第一話 T佳子
これでは無理ですね、と離婚専門弁護士は言った。
証拠としては使えません、と。
砂のような夕食を飲み込みながら、T佳子は二枚の写真のことを思う。
どちらもT佳子がスマホで撮影したものだ。
一枚は夫が部下の女の子とラブホテルの入り口にいる写真。
もう一枚は夫とその子がふざけ合っているチャットの画面を撮った写真だ。
AIが世を賑わせている時代だ。
加工していないと立証できる写真でなければ偽造扱いされても仕方がない。
それに、この写真を撮る前にネットを漁って知っていた。
この程度の写真では決定打にならない。
ラブホテルの写真は、前を通っただけだと言われたらどうしようもない。
確実に入っている写真でも難しいだろう。なにか用事があった、雨宿りするためだったと言われたら、それを嘘だと証明するのは不可能だ。
行為中の写真なら間違いなく不貞の証拠になるだろうが、他人のそんな写真を撮ること自体犯罪なのではないかとT佳子は思ってしまう。
チャットの画面だってそうだ。露骨に不貞を表す言葉はない。
関係を匂わすような会話だって、ふざけていたと言われたらそこで終わりだ。
それでも心臓が爆発しそうになりながら二枚の写真を撮ったのは、T佳子自身が夫の浮気を受け入れるためだったのかもしれない。
彼を許すためではない。現状を把握するためだ。
弁護士が紹介してくれた浮気調査に長けた探偵に連絡してみようか、と思ったとき、夫が言った。
「聞いてるのか、T佳子」
「え? あ、ごめんなさい。なにかしら、Y嗣さん」
Y嗣は大柄な体を活かして、小学校から大学までずっとスポーツをやっていた。
才能があるとは言い難かったものの、身体能力を活かした自己犠牲的なプレイに定評があった。
学業の成績はそれほどでもなかったのに一流と言って良い今の会社に入社できたのは、大学時代の彼の試合を見た社長に気に入られたからだ。
(社長さんは、信頼して任せた自分の娘に手を出されても許すくらい、Y嗣さんを気に入っているのかしら)
Y嗣が手を出したのは、教育係を任されていた社長の娘のR々那だった。
自分に才能がないと理解していたY嗣は自己犠牲的なプレイと、チームの潤滑油として振る舞うことで居場所を得ていた。
そのため人当たりが良く、後輩の指導が上手いとされていた。社長は彼のそんなところに期待して娘を任せたのだろう。なにかの際に一度会ったR々那は、地味で引っ込み思案のT佳子とはまるで違う、派手で甘え上手そうな若い女の子だった。
「来月、R々那さんの結婚式があるから礼服クリーニングに出しといてくれって言ったんだよ。……面倒かけて悪い」
体育会系の荒っぽい口調は抜けないが、大柄な自分が威圧的な印象を与えることを理解しているY嗣は、いつもT佳子に対して甘えるような声で話しかけてくる。
「……え?」
「そうだよな、T佳子も驚くよな。お腹が大きくなる前に式を挙げたいんだと。そのまま産休だよ。まあ社長の娘が、子どもが大きくなってから新規入社っていうのは難しかったのかな」
「お相手は?」
「Bの若社長……M臣さんだったっけな。ゆくゆくは合併するのかもしれないぞ。うちのA社とは創業者のころからの仲だっていうし、今も取り引き先っていうよりチームメイトかってくらい深い付き合いしてるしな」
「そう……」
「なんだよ。……俺らはべつにふたりでいいじゃん。俺、T佳子が子どもにばっかりかまってたらヤキモチ妬くぞ」
「Y嗣さんったら」
T佳子とY嗣は結婚して十年だ。子どもはいない。
そのことでT佳子が義母に責められていると、Y嗣は庇わないけれど話を変えてくれる。
義母は自分の話に反論されると、さらにヒートアップする人間なのだ。
「しばらく俺が教育係で忙しかったから、ふたりで過ごせなかったよな? 今日はイチャイチャしようぜ。明日はパートのない日だろ?」
「……そうね」
パートだけでは暮らしていけないから、時間を増やすか正社員の職を探さないといけない。
そんなことを思いながら、T佳子はY嗣に微笑んだ。
浮気相手が結婚するからといって、T佳子が離婚を諦めることはない。
(あの二枚の写真は法的な離婚の理由にはなり得ない。でも……ほかの理由にはなるのではないかしら?)
B社のM臣の婚約者は、以前から社長の娘だった。
しかし後妻の娘であるR々那ではなく、前妻の娘のS織だったはずだ。
花嫁の変更には、きっとなにか理由があったのだろう。
B社の前社長はM臣の母のA絵だったと聞いている。
最近世代交代したところだ。
夫の死後、ひとりで息子を育て上げた現代の女傑と呼ばれる女性は、花嫁の変更をどんな気持ちで受け入れたのか。
義母はT佳子を嫌っている。
彼女はY嗣にプロスポーツ選手になってもらって、アナウンサーや女優のような派手で自慢の出来る女性と結婚してもらいたかったのだ。直接言われたことがあるので確かだ。
息子が社長の娘、派手で甘え上手なR々那と不倫していたと知ったら、彼女はどんな行動に出るだろう。
二枚の写真の行き先を考えながら、T佳子は社長の娘の教育係で疲れたと甘えるY嗣の頭を撫でてやった。




