第二話C Y嗣<1>
「黙れよ、クソババア!」
Y嗣が母を口汚く罵るのは久しぶりだった。
男子小学生だったころは、毎日のように怒鳴り合っていた気がする。
無理やりやらされていたスポーツが大嫌いだったからだ。
だが、どんなに嫌だと言っても馬耳東風で、父が味方しようものなら自分の首に包丁を当てて自殺を仄めかす母に逆らい切れるはずがない。
たまに逆らっては無駄なことを思い知るだけで、T佳子と出会うまでのY嗣の心には、日々重たいしこりが積み重なっていくだけだった。
久しぶりに罵声が口から飛び出したのは、母がT佳子を莫迦にしたからだった。それだけはどうしても許せなかった。
(ああ、でも……)
後ろにいる彼女の顔を見ることはできない。
Y嗣が部下だった社長の娘、R々那とラブホテルに入る場面の写真。
あの写真を撮影して母に送り付けたのは、おそらくT佳子だろう。ほかにY嗣の行動の変化に気づいて反応してくれる人間はいない。
「親に向かってなんてこと言うの! その女のせいねッ! その女のせいで親に逆らうような悪い子になっちゃったんだわ!」
浮気写真を見た母は、嬉々として息子のマンションにやって来た。
そして十年間子どもができなかったことを論い、T佳子に離婚を迫ったのだ。
母はR々那のように派手な女性が好きなのだ。いや、そういう女性が息子をチヤホヤするのを見て優越感を覚えたいのだ。華やかなプロスポーツ選手になれなかったY嗣は、彼女から見れば役立たずでしかなかった。
「ねえY嗣。お母さん調べたのよ。この人妊娠してるんでしょう? 男として責任を取るべきじゃない?」
社長の娘を別会社の若社長から寝取る。
醜聞でしかないことが母にとっては喉から手が出そうなほどの憧れなのだ。
Y嗣は、ずっとずっと彼女にだけは教えたくなかったことを叫んだ。
「俺の子じゃねーよ! 俺は……俺は種なしなんだよっ」
「な、なにそれ、どういうこと? その女のせい? その女に妙な病気を移されて種なしの役立たずになっちゃってこと?」
ああ、やっぱり、とY嗣は思う。
子どもを作る能力を失った息子は、母にとっては役立たずなのだ。
自分から話そうかと、父が視線を向けてくれる。影の薄い父だが、これまでずっとY嗣を支えてくれていた。父に首を横に振って見せ、Y嗣は母の言葉を否定する。
「てめぇのせいだよ! てめぇに好きでもないスポーツを強要されてたから、高校最後の試合でした怪我がきっかけで種なしになっちまったんだよ。……もとからあの日は体調が悪くて休みたいって言ってたのに、そんなの役立たずだ、無理してでも出ろっててめぇが……クソババアっ」
「……嘘でしょう? だって、あの日の試合は重要だったから。たとえ全国に行けなくても、あの試合で頑張ればプロのスカウトが来るんじゃないかと思って……」
「そうだよ、重要だったよ! だからこそ休んでいれば、俺の高校最後の試合にはならなかったよ!」
本当は怪我を理由に大学ではスポーツを辞めるつもりだった。
しかし、母はスポーツを続けなければ学費を出さないと言ったのだ。
なら就職して独立すると言えば、怪我の治療でかかった金を返せと言われ、それなら良いんだなと受け入れようとしたら、いつものように自殺を仄めかされた。Y嗣はとにかく母から離れたかった。母から離れられるのなら、無理をして怪我の後遺症が悪化しても構わないと思い、スポーツを続けると約束して大学に進んだのだった。
(そしてT佳子と会えた。イラストを描くのが好きでも、折り紙を折るのが好きでも、花言葉に詳しくても、スポーツが大嫌いでも、俺を責めないし受け入れてくれるT佳子に。なのに、俺は……)
「Y嗣の言葉は本当だよ。お前はそれ以上試合に出られなくなったこの子を罵るばかりで病院へ見舞いにも行かなかったし、退院のときも顔を見せなかったから、私がお医者さんに話を聞いた。怪我が原因の高熱で、この子は精子を失ってしまったんだよ」
「……嘘よ、そんなの嘘よ。だって、それじゃあ……」
膝から崩れ落ちた母に、Y嗣は言った。
「……俺はE嗣選手の子じゃねーんだよ」
「Y嗣?」
「髪型真似しても、同じブランドの服着てもまるで違っただろうが! 俺は父さんの子だよ! そもそも、あのエリートのE嗣選手がてめぇみたいなクソババアを本当に相手にしたのか? よく似た別人に騙されたんじゃねーの?」
「ち、違うわッ。あの人は、彼は確かに……あ」
怯えた顔になった母に、父は頷く。
「Y嗣は私の子だよ。お前になにがあったのか、なにをどう考えているのかは知らない。でもY嗣が私の子だということは変わらない。離婚しなかったのは、Y嗣の親権を取れるかわからなかったからだ。外野から見ればお前は、スポーツに打ち込む息子を応援する優しい母親だったからね。……帰ろう。Y嗣はもう大人で、自分の人生を歩んでいるんだよ」
「……」
父は最後にT佳子に謝罪をしたが、母はなにも言わないまま去って行った。




