10-3幕間
朽ち果ての王城に灰宮と呼ばれる離宮がある。灰宮の主とその配下全てを吞み込む大広間――離宮の心臓部は深い深い地の底にあった。前時代的な絡繰りの昇降機に乗り、鉄の蛇腹を閉めれば半円形の階数表示板をゆっくりと針が進む。
辿りついた最下層、昇降機の先はなだらかな扇型の下り階段だ。それを降り切り広間の奥へと伸びる長いテーブルの間を進んで最奥、天井まで届くようなステンドグラスの扉を背に据えられた灰の玉座。広間から数段高い位置にあるそれに座す男こそ、灰宮の主にして常闇烏の長――珠皇だった。
時刻は間もなく夜明け。今、灰宮の大広間に存在するのはたった3人きりだった。玉座に収まりつまらなさそうな顔で高みから全てを見下ろす珠皇と、玉座の傍らに控え人のよさそうな笑みを浮かべる長髪を束ねた男と、そして玉座の前に跪き珠皇を見上げる短髪の女――巴と。
「全く……聞いてますか、巴? 前回もあなたが地上で派手にやらかした所為で近隣諸国の注意を引いてしまって……ようやくその矛先を逸らしたと思ったらまた! まだ三官たちも目を光らせてるっていうのに……」
長髪の男が心底困った顔で両眉をハの字にして唇を尖らせれば、巴はそれを鼻で笑い飛ばす。
「あはっ! 好きにさせたらいいんですよ、あの腰抜けの老害共なんぞ。三官が何だって言うんです。あんな古くから生きてるだけが自慢の事なかれ主義者。未だに両殿下のどちらかへ味方するのを恐れてあやふやな立場でいるくせに、こういう時ばかり国の立場がどうのこうのと! だったら早いとこ決着をつけて、王城で空ンなってる玉座を埋めればいいのさ。でしょうよ、笛吹?」
悪びれない巴の言に笛吹と呼ばれた男は呆れを滲ませ溜息を吐いた。
「だからといって秘蔵の姫君に喧嘩を売りに行くなんてあなた馬鹿ですか。その場には十季殿下もいらしたっていうのに」
「私が馬鹿だってのはアンタもよーくご存じでしょうが」
「存じてますけど……あなたねぇ」
半ば諦めたように肩を竦めてみせ、無駄だろうと悟った顔で笛吹はさらなる小言を重ねようと口を開く――が。
「……もうよい」
「そうですか?」
無言のままやり取りを聞いていた珠皇が静かに、それでいてはっきりと通る声で制せば笛吹はあっさりと引き下がった。それに巴が顔をニヤつかせるが、しかし珠皇の視線が彼女に向けられればパッと表情を輝かせ真っ直ぐに珠皇を見つめた。
「巴」
「はい!」
「宵闇の姫はどうだった」
その問いは輝いていた表情を曇らせたものの、結局巴は少しばかり考えて答えを返す。
「そうですねえ……。まあ、クソ生意気な小娘でしたよ。その癖、戦いの方はからきしのようでしたね。殺気ひとつに一々ビクついて」
「そうか」
「あれなら、ちょっと捻るだけで首もコロンと落とせそうですがね」
「……巴」
珠皇は、ただ平坦に名を呼んだ。ただそれだけで巴はピタリと口を噤んだ。まるでそれ以上何かを言ったなら命の保証はないとでもいうような、並みならぬ緊張感を漂わせながら。そしてそれが決して思い過ごしではないことを、巴も、笛吹も、いや常闇烏ならば誰もが知っている。
「下がれ」
だからこそ巴はその命にすぐさま従った。素早く礼をとり無駄のない動きでテーブルの間を抜け、扇型の階段を上り切り昇降機へと。ガチャン、ギチギチギチ。鉄の蛇腹が閉まり耳障りな金属の軋みが上へ上へと遠ざかって――やがてその音が聞こえなくなった頃、笛吹はふすっと妙な笑いを漏らして珠皇を振り返った。
「珠皇、いいんですか?」
何が、と笛吹は言わない。けれど珠皇はその言葉の含む意味を正しく理解し答えた。
「構わん。巴は懲りずに宵闇姫を狙うだろうが……私に従わぬなら放つまで」
「そうですか?」
笛吹が念を押すように両眼を細めれば珠皇もまた顰め面で応え――ならば話は終わりだとばかりに笛吹はぺこりと頭を下げ踵を返した。が、気が変ったのかふと足を止め「そういえば……」と呟く。
「もしかして、何かいいことでもありました?」
唐突な問いかけに珠皇が瞬きをひとつ返せば、笛吹は返事のないのを気にするでもなくマイペースに続けた。
「いえね、いつもは寝起きの悪いあなたが今日は随分とご機嫌よろしいようだったので」
首を傾げた笛吹に、やはり珠皇は何も答えない。笛吹も返答は期待していなかったのだろう。人のよさそうな顔に少しばかり毒を混ぜたようなとぼけ顔で珠皇を流し見、彼は「ま、気の所為でしょうかね?」なんて言いながらふすっと笑っている。
「ともあれ巴に関しては私も目を光らせておきますよ。三官はともかくこれ以上他国に目をつけられては……殿下はよくとも私が困りますから」
そうして今度こそ笛吹も去り――誰もいなくなった大広間に珠皇の漏らした小さな小さな吐息がひとつ、漣のように広がっていく。
玉座に肘をつき、骨ばった己の手、珠皇はその親指の腹で唇に触れてみた。薄く、鏡に映せばきっと血色の悪いだろうそれはいつも通り不機嫌に引き結ばれているようだ。眉間の皺もそのまま、それなのに珠皇の小さな変化に気付いた笛吹は流石と言うべきか。あの男とも長い付き合いだが、未だに底の知れぬ奴だと珠皇は心中でひっそりと思う。
機嫌がいいかと問われれば答えは「是」だ。何かいいことがあったのか。それもまた「是」と答えるだろう。では、それは何故か。それには「久しぶりに美味い酒を飲んだから」とでも答えておくことにする。そう、あれは随分と久しぶりに心から美味いと思える酒だった。足を組み、酒の味を思い出せば今度こそ珠皇の口の端が緩やかに持ち上がる。
血縁である先王を亡くして以来、あの箱庭は珠皇だけのものだった。先王とふたりで酒を酌み交わした東屋。あの場所で毎夜眠るたびに酒を飲むのは最早惰性であったと言える。あれほど好きだった酒も時の止まったようなあの場所で飲めば香りも味も薄れ、折角の酒への冒涜と知っていて尚止めることができなかった。――そこへ、あの迷子が飛び込んできたのだ。
宵闇の姫。その存在が噂されてすぐに彼女の情報は珠皇の元へも届いている。それがあの夜、振り下ろした刃から宵闇を庇った女だとは添えられた写真を見てすぐに気付いた。だがそのことに特別な思いはない。確かに彼女が現れなければ今頃争いは終わっていただろうが、頭に血が上って彼女の存在に気付かなかったのは己の未熟だ。
あの夜のことは珠皇自身おぼろげにしか覚えていない。血の臭いに浮かされて宵闇に切りかかり――飛び込んできた小さな黒い何かが銀の刃を柔らかく受け止めた。何だ、と頭の中に言葉が浮かんだ時にはもう宵闇の刀に切り裂かれていた。宵闇が瀕死の状態であったこと、何より間に〝障害物〟があったことが幸いし即死は免れたが、灰色のゆったりとしたローブをまとった体には未だ疼く傷が残っている。
あの場から最後の力を振り絞って姿を消し、次に目覚めた時にはこの離宮の自室で寝付いていた。起き上がることもできず、何を考えるのも億劫で――そんな折にもたらされた宵闇姫の噂。ずっと独りだった宵闇が血縁に選んだと言われても興味が湧くこともなく、あの宵闇に弱点ができたと笑う配下達を珠皇は何処か遠くから眺めていた。――だからこそ、彼女が己の箱庭に現れた時は流石の珠皇も驚かされたのだ。
『……怖い』
強張った顔で真っ直ぐにそう言った姿を、不思議と好ましいと思った。次いで印象に残っているのは自家製のブランデーを口に含んだ彼女の顔だ。仮にも敵前だというのに警戒しながらも勧められるまま飲んで、心底美味いと目を輝かせていたのを思い出す。灰宮には地上地下問わず集めてきた銘酒が数え切れぬほど眠らせてある。それを見せて、飲ませてやったならどうだろう。そう考えて初めて、彼女が宵闇のものだというのが珠皇は少し悔しくなった。
「宵闇姫。……木蓮」
次は首を刎ねると言ったものの――また会いたい。叶うなら首を刎ねるよりも前に、またあの箱庭で。あの首を刎ねたいと思うのは常闇の長である珠皇の願いで、酒を酌み交わしたいと思うのはただの珠皇の願い。相反するが、しかし珠皇にとって矛盾はなかった。そんな珠皇を宵闇姫は何と言うだろうか。全く想像のつかない答えをあれこれ想像しながら珠皇はくっと喉を鳴らして笑った。
ローブの裾を引きずりながら玉座を降り、ステンドグラスの扉を開く。深い地の底にある扉だが、その向こうは断崖絶壁の一部を切り出して作られた石の露台につながっている。眼前には薄らと白んできた空、見下ろせば眼下には朝靄の立ち込める草原が広がっている。
この扉を開くことができるのは灰宮の主――今は珠皇ただひとり。美しい薄明も今は珠皇だけのものだ。とは言え配下達は今頃それぞれの寝床の中に潜り込んでいる頃合だろう。珠皇のように夜明け前に眠り夜明けと共に起き出す吸血鬼は珍しい。だが、まるで人のようだと笑われても珠皇はこの習慣を改めるつもりは毛頭なかった。
朽ち果ては美しい国だ。珠皇はここに立つたびにそう思った。かつて珠皇が人であった時の地上のように緑は深く、空は広く、朽ち果ての大地は濃く匂い立つ。そしてそんな大地が何よりも美しく生き生きとして見えるのは太陽を天に抱くうちだろうと。
今は冬の終わり、地平線の先へと続く草原は秋になれば青から金色へと移り変わる。その頃に宵闇姫がここへやってくることはあるだろうか。同胞の血に塗れた銀の剣を手に、この首を落とそうと。もし――もし訪れるようなら見せてやりたいと思う。彼女の細い首を刎ねるその前、最期に目に映す光景として、風にそよぎうねる金色の原を。
黒い髪をたなびかせる女が血塗れの刀を手に景色に見入る姿を思い描いて酷く愉快な気分に浸りながら、珠皇は後ろ手に扉を閉じる。夜明けだ。地平線の向こうから昇りくる陽光が一条、ステンドグラスにぶつかってテラスの石畳にチカチカと色を散らし――そしていつもと同じ朽ち果ての朝を珠皇は静かに出迎えた。




