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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第四章 紫の愚者編
70/125

第68話 「ヨルムンガンド2」

 エンディミオンから運ばれてきた資材を何とか積み下ろし、魔導力学科の面々が丁度一息ついていたときだった。

 駐屯する兵士たちから少し離れたところで、乱雑に積まれた木箱に腰掛けていた彼女たちは、にわかに騒がしくなり始めた兵士たちを見て事の異変に気がつく。 


 何かトラブルでもあったのだろうか?


 そうつぶやいたアズナがおもむろに立ち上がり、慌ただしく走り回る兵士の一人に問いかけた。兵士は若干煩わしそうにしつつも、律儀に現状について口を開いた。


「森に入った調査隊が帰還したんだ。やつら、全軍纏めて撤収しろと喚いている。物資も装備も全て諦めてここを離れろと。ただ、本国から送られてきた執政官だけが頑なに反対しているんだ。だから今、調査隊に大人しく従うのか、執政官の面子を立てるのか、喧嘩まがいの議論を交わしているんだよ」


 言って、兵士はその場をすぐさま離れた。彼もまた何かしらの任を受けているのだろう。

 アズナは不味いことになったな、と不安げにこちらを見ていた学友たちに兵士の言葉をそのまま伝えた。


「――え? つまりあれ? 調査隊に何か面倒事があって撤退しろって言っているの?」


 ハンナの言葉にアズナが頷く。


「ああ。何があったのかはわからないが、良い知らせでないことは確かだ。僕らも荷物を纏めたほうがいいかもしれない」


 調査隊の緊急帰投。

 そして詳細が伝えられないまま下された全軍撤収の要請。


 確実に良くないことが起こりつつある中、イルミはふと木箱から立ち上がって森を見た。


 そういえば。

 あの女は。


 アルテミスとかいう女は無事に森から帰ってきたのだろうか。



 01/



 格好良く逃げろと叫んだ。少しでも化け物蛇の気を逸らそうと、調査隊に獲物を定めた蛇の背をひた走り、頭に跳躍。思いっきり鼻の穴に剣をぶっさしてみた。

 狙いは見事的中。蛇が苦しみ暴れ出したものだから、幸いにと調査隊たちは元来た道を全力で遡っていった。

 これで何とかなると安堵のため息を吐いたのは僅か数秒のこと。すぐに俺の姿を見定めた蛇は、こちらを振り落としてあっという間に臨戦態勢を整えてきた。

 このままでは確実にヤバい、と思った俺はとにかく逃げ回る戦法に徹した。幸い洞窟の巨大空間はあらゆる足場に溢れていたものだから、上に下に西に東へと逃げに逃げ回る。


「やだやだやだやだ! これ絶対死ぬる! 死ぬ! 昇天する! まだまだ死にたくないよう!」


 ただ格好付けたまま逃げ回るという事は不可能だった。情けなく涙を流し、涎をまき散らしながら洞窟内をチキチキレース。

 蛇があまりにも大きいのものだから、少し奴が動くだけであっというまにこちらとの距離を詰められてしまう。

 そのためにちょっと突き出た壁の突起を死にものぐるいでつかみ取り、パルクールの要領で跳躍。蛇の目線を死にもの狂いで俺から切ろうと足掻きに足掻き続ける。

 少しでも手を、足を滑らせたらその時点であの世往きだ。


「って、ちょっと待ったああああああああああ!」


 高速で動き続けていた足が不意に止まる。摩擦の殆どない鍾乳石の上をスケートのように滑りながら、剣を突き立ててやっと速度を殺すことができた。

 眼前にはいつの間にか途切れている地面と、恐ろしい勢いで流れゆく地下水の川が見える。間違いなく一度落ちてしまえば、地下洞窟の最果てまで押し流されてしまう死の川だった。

 しかも頭上ではちろちろと冷たい息を纏った赤い舌が蠢いていた。

 己が追いつめていた獲物が逃げ道を失ったことを理解しているのか、静かに奴は鎌首をもたげてこちらを見下ろしている。


「あ、あのー。ちょっとタンマというわけにはいかないでしょうか?」


 黄色い眼を再び視線が重なる。まさかこんな吸血鬼もなにもないところで人生が終わるなんて考えたこともなかった。

 ムダとはわかりつつも、へらへらと表情を崩し蛇に語りかける。


「いや、あのね。鼻の穴にいきなり剣を突っ込んだことは謝るし、何なら治療もするから見逃して欲しいなーって」


 てへ? と首を傾げてみれば返答は奴の赤い口だった。ほぼ180度に開ききった顎の中にはびっしりと鋭い牙が並んでいた。前歯二本は肉の中に埋没しており、何かに噛みついたときに飛び出してくる仕組みになっているのだろう。

 まあ牙の凶悪さよりも以前に、その巨大な顎ならば一発でこちらを呑み込みそうなものだが。


「ああああああああああああああああ! まじかああああああああ!」


 いきなり訪れた人生の終わりに出たのは何とも情けない声。でも案外人間てこんなもの何じゃないかと、妙な落ち着きも持っていて――。


「——さっきからやかましいわね。あんた、死ぬときくらいもっとお行儀よくできないの?」


 ふと天から降ってきた声にとっさに反応することができず、


「そこから一歩たりとも動いちゃ駄目よ。じゃないと本当に死ぬから」


 続いて降ってきたのは蛇に負けず劣らずの、巨大な氷の柱だった。



02/



 本当に何が起きたのかさっぱりわからなかった。

 ただ、俺の吐き出す息がいつの間にか白くなっていて、肌を突き刺すような冷気が周囲に満ちている。

 眼前には透明の柱が突き立っており、それが蛇と俺との境界を二分していた。

 そしてその柱の上から声がする。

 見上げれば人影が一つ。


「よくもまあ、このヨルムンガンドから生身でここまで逃げてこれたわね。あんた吸血鬼ハンター? だから身体能力だけはマシなのね。でもさすがに身の程知らずだわ。これの相手は人間には余りある」


 影は青い。

 とにかく蒼い。

 洞窟内を流れる冷たい風に靡く髪はいと美しきスカイブルー。こちらを見下ろす氷のような瞳は文字通りのアイスブルー。

 纏うドレスは多彩な青に彩られており、光の加減如何せんでサファイアブルーからコバルトブルーまで何でもござれ。

 ただ一つ。

 そんな青ずくめの人影でも特に異彩を放つ青があった。

 俺が持つ貧相な語彙力では説明しきれない、何処までも深い青。

 それは人影が纏う魔の力。

 世界を浸食する絶対強者の証は余りにも澄み切った青だった。

 その青に比べれば、大蛇――ヨルムンガンドの体色が随分とと汚らしい色に見えてしまう。

 俺がいつか見た、傲慢かつ冷酷な愚者が持っていた青よりも一層深い色。


「——いつまでじろじろとこちらを見ているの? ほら、ぼんやりしていると死ぬわよ」


 見惚けていた俺を突き動かしたのはそんな声。視線を眼前に戻せば、突如として出現した氷柱の向こう側から大蛇——ヨルムンガンドがこちらを見ていた。

 その黄色い瞳に宿る殺意は微塵も衰えていない。


「——感謝する!」


 礼もそこそこに、俺は真横へと駆けだした。丁度、地下水流と平行になるよう全力で。ヨルムンガンドが氷柱を迂回するだけ逃げる時間を稼ぐ算段だ。

 果たして狙いは正しかったようで、絶体絶命の危機はどうにかやり過ごすことができた。

 手近な岩の影に滑り込み、一度体勢を整える。


「おいおいマジか」


 岩陰からこっそり様子を伺えば、数多の氷柱を作り出した人影——見た目だけなら年若い少女が真っ向からヨルムンガンドと渡り合っていた。こちらを蛇が追いすがってこないと思えば彼女が足止めをしてくれていたのだ。

 次々に氷柱を生み出してはそれを高速で射出し、ヨルムンガンドの巨体を打ち据えている。

 いくら図体がデカくとも、爬虫類であることに変わりはないのか、氷に触れる度ヨルムンガンドの動きが鈍っているように見える。

 これならいけるかも? と暢気なことを考えていたら不意に少女がこちらに吹き飛ばされてきた。

 何が起こったのか考えるよりも先に、横っ飛びで少女の身体を抱き留める。


「ちっ、あいつこのままじゃ適わないと思っておもいっきり体当たりをかまして来たわ。さすがにあの重量を受け止めるのは無理だったか」


 俺に抱きかかえられたまま少女は舌打ちを零す。

 彼女の体温は一切感じられず、代わりにこちらの身まで凍りそうな冷気を漂わせていた。今この瞬間も冷気にあてられて俺の髪が先から凍り付き始めている。


「バカ、私に触れ続けると死ぬわよ。いい加減離しなさい」


 起き上がった少女が俺を突きはなつ。彼女は一切振り返ることなくヨルムンガンドを睨み付けていた。

 そこには畏れも怒りもない。

 ただ自身の手を煩わせ続ける害獣に苛立っているだけだ。

 この傲慢不遜さ。間違いなく彼ら七人に通じるものがある。


「氷柱を突き刺そうにも鱗が堅すぎで難しいわね。仕方がない。あまりやりたくはなかったけれども、こうするしか他ないか」


 言って、少女は手を突き出した。魔の力を最近感じられるようになった俺みたいなビギナーでもハッキリと視認できるほどの、恐ろしいまでの螺旋が渦巻いている。

 青く冷たい力の本流は、小さく小さく練り込まれており、幾重にも連なった魔の力の片鱗がとぐろを巻いている。

 全く標的にされていない俺ですら、余りの寒さに身を縮ませ、命の危険すら感じる始末。

 

 ていうか滅茶苦茶寒い。

 やばい、震えが止まらない。吐く息はとっくの昔に凍り、息を吸い込めば肺が凍り付く予感すらする。

 ここまでの暴力的な冷気、初めて目にした。

 いつぞや殺し合ったあの男もここまでではなかった筈。


「——凍え死ね。汚らわしい獣め。そして我が復讐の糧となれ」



03/



 視界が青白く染まる。

 何かが撃ち出されたことは理解したけれども、その力の規模を観測することは不可能だった。

 気がつけば身体が転げ回っていた。

 岩のくぼみに潜り込むことが出来なければ、その後にやってきた力の余波に凍らされていたかもしれない。

 鍾乳石に付着していた全ての水分は氷となり、壁一面はそれで形作られた傷痕のような結晶が這いずり回っている。


「……生きてるって素晴らしい」

 

 何とか言葉を吐き出してみれば、唾液すら凍り付きかけている事に気がつく。

 慌てて肺の中の空気を押し出し、咳き込んでみれば氷の欠片をぽろぽろと口から零していた。

 多分、あのまま口を閉じていれば内部から凍てつき死んでいただろう。


「あ、あいつは」


 窪みから這いずり出た俺が見たのは氷河の地獄だった。薄暗い洞窟が一面の銀世界に変化しており、その全てが触れれば取り返しの付かないことになることを教えてくれている。

 そんな死の世界の真ん中で少女は立っていた。


「あら、生きていたの。死んだかと思った。運が良いのね。全部殺すつもりで凍らせたのに」


 怒りとかやるせなさとかは一切感じられなかった。

 あまりにも圧倒的すぎて、そもそも感想を考えることすらできない。

 ただ自然災害にされるがままの、ちんけな人間がここにいるだけなのだ。


「——蛇は?」


 だから俺が絞り出すことのできた言葉は極月並みなもの。

 それまで最大の脅威を誇っていた怪物の行く末だけ。

 少女はさぞつまらなさそうに指さした。


「あそこ。残念ね。あれじゃあ鱗一枚取ることも出来ないわ」


 視線を向けてばそこには氷塊があった。とても大きくて冷たい氷の塊。その中に閉じ込められていたのは、これまで散々こちらを追い回してくれた大蛇。


「死んでいるのか?」


「あたりまえじゃない。完全に凍てついているからちょっと衝撃を加えれば崩れるわ」


 有言実行とはまさにこのこと。

 少女がやや小降りの——とはいっても俺の背丈と同じくらいの氷柱を作り出したかと思えば、直ぐさまそれを撃ち出した。

 氷柱は見事氷塊とぶつかり合い、砕け散ったのは氷塊だった。

 中に閉じ込められていた大蛇ごと、氷塊は塵と化した。


「はえー」


 間抜けな声が漏れ出したのは仕方がないことだと思う。まさかあれだけ巨大な物体が一瞬で凍り付き、あまつさえ砕け散るなど想像すらできなかったからだ。まさしく必殺の一撃というやつである。


「魔の力を吸収してやろうと思ったけれど、こうも粉々じゃなんの役にも立たないわね。本当、何のためにこんな片田舎まで歩いてきたのか……」


 足下に転がった破片を踏みつけながら、少女は呆れたように溜息を吐く。

 徒労に終わってしまったと言わんばかりの表情だった。


「まあ終わったことをとやかく言っても仕方ないわ。——じゃあ精々気をつけて戻りなさい。あんたの実力じゃそのうち何かに食い殺されるだろうけれども、足搔いてみれば今日みたいな面白いことが起こるかもね」


 俺にもう興味を失ったのか、少女はこちらを一瞥することなく歩みを開始した。

 その絶対強者としての振る舞いはますますいつかの誰かを思い起こさせて——。


 ふと、冷たい空気を感じる。

 それは少女が世界に刻みつけていった静謐な冷気とはまた違ったもの。

 言うなればもっと粘液質な、爬虫類の吐息のような——。


「あ」


 反応できたのは俺が少女のことを目で追っていたからに他ならない。

 少女は突如として天上から出現した尾っぽになぎ払われていた。

 それが先ほどまでいた大蛇の持っていたものと同じものだと理解するまで僅か一秒。


「——ああ、そういうこと。もう一匹いたのね。この死に損ないが」


 少女は生きていた。

 咄嗟に展開したのか、氷で出来た盾を自身の周囲に展開して少女は超質量の一撃を受け流していた。

 殆ど不意打ちだっただろうに、彼女は恐るべき反応速度で防御を成功させていた。

 薄々というか完全にわかり切っていたことだけれども、この少女とんでもなく強い。


「くそっ。さっきので結構魔の力を消耗したわね。どうしてやろうかしら」


 おそらくつがいだったのだろう。

 目の前で殺されてしまった相方の敵討ちのつもりか、もう一匹の大蛇、ヨルムンガンドは明確な怒りを携えて天上から降りてきた。

 その巨体は負けず劣らずのもので、体色だけが違っている。

 目が冴えるようなエメラルドグリーン。

 青く輝く氷の世界で、その碧が嫌に映えていた。


「——助太刀する。さっきの威力のやつをもう一度撃てる?」


 悪態をつく少女の隣に駆け寄り、剣を構えた。正直滅茶苦茶怖いけれどもこの局面を切り抜けない限りは俺に明日はない。

 少女は呆れ顔を隠すことなく口を開いた。


「いらない。正直邪魔。あいつにお前をぶん投げて囮にするくらいしか活用法が思いつかない」


「さらっと恐ろしいことを言わないで! 時間稼ぎならきっと出来るから! もう一度さっきの凄い奴撃ってくれたら勝てるから!」


 俺の情けない懇願に、少女はあっけからんと答える。


「ああ、それ無理。もう一度あれを撃つのは日をまたぐくらいの時間がいるわ。だからお前を餌にして逃げ出そうかしら」


 う、嘘やん。まじかそれ。

 まさかのガス欠ですかお姉さん!


「ま、一瞬あいつを拘束するくらいなら出来るけれども、それだけね。私は逃げ切れるけれど、多分あんたは何処かで追いつかれて食われるわよ」


「わーん! さっさと逃げ出しておけば良かった!」


 助かったと思ったら全然助かってなかった! こんな惨たらしい話があってたまるか!


「というわけで残念だったわね。せめて一呑みにされたら苦しまずに死ねるかもよ」


 再び少女が腕を突き出す。恐らくそこに残された魔の力を込めて、強力な冷凍攻撃を撃ち出すのだろう。ただし威力は縮小版。あの大蛇を一瞬足止めするだけのもの。


「じゃあね。さようなら」



04/



 違和感はさあ魔の力を収束させようか、というときに訪れた。

 少女が隣に視線を向けてみれば、いつの間にか女剣士の剣に黒い影が纏わり付いていることに気がつく。

 その正体について完璧な理解は及ばないものの、もしかしてコイツは使えるのでは? という疑念が湧いた。

 多分それは気まぐれ。

 面倒くささを考えればとっとと自分だけ撤退して、女剣士を見殺しにする方が楽だ。

 ただ、さっきヨルムンガンドに体当たりを食らったとき、このひ弱な剣士は横っ飛びになりながらこちらを抱き留めてきた。

 その恩くらいならば今返してやっても良いかもしれない。

 復讐ばかり頭を駆け回る毎日だが、ただの気まぐれくらい抱いても良いはずだった。


「ねえ、あんたその影、何に使えるの?」


 少女は素直に問う。何かしらの悪あがきでも出来るのか、と剣士に問うた。

 青の視線を向けられた剣士は「はっ」と目を見開かせて自身の手元を見る。

 そして動揺を隠すこともなくやや早口で答えた。


「た、多分、ちょっと時間貰えれば何でも斬れます!」


 何だそれは? と疑念の思いを表情に出せば、剣士は大層慌てていた。

 だが嘘を吐いているようには見えない。

 おそらく何かしらの確信を持って剣士は「斬れる」と回答している。

 ならば、と言葉を続けた。


「——あいつの首、落とせる?」


 問いはシンプル。

 殺せるか。

 殺せないのか。


 剣士は是と言った。


「あ、そう。なら私があいつの足を一瞬止めるから、とっとと首を落としてきなさい」


 それ以上の返答は聞かない。聞く必要もない。

 剣士が首を落とすことが出来なければ、ただ彼女が死ぬだけなのだから。

 少女は再び手を大蛇に向ける。

 剣士はそれ以上四の五言わずに駆けだしていた。

 犬みたいで可愛らしいじゃないか、と少女は口元を歪めて笑った。


「さあ精々やってみなさい。面白ければ生き残れるかもよ?」



05/



 影は何に使えるのか。

 その問いに対して俺は最初、頭が回らなかった。

 ただ問いを発した少女の視線を辿ってみれば、俺の剣に行き着いた。ヘルドマンが用意してくれた業物とは言え、特別な力など何もない剣だ。

 だが少女が指摘したとおり、いまその様相は大きく様変わりしていた。


 それは影。

 質量を持ち、銀の刀身を這い回る黒い影。


 あ、と声が漏れる。

 

 今更になって思い出すのは、いつかのヘルドマンの言葉。


 ——私の魔の力を込められたこの人形は、一部とは言え私の力が使えます。


 間違いない。この影は規模は小さいながらもヘルドマンがいつも操っている万能の影だ。防御も攻撃も収納も自由自在なそれは彼女が抱く最大の武器。

 全てを切り裂き、貫き、細切れにしていく不定形の刃。

 だから俺は少女に答えた。


 何でも斬れると。


 俺自身は大した力がなくとも、黒の愚者であるヘルドマンの実力を疑う余地はない。力を失っていようと彼女は第三位の愚者。こんなでかいだけの蛇、片手間に始末してしまう実力を有している。

 例え借り物であろうと、その力を一部行使できるのならば、大蛇を斬ることだって出来るはずだ。


「——あいつの首、落とせる?」


 是と口にした。

 もうそれは反射のようなものだった。

 気がつけば俺は走り出し、剣を構えていた。

 少女が背後から氷柱を撃ち出し、大蛇を、ヨルムンガンドを打ち据える。

 ヨルムンガンドの気が少女に逸れたことを確認した俺は、剣を奴の体表に突き立てていた。

 エメラルドグリーンの鱗に覆われた鋼鉄のような体表。

 黒い影を纏った剣は、一切の抵抗もなくそこに突き刺さった。


「成る程、やるじゃない」


 少女の素直な賞賛を背中で受け取りながら、俺はその場を一時離脱する。

 初めて痛みらしい痛みを感じたヨルムンガンドが身体全体で体当たりをかまして来たからだ。さすがにこの一撃を受け止めることは出来ない。触れた瞬間、血の煙となって霧散してしまうだろうから。


「でも、首を落とすにはまだ足りないわ。何か考えがあるの?」


 飛び退いた俺に少女が駆け寄り、さらなる牽制の氷柱を生み出した。

 俺は脳みそ空っぽの知性をフル動員しつつ、打開策を苦し紛れに口にする。


「一瞬でもあいつの動きを止めて貰えれば——あるいは」


 それとなく影を伸張させるコツは掴んだ気がする。いつもヘルドマンがそうしていたように、影を自分の身体の一部だと認識することが重要みたいだ。

 少女は「あっそ」と素っ気ない返事をしつつも、こちらに目線を送りながらこう言った。


「あと十秒であいつの足を止めるわ。——仕留めてきなさい」


 こちらの返答は遮二無二に駆けだした足だ。あちらは俺のことなどこれっぽっちも信頼していないだろうが、俺は信頼する他ない。

 少しでも少女が気まぐれを起こせば。

 気まぐれで撤退を選択すればたちまち俺はミンチになるか、大蛇の腹の中だ。

 それでも信じるしかない。


 剣の上を再び影が這い回る。

 ヘルドマンの権能である全てを切り裂く影が刀身を形成する。


 剣を上段に構えた。ヨルムンガンドはまだ止まっていない。我武者羅に突っ込んできた俺を嘲笑うかのように、大口を開けて待ち構えている。

 間違いなくこのまま行けば存在するのは俺の死のみ。


「十秒丁度。時間よ」


 背後から凜とした声がする。宣誓はまさしく誓いの履行。

 俺を追い抜くように撃ち出された冷気がヨルムンガンドを絡め取っていた。

 先ほどの全身冷凍には及ばないが、それでも体表の殆どを凍らされたヨルムンガンドが苦悶の表情を浮かべていた。

 蛇だから鳴くことがなくとも、まともな声帯があればまさしく絶叫が洞窟を揺らしていただろう。


「こんにゃろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 ヨルムンガンドの鼻先を足場に俺は飛び上がる。

 イメージするのはまさしくヘルドマンの螺旋の槍。あれを刃のように練り上げ、尚且つ全長を俺の背丈の数倍に伸ばす。

 全身から何か力を吸い取られていくような感覚が、俺の付け焼き刃の能力行使を後押ししてくれる。これで間違っていないと、黒の愚者の幻影が背中を押してくれる。


「ちぇすとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 振り下ろした特大の黒い刃がヨルムンガンドの頭部後方に食い込んだ。あとは自由落下の力と俺の退場で振り抜いてみせる。

 吹き出した血が、洞窟の天上を赤黒く汚していた。

 だがそれは、間違いなく俺たちの勝利の証でもあった。



06/




 まあ、別に油断をしていたわけではないけれども、気の緩みはお互いにあったのかもしれない。

 同じ脊椎動物である以上、脳が収められた頭部を胴体から切り離してしまえば普通は死に至る。だって俺は生首で生きていける自信があるわけじゃないもん。

 ただ、いつか青の愚者戦でヒントにしたとおり、蛇の生態は割と意味不明で面白いものだ。

 蛇の熱源に反応するというエピソードが、青の愚者を欺く罠の発想に直結したことは今でもしっかりと覚えている。

 他にも顎の骨の接続がゆるゆるでとんでもない大きさの獲物を丸呑みにするだとか、全身が筋肉の塊だからこそ、獲物の骨を締め付け砕くことができるとか。

 そして俺がふと思い出したのはそんな蛇の生命力の強さだ。

 酒が満たされた瓶に長期間沈められても、割と長いこと生きてはいるし、変温動物のくせに冷凍庫に入れられても中々死なない。

 どんな原理でその生命力が維持されているのかさっぱり解らないけれども、とにかく蛇という生き物はそれなりに死ににくいのである。

 しかもこの世界は俺の想像も及ばないハイファンタジー。

 そんな世界で生きてきた馬鹿でかい大蛇が、たかだか首を落とされたくらいで即死してくれるわけなかったのだ。



07/



 一瞬で距離を詰められたのは少女の方だった。

 落ちた首から先が、巨大な頭部がいかなる原理故か最期の力を振り絞って、少女に突進していた。

 ただそれで少女が狼狽えることはなかった。

 落ち着いて氷の盾を生み出し、突進をいなそうとしていた。

 しかしながらここで誤算が一つ。

 大技を連続で行使した疲労故か、受け流す角度が浅かった。


「あっ」

 

 ふらついた少女が吹き飛ばされる。彼女は鋭い視線でヨルムンガンドの頭を睨み付け、手のひらを向けた。

 宙を滞空しながらも、的確に撃ち出された氷柱がヨルムンガンドの瞳に突き刺さり爆散させる。表情は苛立ちに満ちており、犬歯を剥き出しにしていた。

 少女は背中から着地しようとして、いつまでも全身を打ち据える痛みがないことに気がつく。

 

 やけに滞空時間が長い。

 

 それに、こちらを呆然と見ている女剣士がどんどん離れていく。

 どういうことだ、と思考を巡らせてみれば、訪れたのは全身を包む冷たさと倦怠感。

 そして一瞬で視界が黒く染まる。四肢が一切合切固まり声すら上げられなくなる。


 少女が地下水流に落ちたと気がつくのは、その直後の事だった。



08/



 あああああああああああああああああ。やっべえええええええええええええええええ。

 轟轟と流れる地下水流を見下ろしながら俺は滝のような汗をかいていた。もちろんそれは冷や汗である。

 魔の力が介在できない水の流れ——要するに川や海は月の民にとっての天敵だ。

 生命力そのものでもある魔の力が全く行使できない水中では、彼ら月の民は視界の確保どころか、殆ど四肢も動かすことが出来ない。つまり超弩級の金槌なわけで。


「絶対あかんやん。これ」


 本日何度目かも解らない絶望の呟きを聞いてくれる人間は誰もいない。

 あるのは剛流が生み出す恐ろしい音のみ。


 ていうか、この水量。

 俺も落ちたらただじゃすまない気がする。

 普通に死ぬ気がする。

 いくら吸血鬼ハンターでもこれはあかん。


 けれども。


「……見捨てるのは目覚めが悪すぎる……」


 正直言って、あの少女は命の恩人そのものだ。

 青の愚者と同じ能力を使ってはいるが、あきらかに別人だし、冷酷ながらにちょっとだけ優しさもあった。

 彼女がいなければ今頃俺はつがいのヨルムンガンドのおやつになっていただろう。

 でも怖いものは怖い。

 ぶっちゃけ死にたくない。


「——っ!! ええい! ままよ!」


 剣を投げ捨て、軽鎧を脱ぎ落とし、準備運動もそこそこ。

 あと必要なのは気合いと度胸。


「アルテことアルテミスちゃん! 地下洞窟水泳に行って参ります!」


 飛び込む。 

 予想以上の流れに飲み込まれて、上も下も解らなくなる。

 

 あ。


 これ死んだわ。


 そんな暢気な感想が抱けたのは、水に呑まれて僅か数秒のこと。

久しぶりのティアナさん。

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