11-2幕間
王城へと向かう十季の背を見送って、中庭に残された近衛烏は何事もなかったように〝日常〟の中へ戻る――そのはずだった。
けれど、と隊舎へ続くドアを通り抜け様に凜は思う。最早、自分たちの〝日常〟は変質し始めてしまった。あの〝姫君〟が十季殿下の前に現れたことによって生じた波紋は血腥く穏やかな我々の世界に広がり、その不快な波はやがて大きなうねりとなって凜たちを飲み込むに違いないと。
吸血鬼に変じて幾星霜、今やこの身体に馴染みきっている生き方をあの〝姫君〟は変えよと望む。何を馬鹿な、と凜は思う。血が流されたなら血で洗う。吸血鬼はそういうものなのだと自分達は教えられ、そうして生きてきたのだ。それを昨日今日この世界にやってきたばかりの小娘に否定されて、沸々と身の内から湧き上る熱――これは、怒り。目の前が真っ白に眩むような怒りだ。
怒りを怒りとして認識した時にはすでに、凜は血管が浮き上がるほどにきつく握りしめた拳を勢いよく壁に叩きつけていた。隊舎を繋ぐ廊下に響き渡る決して穏やかとは言えない打音。ガン、と固く重い物を壁に投げつけたような激しい音が天井の高い廊下にこだまする。
「おいおい、穏やかじゃねェな……」
うんざり顔の鷹也がぼやく傍ら、白翁も困り顔で溜息をひとつ。最後に扉を抜けた瑠璃は特に表情を動かすことこそなかったが、何処か呆れたような気配を漂わせ怒り狂う凜を眺めている。その飄々とした態度に凜は心底腹が立った。
「穏やかでなど、いられるものか……ッ」
むしろ何故、貴様らはそんなにも平静を保っていられるのか。凛は低く唸り、苛立ちを隠すことなくもう一度壁を殴りつける。特別に誂えられた壁はこれしきのことではかすり傷すらつかないし、吸血鬼である凜の拳も同様だ。だからこそこの行き場のない怒りをぶつけても差し支えなかろうと。しかし凜の拳を受け哀れな壁が上げた2度目の耳障りな打音に今度は瑠璃も微かに眉を顰めた。
「凜、場を弁えろ」
しかし、諌める淡々とした台詞は結果として凜の神経を逆撫でることになった。目を吊り上げ、凜は正しく咆哮する。先程は壁に叩きつけられた怒りの矛先がいまや瑠璃へと一直線に向かい、凜は激情のまま目にも止まらぬ速さで瑠璃の頬を打った。
「チッ……馬鹿が」
パンと皮膚を打つ高い音に、舌打ち。甘んじて凜の手のひらを受けた瑠璃は小さな舌打ちをひとつ、凜の腕を乱暴に掴むと有無を言わさず己の隊舎へと歩を進めた。
同時に詰所から顔を覗かせたのは今日の詰め番であった瑠璃の配下達。不穏な物音を警戒してのことだろう。しかし彼らは居並ぶ近衛烏達――中でも荒れ狂う凜とそれを手荒に己の隊舎へ引きずっていく己の隊長――の姿を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
「……隊長方、何か問題でも?」
「いや、騒がせてすまないね。何でもないからお下がりなさい」
詰め番達の目にも〝何でもない〟のが嘘だというのは明らかだった。が、白翁がぽんと手をひとつ打ってにこにこ穏やかに微笑めば瑠璃隊の〝二〟も流石にそれ以上追及することはできない。賢明な〝二〟は表面上納得しましたという風を取り繕い、さわらぬ神にたたりなしと無言で仲間達を促して詰所へと戻っていった――一方。
「は、なせ……ッ! 放せと言っている!」
瑠璃の隊舎に入ってすぐ、殺風景な応接室らしき部屋へ容赦ない力強さで押し込まれた凛は扉が閉まるなり苛立ちも露わに叫び瑠璃の腕を振り払った。それには逆らうことなく瑠璃も腕をあっさりと解放し、伸びた前髪の向こうから馬鹿にするような視線を投げかけ唇を露骨に歪ませる。
「言われずとも。さあ、ここでなら好きに叫んで無様を晒すといい。だが配下の目のあるところで〝何かあった〟ととられかねない振る舞いをするのは近衛としての自覚に欠けている」
「こ、の……ッ!」
瑠璃の見下すような口振りは凜の怒りを尚も煽る。好きにしろと言うのなら、上等だ。そのすまし顔にもう1、2発を叩き込んでやろう。凜は怒りのままに拳を振り上げ――しかし扉から滑るように入ってきた白翁がその拳の前に立ちはだかり、彼女の拳をそっと大きな掌で受け止めた。
「凜、およしなさい。瑠璃も感心しませんよ。火に油を注ぐような真似は」
「煩い! 貴様らは何とも思わないのか!? 何故殿下はあの〝姫君〟の言うままになさるのだ! それどころか、羽衣までもがそれを支持するだと……!」
「羽衣が殿下の言うことに〝否〟と言わないのはお前もよく知ってるだろう」
瑠璃が呆れたように答えれば「そういうことではない!」と尚も凜は吠えた。
「確かに羽衣は殿下の命に忠実だろう。だが! 殿下に不利益と判ずれば真っ先にその芽を潰しに行く男だ! 現にあの〝姫君〟が目覚める前は誰よりもその存在に否定的であったはず。それが目覚めるなり護衛役に名乗り出るなど」
「あの女が誑かしたに違いない、とでも言うつもりか」
瑠璃の静かな問いに凜は答えなかった。が、彼女の顔を見れば「その通りだ」と思っていることなどこの場の誰でも分かる。歯を食いしばり、敵でも見るように剣呑で憎々しげな顔をした凜に他の近衛たちは溜息を零した。
「な、ちょっと落ち着けって。羽衣だって何か考えがあってお姫ィさんについてんだろうよ。第一あの殿下が寵愛だけを理由にほいほいお姫ィさんの言うなりになるとはお前さんも思ってないだろ? きっと何か考えがあってお姫ィさんの言を通したとは考えられないかね」
「鷹也、貴様までも……」
鷹也はなるべく凛を刺激しないよう言葉を選んでいたが、残念ながら凜の勢いはそがれることなく彼にも噛みつくように口を開いた。それを片手で制して鷹也は尚も言い聞かせる。
「たってなァ、睡蓮だけならともかく羽衣、さらに言えば殿下のお眼鏡に叶ったお姫ィさんだぞ。否定する理由がねェんだよ」
さらに、凜の言葉を封じるように「それ以前にだ」と瑠璃も続けた。
「羽衣が言っていただろう。僕達は〝近衛烏〟だ。殿下の一翼としてあのお方の言うことには〝応〟と答えるのが務めの筈。それを何故、何故と見苦しい」
瑠璃の言葉は正しい。だが正論は時に刃とも、毒ともなるものだ。彼の「見苦しい」の一言に凜は一瞬呼吸の仕方を忘れた。次いで噴き出した怒気は最早殺気に近い。けれど瑠璃はそれを何ら気にした風もなく、ただ凜の怒りを煽るような言葉を次々と投げかける。それは最早故意としか言いようがなかった。
「凜、お前の怒りは見当違いだ。もしも本気で殿下をお諫めしようというのなら羽衣の言葉くらいで怯むのが可笑しい。何故なら、諫言は死の覚悟を持つものにしか許されないからだ。お前はただ駄々をこねていただけだろう」
「何だと貴様……ッ!」
「だァ、もうお前さんらはそこら辺にしとけ!」
ついに凜が白翁の制止を振り切り瑠璃の胸ぐらを掴み上げ、鷹弥が固めた髪をガシガシと指で掻き崩しながら仲裁に入ろうと手を伸ばす。だが、そんな状況に水を差したのは殺気漂う場に何とも相応しくない、のんびりとした白翁の声で。
「では、鷹也」
白翁は問う。
「姫君の言う通り、我らは剣をとらずともよいとあなたは考えるのですか?」
マイペースにも程がある白翁の言葉に「いや、お前も大概空気読まねえな……」と半ば呆れながら、細いメガネのフレームを押し上げながら鷹也は律儀に答えを探す。
「そりゃあ、剣で解決すれば簡単な話だ。けど……そこに〝何か〟があるんだろうなと思うのさ。お姫ィさんには俺たちとは違う何かが見えてるんだと……そんな理由でもなきゃあいつらが動くと思うか?」
「随分とあなたはあの姫君を買い被っているように思えますね。まあ、元々あなたは睡蓮寄りの感覚を重視する性質ですからそれでも構いません。けれどね……」
そう言葉を切った白翁は瑠璃の胸ぐらを掴む凜の手に再びそっと触れ、引き離す。そうして、白翁は囁きを吹き込むようにして凜に告げた。
「凜、安心なさい。我らの牙が必要となる日は遠からずくるでしょう」
断じる白翁の言葉は柔らかく、何処か禍々しくもあって――その毒々しい予言に吞まれるようにして凜の怒気が少しずつ散じていく。
「我らの時間は長い。いいじゃないですか。あの姫君に時間を差し上げましょう。血や暴力への嫌悪も葛藤も、あなたにだって覚えはあるはず。なあに、そう長いことじゃありませんよ。敵も気の長くないのがいますからね。そして、あの姫君が何と言おうと一度剣を振り上げてしまえば戦は止まらない。幾ら血が流れようとも、同胞が斃れようとも……常闇を狩りつくすまではね」
うっそりと笑う白翁の言葉は、僅かな怖気と共に凜の比較的新しい記憶を呼び起こした。それは鉄錆の匂いであり、銀が体内を巡る焼けるような痛みであり、そして跳ね飛ばした首の下から噴き上がる血飛沫と、覗く生々しい肉やら骨やらであった。――それらは凜にとって馴染み深いものであり、けれどあの生まれ変わったばかりの姫君には耐えがたい恐怖であるに違いない。
「確かに……あの〝姫君〟は戦など望まないだろうな……」
随分と平和になった世の中だ。地上の街からは武器が消え、血が消え――そんな時代に生まれ育った〝姫君〟のこと、きっと殿下が血を流すことを恐れて戦いを遠ざけようというのだろう。如何にも女の考えそうなことだ。そう思う一方で、凜はその考え方を嘲笑う気持ちもなかった。戦いを知らぬ者、けれど力を持たぬ者は祈るより他にできることはないのだと彼女もまた知っている。しかし〝姫君〟は本来持たざる者ではない。ただ、まだ己の持つ力を理解していないだけなのだろうと――そう思えば沸騰していた頭がすぅと冷めていくのが分かった。
「すまない……」
「ようやく頭が冷えたか。なら、僕は行く」
「ああ、時間をとらせた」
まだ頭の隅で癪だとは思いながらも凜は瑠璃へ小さく詫びた。それを「はっ」と短く鼻で笑って、瑠璃はそれ以上時間を無駄にすることなく足早に隊舎を後にする。これから隊の者を引き連れて巴の周囲へと潜むのだろう。その背を見送りながら凜は短く舌打ちをした。瑠璃のことは腹立たしくもあるが、しかし今回については忌々しいことに己の未熟でしかない。
「では、我々も成すべきを成しに戻りましょうか」
白翁の声に背を押され、残された凛たちも瑠璃の隊舎を早足に後にする。そうして己の隊舎へと戻る道すがら凜はもう一度あの〝姫君〟の顔を思い出していた。自分の険のある視線を受けて、困ったように目を伏せて小さくなっていた女。
戦になり誰かが傷つけば彼女は泣くだろうか。あの美しい顔を歪めて――いいや、もしかしたら希望の全てを失ったような悲愴な顔で涙を一筋流すだろうか。凜はそんな〝姫君〟らしい泣き顔を思い浮かべようとしたが――何故だろう、結局は彼女のそんな表情を上手く思い描くことはできなかった。




