16.
数秒が数時間にも感じられるほど目を見開いた。
あまりのあり得ない事態に、脳みそが処理するのを拒否する事ってあるのね~っと思って、半分魂が抜けたような感覚でいると、ハッと気を取り戻して立ち上がった。
周りをぐるりと見渡すと、幸いなことに今は誰もいない。それからオーウェンを振り返ると、オーウェンは指笛を鳴らして誰かを呼び寄せていた。
「ここを人払いしていて良かった。1人は王宮へ報告。2人はアレを塞げ。残りは続けて人払いを」
道理で人通りが異様に少ないどころか無いなと思ったら、人払いをしていたらしい。今回はそれで助かったけれどもっ。
「何だ貴様、何処の家の者だ」
「ディモアール辺境伯のオーウェンです。この度はとんでも無い事をしでかしてくれやがりましたね。しかもわざわざ私の目の前で……かつ大事な場面でっ」
さっきまでキラキラと輝いていた筈のオーウェンは、魔王の如くどす黒いオーラを背負って微笑みを浮かべていた。
とても器用だけれども、昨日似た感じのを見た気がするわね。
「なっ、貴様無礼なっ」
「黙りやがれ。おい誰か……ってびしょ濡れのままでは拙いな。仕方がない、1人適当に靴を含めた服一式を買ってこいっ」
テキパキと指示を出すオーウェンに、内心で拍手を送りながら、私は他に抜けなどが無いかを確認した。
とりあえず問題はなさそうかしら……
ビチョビチョのハイデリウス殿下を「はいはい」と以前のように宥めて日当たりのいい場所へと誘導する。足りるとは思えないけれど、取り敢えずハンカチも渡してあげた。
「ふん、タオルは無いのか。気が利かないなっ」
「無理に使わなくて結構ですのよ?」
「可愛げのないっ」
「お互い様ですわね」
そうこうしているうちに、指示を出した1人が戻って来て、急ぎ購入したと思われる服と、気を利かせたのか一緒にタオルも差し出した。
「……馬車かな」
「そうですわね。一先ず上だけでも着替えられては如何?流石に殿下でも風邪を召されるでしょう?」
「こんな所でか?!」
「何処かに部屋があるように見えまして?」
「ぐっっ、では誰か着替えを」
……今なら後頭部を引っ叩いても許されるんじゃないかしら?
まだまだ騒ぎそうな殿下の頭にタオルを適当に被せたオーウェンは、問答無用とばかりに首根っこを引っ掴んで半ば引きずるように歩き出したのだった。
馬車に突っ込まれて着替えさせられ、ひとまずディモアール辺境伯邸に移動した私たちは、こじんまりとした書斎に通されてやっと腰を落ち着けた。
小さめの重厚感ある机には4脚椅子が据えられていて、私の横にはオーウェンが座り、対面に毛足の長いブランケットに包まれた殿下が座っている。
「湯を」と騒ぐ殿下をスルーしているところを見ると、もてなす気もなくさっさと王宮へ返す気満々のようね。
「それで?どうしてあのような所から出てこられたのですか?」
私が最初に口火を切ると、出されたカップに口をつけていた殿下はぴたりと動きを止めてそのまま目だけソロ~~っと動かし彷徨わせた。
そして逡巡した後、ゆっくりとカップを置いた殿下は真一文字に引き結んだ口を徐に開いた。
「…………皆間違っていると言うのだ。僕が正しいと思っていたことが全て。側にいた者たちは殆ど捕らえられた」
婚約当初、何度言っても治らなかった事だからすっかり放置したけれど、あの変な唯我独尊的な考えを打ち壊すべく、離宮へ押し込められてスパルタ再教育中らしい。
長年信じていた基盤が崩れて縋る相手もなく、途方に暮れた…………まで辛うじて理解はできる。
しかし。
「そこを聞いているんじゃありませんわ」
まだまだ続きそうな殿下の話を、ぶった斬った。
「何故謹慎中の身でありながら、長年使われずに秘匿されていた緊急脱出用の隠し通路を態々通って抜け出てきたかを聞いているのですっ!
民衆の面前でやってご覧なさい、急遽大噴水は取り壊され、国立公園も封鎖、若しくは取り壊さざるを得ない事態になっていたかもしれないのですよ?!」
「お、大袈裟な」
悲劇の主人公のように語っていた殿下をバッサリ切り捨てて、質問の論点を戻すと殿下はびくりと肩を震わせ小声で反論する。
「びしょ濡れではあるが、身なりのいい貴族が出てくれば、そこが何処に繋がるか探る輩は出てくるでしょう。
その情報を売られて、最悪関係の悪い国が買いでもしたら……まず密偵を数人。次に工作員を少しずつ送り込まれますね。こうなれば城の守りなんて内側から瓦解。逃げる暇なくその首をスッパリ落とされますよ」
オーウェンが目をすがめながら「私ならそうしますね」と付け加えると、ハイデリウスはヒッと小さく悲鳴をあげて、首を包むように押さえる。
流石国境を守り続ける辺境伯家の者らしく、説得力が凄い。
説教モードの重たい空気が漂う中、部屋にノックの音が響く。人払いをしていたため、オーウェンが席を立って扉へと向かって行った。
扉を小さく開いてやり取りをし始めるのを横目に、私は殿下に顔を向けた。
「それで?抜け出して、どうなさるおつもりでしたの?」
「…………ヘザーに会いに行こうと」
「ヘザー………………?ぁあっ、真実のなんちゃらって言う、童顔・まな板娘ですねっ!」
「貴様っっ!どんな覚え方をしているんだっ、悪戯なフェアリーのように愛らしい、僕の真実の愛の相手だ!」
「モノは言いようですわね。悪戯された結果が今ではございませんの?」
「〜〜っっ!ふん、僕に婚約破棄されてから益々可愛げがなくなったのではないか?」
「殿下へ可愛げをお見せして、何か得がございまして?」
「このっっ、浮気相手に愛想を尽かされてしまえっ!」
「殿下とは喜ばしいことに、婚約解消済みですわ。フリーの私に浮気だなんだと、可笑しいんじゃありません?」
ハッと鼻で笑って言い返すと、横から伸びてきた手が机の上に置かれた。
「アデレイズ、フリーじゃないだろ?新たな婚約者……いるだろ?」
オーウェンはその手に体重をかけるようにしながら、座る私の顔を上から覗き込んで、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「かかかか顔が近いっ!待って、そう、婚約者っ!間違いなくオーウェン様は私の婚約者、私はフリーじゃないんだったわっ!」
極至近距離の顔を両手で防ぎながら弁明すると、オーウェンはぴたりと止まって嬉しそうに微笑んだ。
「よく出来た」
オーウェンは私の掌にチュッと音を立てて口付けると、姿勢を戻して隣の席に座り直す。
「はぁ。厄介なことになりました。殿下の身柄を数日預かれとの書状が来ましたよ」
「なっっ!何故僕がっっ!」
オーウェンは、やや投げるように届いた書状を殿下の前に滑らせると、殿下はそれを掴み取るように取り上げて書かれた文字に目を滑らせる。
「……っっっなにっ!」
「そこにある通り、数日預かれと。但し、扱いの判断はうちに任せる。不敬も必要であれば体罰も不問とする、だそうだ」
「う、うそだ」
「ちゃんと書いてあるだろ?色々と覚悟しろよ?元婚約者?」
<補足>
王宮が奇襲にあった場合の、妃や小さな子供を想定した緊急脱出経路でした。
噴水の女神像の台座の一面が横にずれて、そこから出入りする仕組みになっていました。




