第三話B A絵<2>
A絵はつい最近まで愛しかった息子に微笑んだ。
「あなたのパパよ。優しい人だったけど浮気癖があったの。優しい人だから、かしらねえ? 可愛い女の子にちょっと可哀想な話を聞かされると、僕がなんとかしてあげる! って言ってズルズルと……相手は婿入り先の金やB社の情報が欲しいだけなのにねえ。そのときは泣いて土下座したから許してあげたの。お腹にあなたがいたし、ね」
「妻の妊娠中に浮気? 最低じゃないか」
「よくある話よ。あなたもS織ちゃんがA社の仕事を覚えようと頑張ってたときに、今の花嫁に誘惑されて落ちたんでしょう?」
「それはッ! それより母さん、男が父さんなら女性はR々那じゃないよね? この女性がR々那の母親てことは……僕と彼女は兄妹なの?」
必死なM臣の形相が面白くて、A絵はたっぷり溜めてから答えた。
「ママ、知っらなぁ~い。DNA鑑定でもしたら? もう一枚の写真が届くまで、ママはその写真のことなんか忘れてたんだもん。あなたの花嫁さんが挨拶に来たときだって思い出さなかったわ。ああ、でも母親のほうを見たら思い出したかも。だからあの女、家族同士の顔合わせのときに都合良く病気になったのね」
タガが外れたかのように早口で話しながらA絵は思う。
夫のあんな必死な形相見たことがない。
泣いて土下座してA絵の機嫌を取りながら、たぶん心の中では舌を出していたのだ。彼が自分に見せていた表情は、仕事はできても世間知らずな金持ち娘を騙すための演技だったに違いない。きっと赤子の手をひねるよりも簡単だったことだろう。
(だって私は、あなたを愛していたんだもの)
おかしいと思っても目を閉じた。
創業者である両親を亡くして会社を継いでからは、仕事以外では夫に依存していた。彼を愛することでしか生きている意味を感じられなかった。
仕事ができることと、仕事が好きなことは違うのだ。
夫が亡くなってからは、父親そっくりな息子を溺愛することで自分の心を守っていた。もっともA絵の愛はさほどM臣には届いていなかったようだが。
「結婚式の前に気が付いて良かったわ。結婚式で気づいていたら私……あなたの花嫁かその母親を殺していたかもしれないもの」
「あんな女を僕の花嫁って呼ぶのやめてくれよッ!」
「あら、あなたが望んだのよ? まあ今どき祖父が結んだ婚約なんて時代錯誤なのは事実だけど、それは浮気をしていい理由にはならないわ。でも私、あなたの味方をしてあげたでしょ? 小さいころから可愛がってて、亡くなった親友に後見を頼まれていたS織ちゃんを見捨てて、あなたと花嫁の側に付いてあげたでしょう?」
「やめてよ、母さん。ねえ僕……僕、どうしたら良いの?」
A絵は肩を竦めて見せた。
「知っらなぁ~い。私ね、あなたの母親やめることにしたの。あなたの顔を見てると、あの人の顔を思い出して嫌な気分になるんだもの。もう会社はあなた名義なんだし、ひとりで大丈夫よね? 私はしばらく日本中を回ってみようかと思って。オーバーツーリズムが解消されてると良いなあ」
「冗談だよね、母さん。確かに僕が社長になったけど、相談役の母さんがいないと無理だよ」
「そうねえ、支えてくれるS織ちゃんがいたら良かったのにね。あの子ならA社で働きながらでも、あなたを助けてくれたと思うわ」
昔の私のように彼女は、跡取りの重責から逃れるためにM臣を愛することで生きる意味を見出していたから、という言葉をA絵は飲み込む。
言ってもどうしようもない。
A絵もM臣も、S織を捨てたのだ。
「あ、花嫁の母はかなり狡猾な女だから、会社だけならともかく命まで奪われないように気を付けなさい」
言いたいことは言ったので、A絵は息子を部屋から追い出した。
二枚の写真を返してもらうのを忘れてしまったが、べつにかまわない。
楽しい旅行に持っていくほど大切なものではないのだから。廊下で泣き叫んでいたM臣の声は、やがて消えた。二十五歳の若社長なのだから、これからはひとりで逞しく生きていくだろう。
(母親がいなくなったって、お金も地位もあって花嫁までいるんだものね。さぁ~て、どこから行こうかな)
A絵は微笑んだ。父親が亡くなってB社を継ぐまで、A絵の趣味は旅行だったのだ。




