第二話A S織
S織は、謎の人物から届いた二枚の写真と自分が探偵に依頼して撮影させた数枚の写真を自室の机に並べて眺めていた。
「R々那ったら、わけがわからないわね。私からM臣を寝取ったんだから、ほかの男性と関係を持つのなんて命取りでしょうに」
呟いて首を傾げる。
S織は後妻の娘のR々那を侮るつもりはなかった。
彼女は多情な色魔などではない。愛人から後妻に成り上がった母親と同じで、計算高く合理的に動く女だ。
「……もしかして妊娠するため? 寝取ったはずのM臣がなかなか私との婚約を破棄しないから、ほかの男とも関係して妊娠の確率を上げようとした?」
しかし、とS織は思う。
前になにかの本で読んだことがある。
複数の精子を得た子宮は、もともとある精子を殺す力を強める。より強く優秀な精子で受精するためだ。
だから多くの男性と関係しても妊娠の確率が上がるとは限らない。
むしろ殺す力が異なる精子に対応して進化していくので、すべての精子が受精し難くなることのほうが多い。
確か精子戦争と呼ばれる現象だ。
「知らなかった、のかもしれないし……M臣が避妊をしていた?」
だとしたら、最低を踏み抜いた下にある最低男だな、とS織はかつての婚約者の面影を思い浮かべる。彼は婚約者の異母妹ということになっている女性と肉体関係を持ちながら、避妊してるんだからただの遊び、と言い抜けてS織と結婚しようとしていたのだろうか。
「いやいやいや、長年の婚約者を裏切って、その異母妹と乳繰り合ってるだけで最低ですからー」
最低と口にしたことで、S織の脳裏には父の顔も蘇った。
婿養子だった父。
少々威張り癖はあったけれど、おっとりした家付き娘の母のことは大切にしているように見えた。
浮気だって素人は相手にしていないのだと自慢していた。
それが自慢になるかはともかく、後腐れのある女性は相手にしていないというのは本当だと思っていた。
創業者だった祖父と跡取りだった母の死後、A社の株を買い集めて娘のS織の権利を奪い取ったのは、後妻に騙されたからだと信じていたかった。
「……しょうがないか。もう同族会社って時代でもないし、親子だから夫婦だからって愛し愛されてるとは限らないし。祖父に決められた婚約者だって……」
S織はM臣のことが好きだった。
三代目ゆえの寛容さも人の好さも、お坊ちゃんとして育てられたからこその残酷さも。
幼いころから一緒にいる自分なら受け入れられるし、自分の悪いところも彼といることで直していけると思っていた。互いに高めていける関係だと信じていたのだ。
実際は、派手で甘え上手な仮面に計算高く合理的な言動を隠したR々那が現れた時点で崩れ去る関係に過ぎなかった。
ここは現代日本なので、ネット小説のドアマットヒロインのような冷遇はされていない。
しかし父と後妻とその娘は家族で、S織は違う。気づかぬ間に跡取りとしての権利も奪われていたS織には、このままA社に居座る気力もない。退職届はもう受理されている。
スマホの短縮番号をタップする。
「……あ、お祖母ちゃん?」
母のようにおっとりして見えるものの、母とは違い完全に祖父の手綱を握っていた祖母につながった。
「もう未練はないから、お祖母ちゃんの持ってるA社の株も売っちゃっていいよ。海外のハイエナ勢に買い漁られたとしても、あの人達がなんとかするんじゃない?」
耳に当てたスマホを肩を上げて押さえ、S織は机に広げていた写真を大切に封筒へ片づける。
今はしまっておくだけだ。
S織を捨ててR々那を選んだ自分を正当化したい今のM臣がこの写真を見ても、嫌がらせのための偽造だと投げ捨てるだけだ。避妊は絶対じゃないと言われて受け入れたR々那のお腹の子が生まれたころに送り付けたら、
「M臣、どんな顔するかな」
祖母との通話を終えて、S織は想像してみた。
父親の死後、母親に大切に育てられた彼は繊細な男だ。
妻となったR々那の出産で、ちゃんとマタニティブルーに陥るに違いない。理屈ではない不安に苛まれているときにこそ、この写真は効くはずだ。
「A絵小母様がいらっしゃるから、赤ちゃんは大丈夫よね。子どもに罪はないもの」
言いながら、R々那について思う。
後妻と一緒にS織の家へ来たのは彼女の罪ではない。
でもS織の婚約者を寝取ったのは彼女の罪だ。B社の若社長であるM臣を手に入れるために、ほかの男性にまで魔手を伸ばしたことも。M臣よりスペックが落ちる男に本気になられるのを忌避したのか、R々那の相手は既婚者ばかりだった。
「この人、確かうちの……A社の社員よね。R々那の教育係だった人かな」
写真が原因でR々那の相手の家庭が壊れるようなことがあったら、なにか補償をしなくてはいけない、そんなことを考えながら、S織は荷物をまとめ始めた。
生まれ育った家を出て、祖母と豪華客船で世界一周旅行に行くのだ。
子どものころに決められた婚約で、ずっとM臣しか見ていなかった。A社の三代目として相応しい人間を目指して努力してきた。でもこうなったのだから、海上で始まる新しい恋を夢見ても良いだろう。
(ああ、でも……)
送られてきた二枚の写真を思い出す。
スマホで撮影したものを印刷した、証拠にはなり得ない写真だ。
けれどそれは、不思議なほど気持ちを楽にしてくれた。S織は送り主が、写っている男性の配偶者か恋人だと確信していた。
(追いかけて、必死にスマホで撮影するくらいこの女性も苦しんだのよね)
この写真を見たことで心のしこりが解けたのだ。
好きだった相手に裏切られたのだ。怒っても良いし憎んでも良い。
跡取りとして育てられたからって、だれも傷つかない解決方法を模索したりしなくて良い。すべて放り出して、後始末なんて考えずに逃げ出したって良いのだと。
まあ、それでもR々那の不始末の補償を考えたりしてしまうのがS織なのだけれど。
(いつか送り主を確認したら、補償じゃなくて感謝の気持ちを贈ろうかな)
S織は微笑んだ。




