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ヴァンパイア/ジェネシス(勘違い)  作者: H&K
第二章 白の愚者編
38/125

第37話 「顛末」

 金額の大小には疎いイルミであったが、それでも換金所で得た金額がかなりのものであることは何となくだがわかった。

 大判の銀貨が三十枚。両替所で受け取ることの出来る貨幣では最も高価なものだ。

 たぶんアルテの復帰祝いを用意するには十分すぎる程の金額だろう。

 意図せずして大金持ちとなったイルミはふらふらと市場を散策していた。

 アルテを畏れながらも信じてここまで着いてきた。その結果が首元から吊した財布の重みだと考えると、何処か誇らしく自然と頬も緩んだ。

 けれどもそんな幸せな時間はたいしては続かなかった。


「おい、お前。止まれ」


 声を掛けられる。

 いや、声を掛けられた、という表現はオブラートに包んだものだ。正確には背後から肩を掴まれ無理矢理振り向かされた。


「この銀髪、赤眼。……狂人と共にいた奴隷の特徴そのままだ」


 イルミの足を止めたのは二人組の男だった。

 一目見て戦闘用とわかる軽鎧に身を包み、聖協会の人間がよく持っている剣を帯刀している。

 肩を掴む男は随分と大柄で、一目見てその戦闘力が高いことを窺い知ることが出来る。

 もう一人は細身ではあるが、決してひ弱な印象は抱かせない。

 何処かきな臭いものを感じたイルミは警戒度をそっと引き上げた。


「少しばかり話を聞かせてもらうぜ。お嬢ちゃん。これはマザーの命令だ。悪いな。こんなむさ苦しい男二人がデートの相手で」


 二人組の片割れ、イルミに手を伸ばしていない方の男が戯けながらそう言った。 

 だが眼は一切笑っていない。

 イルミは内心冷や汗を流す。昼行灯を演じてはいるがこの男も、肩を掴んでいる男も相当の手練れだ。

 

 逃げなければ。


 そう思い至ったときには影から使い魔の狼が二匹、牙を剥き出しにして飛び出していた。


「うおっ! 血気盛んだな!」


 二匹の狼はそれぞれ二人の男に殺到した。

 普段ならば数秒もすれば男達は物言わぬ骸と化していただろう。だがイルミが手練れと評価したとおり、二匹の狼は僅かばかりの時間稼ぎにしかならない。

 イルミは男達のその後を確認するまでもなく、直ぐさまその場から駆けだした。


「ぬぅ! これだから子どもは苦手である!」


 狼たちの牽制をいち早く抜け出したのは大柄の方だった。

 彼は力業で狼を吹き飛ばし、その体格からは考えられない俊足でイルミに追いすがる。


「少しばかり痛い目にあってもらおうか!」

 

 振り上げられた剣がイルミの数歩前に影を作る。

 背後を振り返る間もないまま、イルミは横っ飛びで市場に開かれていたマーケットの一つに飛び込んだ。

 続いて地面を抉り取る轟音が木霊する。フルーツの山から慌てて抜け出したイルミは「痛い目所じゃすまない」と言わんばかりに脱兎の如く路地の方へ逃げ出した。

 だが、遅れて狼を振りほどいた細身の男がそんなイルミを飛び越えて前に立ちふさがった。


「ほらほら、あんまり痛くはしないからさ。大人しく捕まってくれないか」

 

 男が剣を抜く。直ぐさま踵を返すが、大柄な男の方がどすどすと路地の向こう側から大股開きで歩いてきた。

 挟まれた、と後悔してももう遅い。

 市場にいた一般人達は遠目から怯えたようにこちらを伺うだけで助けてくれるそぶりは見せなかった。

 使い魔の狼をもう一度呼び出すべきか、と思ったが何度繰り返してもこの二人には通用しないことは明白だった。


「……助けて、アルテ」


 ぽつり、と呟きが漏れる。

 その呟きを聞いた男二人は互いに顔を見合わせた。


「どうやら当たりのようだな。俺の勘は冴えているらしい。トンザ」


「目の前のこいつに集中しろ。ユズハ。戦闘力はともかく逃げ足と判断力は一人前だ」


 細身の男、ユズハが戯けてみせればそれを大柄の男、トンザが戒める。

 けれども二人の視線は追い詰めた獲物、イルミをしっかりと見据え油断はどこにも見られない。


「マザーに狂人のアキレス腱になるかもしれないから確保しろ、と命令されたときには何事かと思ったが、どうやらただの小娘ではないらしいな」


「そりゃあ、あの化け物が連れ回してる奴隷なんだ。凡人なわけないだろ。でないと、とっくの昔に殺されている」


 男達が一歩、また一歩と躙り寄ってくる。

 何故自分が追い回されているのかイルミは理解できないが、それでもアルテに何らかの妨害を行うために二人が動いていることだけは想像できた。

 ならば尚更捕まるわけにはいかない。

 何があってもアルテの足を引っ張るようなことだけはしてはならないのだ。

 アルテが偉業を成し遂げるために寄り添って生きているイルミだ。そんな彼女の思考は当然のごとく、己の安全よりも狂人の利害を考えた。


 最悪ここで死のう。


 そう考えたイルミはもう一度、狼の使い魔を呼び出した。

 二人の男から受けたダメージが回復していないのか、その足取りは弱々しげだ。

 だが今はそれで十分だ。

 イルミは狼たちに向かって高らかに宣言する。


「ここで私を食い殺しなさい」


 男達の表情が驚愕に染まる。狼たちも己が敬愛する主から告げられた命令に驚き、畏れ、尻尾を垂れた。

 イルミはそんな使い魔たちに苛立ち声を荒げる。


「早く私を殺して!」


 イルミの真意に気がついたのは細身の男、ユズハだった。

 ここで自決されては敵わないと剣を構え狼の一匹に突進する。少し遅れはしたが、トンザも狼を止めるべく剣を振り上げた。

 狼たちはほんの数瞬だけ躊躇ったように喉を鳴らした。

 だがイルミの命令に縛り付けられた彼らはその白い牙を剥き出しにして男達よりも先に飛びかかる。 


 間に合わない!

 

 イルミの腕に狼が食らいついた。

 鮮血が舞い、彼女の表情が苦悶に染まる。だがもう一匹の狼がイルミの喉を食い破る寸前、救世主は空から落ちてきた。

 奇しくもそれは、アルテにマリアが突撃を仕掛けたのと同時刻のこと。


「その必要はないぞ! イルミリアストリアス!」


 巨大な腕がイルミから狼を引き離した。

 そして呆気に取られる男達二人を置き去りにして、もう片方の腕がイルミの首根っこを掴みあげる。

 次に爆発音が一つ。

 周囲に決して無視できない衝撃波を残してそいつは飛び去った。

 自分たちの中心に降ってきたのが、小型の魔導人形であるとトンザ達は気がつくが時既に遅し。

 朱い魔導人形は白塗りのシュトラウトランド特有の建物を飛び越えて、自分たちでは終えないほど遠くに逃げ去っていった。


   /


 だくだくと右腕から流れ出る血は魔導人形に抱えられたまま、レイチェル・クリムゾンによって応急処置が成された。 

 イルミはその段階になって、ようやくレイチェルの操る魔導人形に救われた現状を理解した。


「……これは?」


 自分とレイチェルをしっかりと胸に抱えてきた魔導人形は今、とある建物の屋上に鎮座している。

 イルミとレイチェルもそこにいた。

 だが自分の知っている魔導人形に比べると随分と小ぶりな――およそ二メートルくらいのそれをイルミはしげしげと眺める。


「ボクの魔導人形の余ったパーツとコアで作った簡易的な魔導人形だ。これで操作してる」


 そう言って、レイチェルは自分の首に巻いたチョーカーのようなものを指さした。丁度アルテが身につけているものと同じようなものだ。


「本来なら土木作業に使うくらいの大きさなんだが、エンリカによって少しくらいの戦闘には耐えられるように設計して貰った。何もこの一ヶ月、だらだらと過ごしていたわけではない」


 イルミの腕に巻いた包帯の具合を確かめ、レイチェルは朱い魔導人形を少しばかり動かして見せた。


「それにしても思い切りが良すぎるな君は。まさかあの場面で自決を選ぶとは。そんなに男達が苦手なのか?」


「いいえ。アルテの足手まといになりたくなかっただけ」


 ばっさりと言ってのけたイルミにレイチェルはやれやれと頭を抱えた。

 前から薄々とは感づいてはいたが、この少女はこと狂人の事になると手が付けられなくなるのだ。


「まあ、今回ばかりはボクが間に合ったから良かったものの、少しばかりは自分の身を大切にしたほうがいいぞ」


「いやよ。アルテの邪魔になるわ」


「……そこまで彼は鬼じゃないよ。君が死ねばきっと悲しむ」


「知った風な口を利かないで」


 頑として言うことを聞かないイルミに、レイチェルは困ったな、とため息を吐いた。

 どうすればこの少女の悪い意味での思い切りの良さを正してやれるのか、と思い悩んだ瞬間、イルミは建物の縁に立って下を覗き込みだした。

 それが飛び降りる算段を付けているのだ、と気がついたとき、朱い魔導人形――ゴリアテと名付けた――に指示を飛ばしてイルミの首根っこをもう一度引っ掴んだ。


「こらこら待て待て!」


「放して。アルテの所に向かうわ。あいつらの言ってたことが本当なら、アルテが誰かに狙われている」


「人の話は最後まで聞いて欲しいな。ボクが君を助けたのは偶然でも何でも無い。態々探し回ってようやっと見つけたんだ」


「……どういうこと?」


「『ドワーフの穴』が聖協会に包囲されている。何でもアルテを拘束しに来たらしい。ボクはエンリカにその場を任せて、こいつ――ゴリアテを連れて抜け出してきたんだ」


 レイチェルが言うにはこうだ。

 クリスの帰りがいよいよ遅くなり、アルテからも何の連絡もつかないことを不安に感じたエンリカは、私用から帰ってきたレイチェルに二人の様子を見に行くよう頼んだ。

 するとそのタイミングで武装した聖協会の人間達が大挙してエンリカの工房、「ドワーフの穴」に押しかけてきたのだ。

 聞けばアルテの身柄を拘束しに来たという。

 これはイルミの身も危ないと判断したエンリカはレイチェルにそっと頼み込んで、ゴリアテと共に包囲から抜け出させた。

 無事「ドワーフの穴」を抜け出したレイチェルは街中を跳び回りイルミを探した。

 そして男二人に追い詰められた彼女を見つけ出したのである。


「アルテは聖協会にクリスを探しに向かったそうだ。もしかしたらもうあそこは戦場になっているかも」


 聖協会のシュトラウトランド支部がある方向を見てレイチェルが呟く。

 イルミはそれを聞いて尚更急がねばなるまいと、首根っこを掴まれたまま暴れた。


「心配しなくてもいい。ボクも聖協会に向かう。それに君の足よりもこのゴリアテの方が確実に速い。君がこいつに魔の力を注いでくれたら尚のことだ」


 しばらく暴れていたイルミはじっとレイチェルの方を見た。

 出来ればこの女とは協力関係など結びたくない。

 何せ自分よりも先にアルテの唇を奪った泥棒猫なのだ。

 たとえ恋愛感情云々を抜きにしても、そればかりは許せない。

 だがイルミはアルテの無事と自分の嫉妬を天秤に掛けるまでもなく、直ぐさま決断した。


「なら急ぎましょう。できる限り協力するわ」


 こういう事には素直なんだな、とレイチェルは口に出すことを我慢してゴリアテを操作した。

 イルミを抱え直し、自身も反対の腕に抱えさせた。

 脚部の人工筋肉が胎動し、屋上を踏み抜かんばかりに跳び上がる。

 並の人間ならばそれだけで失神しかねない動きだが、イルミもレイチェルもその辺りは凡人と違った。

 こうして妙な停戦協定を結んだ二人はアルテが産みだした地獄へと真っ直ぐ向かった。


    /


 講堂内は乱戦の様相を見せてきた。

 アルテによって早々に切り伏せられていた戦闘員も、非戦闘員の職員達によって万全とはいかないまでも回復させられた。

 そんな彼らはもとより、非戦闘員も何処から調達してきたのかボウガンなどによって参戦してきたのだ。

 さらには声を取り戻したクリスが時折踏み込んできては、アルテの動きを阻害しマリアの鉄槌で押しつぶそうとしてくる。

 何より厄介なのはマリアの不死性だ。

 一度腕を切り飛ばしたのだが、直ぐさまそれを繋ぎ直し、非戦闘員のボウガンの矢が突き刺さっても何食わぬ顔でこちらに向かってきた。

 つまり乱戦に対して非常に相性が良い体質をマリアは有していたのだ。


「どうしました狂人アルテ! 動きが鈍いですね!」


 クリスの誓約によって再び動きを止められる。

 その隙にマリアが鉄槌を振るい、アルテを挽肉に変えようとした。

 アルテにとって幸運だったのは、クリスが完全には回復しきっておらず足を止められても僅か一秒にも満たない時間で済んでいることだろうか。

 もしも一秒以上、動きを阻害されればその時がアルテの命運尽きるときとなる。


「ちっ!」


 義手のため、クリスの誓約を受けない右腕を使って地面から飛び退く。

 その直後、鉄槌が空気を押しつぶす音を残して通過していった。

 アルテは重たい脚に鞭を打って、大振りの体勢になったマリアに接近する。

 そして右肩から左脇腹に掛けて黄金剣を振るった。

 確実に食い込んだ刃はマリアの身体を見事に寸断する。


「ごふっ」


 致死量にも等しい血液を吐きだし、マリアが倒れ込む。

 真っ二つになった彼女は断面から滝のように鮮血を垂れ流した。

 だがこれでは足りないと言わんばかりに、アルテは黄金剣を瞳孔の開いたマリアの頭部へ向ける。

 けれどもそこまでだ。

 金切り音を残して飛来した矢が眼前を通り過ぎる。

 すぐさまアルテはその場から飛び退き、ボウガンを発射した職員の元を見た。そちらに飛びかかろうと脚に力を込めるが、クリスの叫びが響き渡る。


「させるか! 『誓約:止まれ!』」


 それだけで脚はアルテの言うことを聞いてくれない。

 時間にして僅か一秒未満。足止めと言うには余りにも心許ない時間稼ぎだが、不死ノスフェラトゥのマリアには十分すぎる時間だった。


「やってくれましたね! この法衣はお気に入りでしたのに!」


 硬直の解けたアルテが転がるようにその場から逃げ去った。

 鉄槌のスタンプがアルテの陰を押しつぶす。

 真っ二つになり、切断箇所を真っ赤に染めた法衣を身に纏うマリアが嬉々として嗤った。


「本当にあなたは想像以上! ヘルドマンにくれてやるには余りにももったいない!」


 よろよろとアルテは黄金剣を支えにして、マリアの対面に立った。 

 だが無理な回避を繰り返したツケが回ったのか程なくしてその場に膝をつく。

 クリスは「ネクロノミコン」をアルテに向け、いつでも魔の力を行使できるように構えた。


「ですが所詮は定命の者。死なない私と持久戦を繰り広げるのには無理がありましたね。安心なさい。五回以上は私を殺せたのですから敢闘賞として命ばかりは助けましょう」


 マリアの言うとおり、アルテは彼女を七回は殺した。

 胴を割り、唐竹割りにし、首を刎ねた。だが何れもマリアの化け物としか言いようのない不死性によって無かったことにされてしまっている。

 不毛な戦いは確実にアルテの体力を削り、今こうして彼を跪かせていた。

 荒く不規則な息を吐き出しながらも、アルテはマリアを殺気の籠もった視線で睨み付ける。

 クリスですら一歩は後ずさるその視線を真っ向から受けても、マリアは飄々と続けた。


「……私の奴隷になりなさい。狂人アルテ。奴隷の紋様をその身に刻み、私に忠を捧げなさい。悪いようにはしませんよ? あなたの大好きな吸血鬼狩りだって好きなだけさせてあげます。もしもあなたが望むのなら私を気が向くままに切り分けることも許可しましょう。だから、ねえ」


 マリアがアルテの前に立つ。

 残された気力を振り絞ってアルテは黄金剣を横凪ぎにした。マリアの胴体中程までそれは食い込み、中空を鮮血で汚す。

 マリアはその抵抗すら愛おしいと言わんばかりに、胴に剣が食い込んだまま口から血を零しながらこう囁いた。


「これがその契約です。さあ、忠誠を」


 マリアがアルテに向かって手を翳す。そこには何やら複雑な紋章が浮かび上がっていた。

 この世界において、主人が奴隷に刻む服従の呪いであるとクリスは直ぐさま思い至る。

 形だけなら、イルミもアルテを主人として身体に刻んだ紋様だ。

 狂人の余りにもあっけない終わりに果たしてこれでいいのか、とクリスは唇を噛む。


 許可なく白の愚者を殺害したことは紛れもない重罪だ。

 それによって狂人が裁きの対象になることについてクリスは疑問を持っているわけではない。

 けれどもここまで必死に戦って、ヘルドマンですら戦いを避ける不死ノスフェラトゥのマザー――マリア・アクダファミリアを七回殺すという偉業を達成した男の最後がこれでいいのだろうか。

 しかも下される罰も問題だ。まさかマリアの手駒として一生を捧げることを狂人が良しとするわけがない。

 共に背を預け合い、何度も死地を潜り抜けてきた。

 アルテが自分のことを味方と考えていたのかは定かではないが、それでもクリスは頼れる仲間としてアルテを信頼していたのだ。

 そんな男がいけ好かない女の奴隷となることが、果たして最善の選択なのだろうか。

 クリスは悩む。

 聖協会の職員として、そして吸血鬼ハンターのクリスとして。

 周囲には未だ回復できずに呻いている戦闘員達が倒れ込んでいる。決死の覚悟で、聖協会を守りたいがために死地に戻ってきた戦闘の出来ない職員達もいる。

 彼らの思いを無碍にすることもまた出来ない。

 けれどもアルテをこのまま見捨てることも自分が許せない。

「ネクロノミコン」の輝きが鈍る。

 その時初めて、自分が手にしている「聖典」のことを思い出した。

 アルテに恐れを抱き、必死に使いこなしてきた忌々しい封印武装だ。

 そうだ。この「聖典」をここまで使いこなせたことが果たして今まであっただろうか。

 周囲を見渡せば肉体的な外傷を伴っていても、「ネクロノミコン」の副作用である精神汚染を受けたものは見受けられない。

 それを畏れて自分とヘルドマンはこれを出来るだけ使わないようにしていた。

 だが今日、この瞬間。

 今までにないくらいこの「ネクロノミコン」を使いこなしていた。周囲に精神汚染を広げず、アルテの戦闘力を縛り付けるのに全力を注ぐことが出来た。

 意図せずして、クリスはこの「聖典ネクロノミコン」を支配していたのだ。

 ごくり、と喉が鳴る。

 クリスはヘルドマンからの伝言を思い出す。彼女は「上手くやれ」と言った。それは自分に何かしらの働きを期待してのことだ。

 その期待が何を意味しているのか必死に考える。 

 マリアの手がアルテの頬に触れた。アルテが必死に身を捩るが、鉄槌を振り回していたマリアの怪力によって無理矢理拘束される。

 紋様の輝きが増す。アルテの頬に何かが刻まれていく。

 時間がない。

 早くしろ。友を見捨てるな。

 クリスは苦渋の思いで「ネクロノミコン」を再び構える。狙いはアルテではない。

 アルテの頭部を掴み、嗜虐的な笑みを浮かべるいけ好かない女、マリアだ。クリスは何も考えていない。

 思考を練るには余りにも時間がなさ過ぎた。ただ彼女の良心が、アルテのことを思う心が咄嗟にそうさせた。

 生半可な魔の力では足りない。あの女を吹き飛ばすにはそれ相応の力がいる。残り僅かの魔の力を収束し声帯に集める。

 最早本能だけでクリスが口を開く。

 誓約が告げられる。

 彼女の魔の力が世界に顕現する。


「『誓約:それ以上、狂人に――』」



/



 轟音がする。

 ただでさえ半壊していた聖協会の講堂の天井の一部が崩れ落ちる。

 朱い手が伸びてきた。

 手の先には銀髪赤眼の少女がいた。

 彼女は、胴体に黄金剣が刺さった女によって紋様を刻まれつつある狂人を見た。

 己が敬愛し、全てを捧げる狂人だ。

 狂人と目が合う。

 闘争心は失っていない。だが何処か憂いを帯びたような目線が少女を射貫く。

 少女は胸が締め付けられた。

 一瞬で恋に落ちた。

 続いて頭が沸騰した。

 欲情や恋慕ではない。


 怒りだ。



/



「アルテにさわるなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 絶叫が木霊する。

 イルミの魔の力を喰った二匹の狼がマリアに飛びかかった。

 普段の倍近くはある巨体を振りかざし、二匹はマリアを複数に食いちぎった。

 だが狼の胃に収められるよりもマリアの復帰の方が早い。

 食いちぎられた部位は一瞬で回復し、二匹の狼を鉄槌で挽きつぶす。

 手応えは殆どない。

 しまった、こいつは魔の力で作られた使い魔だ、と己の悪手を悔やむ。

 振り返ればイルミはアルテの元にたどり着いていた。さらには朱い魔導人形を操作しているのであろうレイチェルクリムゾンもそこにいた。


「アルテ、御免!」


 レイチェルが膝をつくアルテの頭部を掴む。それはマリアがそうしたのとは違い、何処か労るような優しげな手つきだ。

 イルミは一瞬だけそんなレイチェルを睨み付けるが、ぱっとかぶりを振り、もういちど狼を呼び寄せた。

 そしてマリアに対する肉の壁にする。

 狼の戦闘力はそこまで高くはない。

 だが無視して消耗した狂人の元へたどり着けるほど弱くはない。

 マリアの視界の先で、レイチェルがアルテに唇を合わす。

 それが失った魔の力を分け与える行為であることぐらいマリアは知っている。彼女は焦りを隠し切れずに鉄槌を振るった。

 二度目の破砕が狼たちを襲う。もう狼を召喚させる時間は与えられない。


 後数歩、それだけ踏み込めば三人を叩きつぶすことが出来る。


 あと三歩。


 あと二ほ。


 あといっぽ!


 マリアは鉄槌を振り上げた。アルテがこちらを見る。荒い息も身体に刻まれていた小さな傷も全て回復している。

 イルミとレイチェルはそんなアルテの邪魔にならないよう、マリアとの進路から飛び退いた。

 アルテが剣を振るう。マリアが鉄槌を振り下ろす。


 こちらが速い!


 マリアの鉄槌がアルテに迫る。

 勝った! とマリアが嗤う。アルテが眉を顰める。

 黄金と鉄色が交錯する。マリアは見た。己の鉄槌が黄金剣を砕き、狂人を亡骸に変える未来を。

 

 けれども彼女は失念していた。

 自身が嫌う黒の愚者、ユーリッヒ・ヘルドマン。

 その腹心がこの状況で何を成すのか。


「『誓約:動くな!』」


 叫びが講堂内に伝播する。

 音は目に見える衝撃波となり、そこにいた全ての人間の動きを止めた。

 そう、アルテだけではなく、マリアを含めた全ての人間を拘束した。


 鉄槌を振り下ろした体勢のまま、マリアが硬直する。

 凄まじい重量を誇る鉄槌も自由落下を禁じられ、出来損ないのオブジェのように中空に静止していた。


「――何を……!!」

 

 マリアがクリスに問いかけるがもう遅い。

 硬直が解けるのは断然にアルテの方が早かった。彼は一度その剣閃を止められながらも、再び黄金剣を振るった。

 黄金色の輝きは正しくマリアの胴体を二つに分かつ。それまでならマリアにとって致命傷にすらならない無駄なことだった。

 だが今は違う。

 狂人は失っていた武器をレイチェルによって取り戻していた。


「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 地に倒れ伏したマリアが絶叫した。

 胴体をどれだけ切り刻まれても、表情一つ変えなかった彼女が涙ながらに叫んだ。

 切断面からは血が流れない。代わりに恐ろしいまでの煙が吹き出していた。それが太陽の毒によって肉を焼かれているのだと理解していたのは、その場にいたごく一部の人間だけだった。


「アルテ、イルミ!」


 レイチェルが朱い魔導人形を操作し、イルミと足下がふらついているアルテを回収した。

 そして自身もそれにしがみつき、講堂の天井に空けた穴から飛び出していく。


 追うものはいなかった。

 魔の力を使い果たしたクリスもその場に倒れ込み、煙を上げ続けるマリアを見た。

 完敗だった。

 だが彼女の心は晴れていた。

 この後どのような罰則が来るのかはあまり想像したくはない。

 けれども今なら、ヘルドマンに対してこう告げることが出来た。


「上手くやって見せましたよ」――と。

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