜け目はなかった。
「では、次は君だ。レーナ君だったね、何か欲しいものはあるかい?」
「私は……」
今度は自分が問いかけられ、しかしレーナの表情が曇る。三日前に「お礼を」と言われてからずっと考えていたことが、今も尚レーナの中にわだかまっているのだ。
「今回、私はほとんど何の役にも立っておりませんわ。お礼をいただくようなことは、何も……それに、特に欲しいものもありませんし。
あ、でも、この町のスグナオル神殿にいる聖女ミレイ様が、じいやさんを助けてくださった聖女様ですので、お礼はミレイ様にしていただけませんか?」
「それは何とも、欲の無いことだ。勿論ミレイ様に対するお礼と、神殿への喜捨は十分に厚くさせてもらうよ。それはそれとして……」
フレッドは静かにレーナの方に近づくと、その頭をそっと撫でる。
「偶々今回は何もできなかったからといって、自分を卑下する必要はない。ただ一緒に居てくれるだけで救われる人というのもいるのだ。少なくとも娘は、君とお友達になれたことをとても喜んでいたよ。まるで私が君と友達になったかと錯覚するくらい、そりゃあもうたっぷりと話をしてくれたからね」
「伯爵様……ありがとうございますわ!」
その言葉に、レーナにも笑顔が戻る。それを見て満足げに頷くと、フレッドはレーナの頭から手を離し、最後にアプリコットの方に向き直った。
「では、最後だ。君がいなければ、クレソンは絶対に助からなかったと聞いている。故に君には特に厚くお礼をしたいところだが、何か希望はあるかい?」
「あ、はい。でしたら、お庭の片隅とかでいいので、小さな祠を作ってもらうことはできますか?」
「祠?」
「はい。今回じいやさんを助けるのに使ったのは、私に声をかけてくださった筋肉神ムッチャマッチョス様のお力なんです。その、聞いたことは……?」
「あー…………申し訳ない、初めて聞く神様の名だ」
記憶を探ったフレッドがばつが悪そうに答えると、アプリコットもまた苦笑を浮かべる。
「ですよねー。なので、祠を作って神様に感謝の祈りを捧げて欲しいんです。ごく普通の簡素なもので構わないので、ちゃんとお礼を伝えて欲しいな、と」
「わかった、約束しよう。だがそういうことなら、我が家から働きかけて大きな神殿を建てたり、あるいは国内にその名を広めることもできると思うが……」
フレッドのその提案に、しかしアプリコットは首を横に振る。
「いえ、それには及びません。よく知りもしない神様に適当に祈って欲しいわけではなくて、ちゃんと神様を知っている方に、簡単でもいいから心から祈ってもらう方が、神様も喜ぶと思いますから」
「……そうか、そうだね。いや、今のは愚問だった、忘れてくれ」
神は虚栄を求めない。神は他者に敬われるから偉大なのではなく、そもそも偉大であるが故に他者が崇め奉るのだ。それを履き違えていた言動を心から恥じると、フレッドは改めてアプリコット達の顔を見回す。
「では、君達の望むとおりの礼を用意させてもらう。他にも何か困ったことがあれば、是非とも頼ってくれ。私にできることなら、できる限りは力になろう」
「ありがとうございます、フレッドさん!」
「ありがとうございますわ、伯爵様!」
「フランソワのとーちゃん、ありがとうなのだ!」
何の打算も駆け引きも無い、純粋な言葉。久しぶりに聞くそれに心が洗われるような気持ちになったフレッドは、娘の友達三人にもう一度笑顔で頷くのだった。





