第123話 「これが私のご主人様」
VG123
————イルミは一つ息を吐き出した。それは軽い運動をこなした後の、ほっとひと息をつくような感覚。緊張状態にある肉体を解きほぐし、弛緩させてリラックスさせるための、そんな儀式。
ただ、安堵の態度を見せるイルミとは裏腹に、ノウレッジは信じられないものを見たかのように驚愕し、立ち尽くしていた。
「まさかこれほどとは……。私なんかではもう足元にも及ばない。イルミさん、あなたはどれだけの魔の力を」
ティアナがアキュリスを凍結地獄に叩き込んでいたのと同時、そこは火炎地獄と化していた。あれほど鬱蒼と茂っていた密林はほとんど炭化し、まだあちこちで火の手が上がっている。
魔導力学科の生徒たちは眼前に生み出された焦土に畏れおののき、それぞれが言葉を失っていた。イルミの魔の力が常人のそれを卓越していることくらい重々承知していたが、さすがにここまでのレベルは想定していなかった。
まるでこれでは「七色の愚者ではないか」と誰かがうめき声を漏らす。
無限に焼き続けられる地獄の中で、ヒュドラが最後の悲鳴をあげる。神がかり的な再生能力を持つはずの化け物であったとしても、再生する側から炭化させられていては宝の持ち腐れという他なかった。
「これは随分とやってくれたな。ボクのゴリアテも熱で誤作動を起こしそうだ。イルミ、消火のことは考えてくれているのか?」
「私の生み出した炎だから、魔の力の供給を切れば鎮火するわよ。でもあの蛇が燃え尽きるまでは緩めるつもりはないわ」
まだ魔の力を注ぎ込んでいたのか、とノウレッジは目を剥いた。
こともなげに世界そのものを破壊するその姿に、彼女の姉の幻影を見る。流石にアリアダストリスと比肩しうるとは言えないまでも、それ以外の愚者たちはどれだけイルミに手が届くのだろうか。
「イルミ、蛇が死んだよ。蛇の魔の力が途絶えた」
魔の力を探知する魔眼を持つ、エリーシャとカリーシャがイルミの服の裾を掴んだ。イルミの告げた通り、彼女が魔の力の供給を途絶えさせると、途端に周囲の火の手が弱まりだす。
それが一行が前へと歩み始める合図だった。
「こっちは何とかなったけれど、あの人類最強とかと戦っている二人は大丈夫かな。あっちも大概無茶苦茶な強さだとおもうけれども」
アズナの言葉に答えたのは意外なことにイルミだった。
「あんな首が多いだけの蛇と比べるべくもないわ。あいつは本当に別格。あのアルテでも最後まで殺し切ることができていない」
「それなんだが、あのアキュリスとかいうやつはどういう仕組みで不死を再現しているのだ? マリア次長のように生まれ持った体質か呪いか?」
「多分だけど、アキュリスは一人じゃないと思う。アキュリスという肉体は無数に存在していて、あいつは致命傷を負うたびにそれを乗り移っているの」
どうしてそう思う? とレイチェルが問うた。イルミはレイチェルの問いかけに対して数秒、答えなかった。
「————あれ、どうしてそんなことがわかるのかしら?」
01/
「————同じだからですよ。アキュリスとアルテミスとしての肉体は共に偽りの神が世界を歩き回るためにつくりだしたアバターです。アキュリスは偽りの神に月の民を守護せよ、と命じられた何者かが、アルテミスはアルテ、あなたが操っている。それだけの違いです」
元の肉体に戻った時、意外なことにマリアだけでなくβもまだそこにいた。彼女曰く、こう見えても現在進行形でやることはやっているらしい。
俺がアキュリスとアルテミスの顔が同じであることを二人に報告した時、βはそれはそうだろうという反応を返してきた。おそらく彼女は随分前からこのことを知っていたな。
「ならここを焼き尽くせばアキュリスはもう復活できないのでは? 彼女のストックも無限というわけではないでしょう」
マリアの言葉はあまりにも物騒なものだったが、妥当性自体はそれなりにある。肉体のストックがあるのならば、それを絶たぬ限りこちらに勝ち目はない。
「無駄ですよ。数が多すぎるのもそうですが、アバターは世界中に保管されています。ここサルエレムの塔だけでなく、本当に至る所に。全てを破壊するのは現実的ではありません。ただ、策がないわけではない」
βが少し迷ったように口を閉ざした。それはこちらに告げるべきか黙するべきか思考している証拠なのだろう。
それから彼女が合点するまでわずか数秒。けれどもこの沈黙こそが、βが今は味方であることの証左にも思えた。
「あなたと共に旅をしていたレイチェル。彼女の協力を仰げば、アキュリスの肉体を乗り換え続けるプログラムを書き換えることができるかもしれません」
どういうことだ、とこちらから問う前にβが言葉を続けた。
「神が下した指示に割り込むんですよ。本来ならお嬢様————ユーリッヒの力が必要ですが、今はあてにすることができません。ただ、太陽の時代の遺伝子を引き継いでいるレイチェルなら、そして私とα、そしてγが注力すれば不可能ではありません」
「それはレイチェルは無事なのか?」
一番の懸念事項を問うた。βの言うことがなんとなく真であることはわかる。だが簡単に提案に乗るわけにはいかなかった。いくら作戦が上手くいったとしてもレイチェルに危害が及ぶのならその選択肢をとることはできない。
「万事がうまく行けば何も影響はありません。レイチェルの遺伝子はいわばアカウントのようなもの。神の防御機構が働いても、私たちの肉体が焼かれるだけで住むでしょう。ただ————」
βが起きあがろうとする俺の手を取った。少し前は全力で殺し合った仲だというのにどこか変な感じだ。彼女の緋色の瞳と俺の視線が重なる。
「プログラムを書き換えている間、レイチェルは全く動くことができません。その間、アキュリスは全力でレイチェルを殺そうとするでしょう。あなたにそれを止められますか?」
無論だ。この身がどうなろうとも、彼女に傷ひとつつけないことを誓うことだってできる。
「いえ、この肉体ではありませんよ。アルテミスの肉体で、です。あなたの肉体にはまだやってもらわなければならないことがある。レイチェルの護衛をする暇などありません」
非力でリーチも短くて黄金剣も使えないアルテミスの肉体でアキュリスを止める?
できらあ!
え!? アルテミスの肉体で人類最強とまた戦うの!?
02/
「冷た!」
再びアルテミスの肉体に叩き込まれた、と思えば最初に感じたのは凍てつくような氷の冷たさ。見れば両手を氷の枷で固定されている。
「————さっきぶりだな。まさかまたそれを使うとは。意外と気に入っているのか?」
皮肉げな声に視線を向ければ同じように拘束されているクリスがいた。一瞬声の魔力を警戒するが、彼女は口周りも凍らされていた。え? どうやって話してんの? と疑問を抱けば、「魔の力で空気を振動させている。ただ、この振動自体に魔の力は乗せられないから、力は綺麗に封じられてしまったよ」と答えてくれた。
器用すぎんか?
「私の大道芸に感心する前に、お前はまず自分の身を案じたらどうだ。ここから先、私は何もできん。自分でなんとかするんだな」
言われて、見えないふりをしていた人影に視線を向ける。それは氷よりも冷たい絶対零度の青い瞳。俺の両手を氷づけにしている張本人は、先ほど見せた感動の再会はどこへやら。失言一つでこちらを鏖殺しかねない雰囲気を纏っていた。
「回りくどいのは嫌いだから単刀直入に聞くわ。お前、狂人なの?」
はーい、気が狂ってまーす。とつとめて明るく答えようかと思ったが、どう考えてもふざけていい場面ではなさそうだ。だってこちらを見つめるティアナの背後に、もう氷柱が作られているんだもの。
「わかっているだろうが言葉は慎重に選べ。私から言えるのはそれだけだ」
言って、クリスが押し黙ってしまった。ちょっと待ってよ! それはもう間が
持たないって! 何とか誤魔化してよクリえもん!
「どうしたの? 答えないの?」
氷の枷が大きくなっていく。両手どころか、肘のあたりまで凍りついてきた。え、これこのまま登ってきたら顔が覆われて窒息死しない?
「ねえ、あんた誰なの?」
至近距離にティアナの顔があった。怖すぎるよごすずん。いや、ほんとこれはどうしたら。
「…………」
頬が凍りついていく。もうすぐ顔の全面が覆われる。
俺はティアナと視線を合わし続けている。まだ何も言わない。いや、もう言わないと決めた。言い訳なんかしない。事情も説明しない。俺は俺だ。いつかティアナに助けてもらった「俺」という存在なんだ。
そこで感じた恩も、今まで黙っていた申し訳なさも弁明なんかしてやるもんか。
殺したければ殺せばいい。ティアナの気が済むまで、アキュリスがやっているように何度だって体を乗り換えてやる。
その上で俺の本体を殺したいなら、いつだって全力で争ってみせる。
「…………あんたはアルテミスとして生きてくれるの?」
ティアナの問いかけに沈黙で返す。視線だけは絶対に逸らさずに。
「私はね、もうダメなの。一人では生きていけない。とっくの昔に心の氷が溶けてなくなってしまった。口減しで捨てられた子どものままなの。ねえ、答えてよ。私はどうすればいい?」
何を答えるか考える暇はなかった。けれども気がつけば声が飛び出していた。
「ご主人はご主人だ。私はあなたに受けた恩を一生を使って返す。そのために戻ってきた。そのためにあなたの隣にいる。だから————だから泣かないで。もう、私の周りで誰かが泣くのは嫌だ」
先ほどのような衝動的な抱擁ではない。そっと、壊れ物を扱うかのように抱きすくめられる。腕の拘束が溶けた。不安で揺れる、世界で一番寂しがり屋なご主人様を俺は抱きしめ返す。
「やくそくよ。もうわたしをひとりにしないで。わたし、なにもきかないから。だからうそがんばってね」
縋り付くような子どもの声に、俺はこう返した。
「大丈夫だよ。何度だってご主人様のもとに帰ってくるから」
03/
落ち着いたティアナから渡されたのは氷でできた仮面だった。これがまた不思議なもので、間違いなく材質は氷なのに、冷たさを一切感じない。ティアナにどういう原理か問うてみれば、「私の権能を一部譲渡してあるの。これが使えないと、私は私自身の氷で凍りつくことになるから、氷の力に目覚めた時に会得したの」と説明された。
え? じゃああの手枷だってそれができたはずなのでは?
「何か文句あるなら、それを普通の氷に戻すわよ」
相変わらずおっかないごすずんである。はいはい何も言いたいことなんかありませんよーだ。でもこの仮面は正直ありがたい。アルテ=アルテミスであることを知っているノウレッジやレイチェルはともかく、魔導力学科の子たちやヴォルフガングくん、そしてイルミに正体を悟られると絶対にややこしいことになるからな。
今はアキュリスのプログラムを書き換えるミッションだって同時進行中なんだ。のんびりしている暇なんてない。
「積もる話は終わったか。戦友たちよ。どうしてお前がそんな骨董無稽なことになっているかは敢えて聞くまい。ただどうやってここに来た? お前が来れるのなら、本体や聖教会の上長たちもこちらに来られただろうに」
少し離れたところで周囲を見分していたエリムが戻ってきた。どう言うわけかこの男にはアルテ=アルテミスがバレているらしい。勘が良すぎないか、とも思わなくはないがまあエリムだしな、と無理矢理自分を納得させることにする。
「単純にこの階層に保存されていた肉体を起動しただけだ。別に転移したとかそういうわけではない。あちらではβが合流している。レストリアブールで俺とお前が戦ったあの怪物だ。彼女の力とマリアの魔の力を借りてお前たちに一番近いところで眠っていた個体を叩き起こしたのだ」
「ふむ。なら、その力を使って一気に最上層に向かうことはできないのか?」
エリムの問いは俺がさっきβに投げかけた問いと同じだ。だから俺はβの言葉通りそのままエリムに答える。
「無理だ。この塔の上階にはさまざまなプロテクトと妨害が仕掛けられている。直接そちらに意識を飛ばそうとしても、塔の防御機構に魂を焼き切られてお終いらしい」
難儀だな、とエリムは憐れむように俺の体躯を見た。
お前もこの体が弱いことに気が付いてんのかよ。いや、マジでリーチの短さと非力さはカバーしようがないな。
ヘルドマンの魔の力なら影の力を間借りできたが、マリアの力だと驚異的な再生能力だ。これもこれで規格外の力だが、残機無限のこの肉体とは相性があまり良くない。
「————こみいった話はそこまでにしときなさい。あの子達、ヒドラを殺し切ったみたいね。こっちにくる」
クリスの様子を見張っていたティアナが声を上げる。彼女の言うとおり、ノウレッジに連れられた残りのメンバーが程なくして俺たちの元へと現れた。
「こちらも落ち着いたみたいですね。しかも聖教会のクリスさんを捕えるとは、大金星じゃないですか」
こちらを一瞬みたノウレッジがわざと俺を無視したことに気が付いた。もしかしたら今彼の頭の中では俺の現状を含め、さまざまなカバーストーリーを構築しているのかもしれない。
そういえばアキュリスはクリスを助けに来ないのだろうか。あいつは確か、クリスのこともあるから撤退すると言っていたような。
「ところで、だ。そこの人はだれ? なんか仮面つけて怪しいんですけと」
ハンナが疑いの視線をこちらに向ける。
それに釣られて魔導力学科の子たち、ヴォルフガングくん、イルミが視線を注いできた。
ああ! ノウレッジ先生助けて!
「γとかいう女の置き土産よ。あんたたちとここにくる前に別れた赤の愚者の眷属だっけ? あいつが戦力としてアキュリス戦に放り込んできたの。今は私の魔の力で制御しているから、私の言うことは何でも聞くわ」
「————なるほど。確かにティアナさんの魔の力を強く感じますね。おそらく塔に放置されていた魔導人形の一種でしょう。ティアナさん、皆さんを安心させるために何か命令を下してもらっても?」
「そうね、そういうことなら」
その時ティアナがニヤリと顔を歪めたのを見てしまった。ああ、ご主人様が悪い顔をしている! いけません、いけませんわご主人様!
「跪いてワンと鳴きなさい。情けない犬のようにね」
ひん、なんで俺は実の娘も見ている前でこんなことをしているんだろう。
満足げなティアナと、ちょっと引いているパーティーメンバーに囲まれて、俺は静かに仮面の向こう側で涙を流した。
あ、涙が凍った。
なんんか書けたので




