10-2
黒い靄に飲み込まれた私はまず視界を、次いで意識を失った。抗おうと思う間もなく私の何もかもはずぶずぶと沈み込み――そして、唐突な浮上。
ぱちりと瞼を持ち上げて、最初に視界に映ったのは影差す漆喰の天井だった。薄暗い部屋の中、燭台の小さな炎がちりりと揺れるたびに不安定な形の暗がりがゆらゆらと踊る。浅く吸い込んだ空気から香るのは酷く心を落ち着かせる香の匂い。それだけで「ああ、十季の部屋だ」と安堵して私はもう一度瞼を下ろした。
何故だろう。体がとにかく重い。疲労が全身の血管を巡っているような気分だ。それから、まるで風邪を引いた時みたいに喉の辺りがからからになって熱を持っていて――ああ、そうだ。私はこの喉の渇きを伴う症状に覚えがあった。あれはまだ私が〝完全な〟吸血鬼になる前の記憶。つまりこれは貧血、いや空腹と言った方が適切だろうがここはあえて貧血と呼ぼう。要するに燃料切れなのだ。私はこの体を動かす為の燃料を――人間の血を――欲している。
全く次から次へと――私は今日一日うんざりするほど繰り返した台詞で心中毒づいた。本当にトラブルとイベントのバーゲンかと思うくらいに今日の私は忙しい。私の愛読する小説において、例えば吸血鬼となった登場人物が〝人間の血を飲んで生き延びるか否か〟というのはシリーズを通して葛藤しても許されるレベルの問題だろうに。現実においてその問題にぶち当たった私にはシリーズ通してどころかほんの数ページ葛藤する暇も与えられない。
けれど珠皇と相対していたあの時間に比べてみれば人間の血を飲むか否かなど些末な問題なのではなんて感じてしまえる自分もいた。人間は牛も食べるし豚も食べる。鳥も魚も、野菜も――そう、生き物を食べて生きている。私は吸血鬼になったんだから、牛の代わりに人間の血を飲むことに何の問題があるのか。
――と、いう思考が少しばかり自棄気味である自覚はあった。でもどれだけ時間をかけて悩んだところで答えは一緒。飲むか死ぬかの二択なら、結局私は飲むだろう。それなら飲んでしまってから悩む方が余程効率的で、そう自分に言い聞かせ前へ進む方が建設的だと思う。
そうとなれば話は早い。さて十季は何処だろうかと気配を探れば、それは思ったよりも近く、けれども手を伸ばすには遠い場所にあった。
十季は部屋の隅、一人掛けのソファに身を沈めじっと私を見つめている。私の様子は見逃さないが、決して触れられないもどかしい距離。遠目にも暗く沈んだその瞳の色に私はじわりと不安を覚えた。――何か、あったのだろうか。私が気を失っている間に、何か、そう、よくない何かが。例えば、誰かが。
「……木蓮? どうした。何を怯えている?」
不安が伝わった途端、十季は私の枕元へ飛んできた。恐怖を滲ませてじっと私を覗き込む彼の青白い顔に、まだわずかに水気を含んだままの髪がかかって影を作る。
「どうした、木蓮。何が怖い」
「何か、あったの?」
「何かって?」
「私が呑気に気を失ってた間に、何があったの」
ひりつく喉から熱い息と共に問えば、何故だろう、十季の目に紛れもない怒りが過った。何で怒っているんだろう。そう問いかけるよりも早く瞬きのうちに彼は表情から怒りを消し去り、けれど代わりに現れたのは――自嘲の色。
「十季、ねえ、どうしたの」
「木蓮」
彼はベッドのすぐ横に膝をつき、その両手で私の手を包むと冷たい唇をそっと触れさせた。吐息のような、か細く微かに震えた声で十季が私の名前を呼ぶ。
「違うよ、木蓮。何もない。そうだ、君が意識を失っただけだ」
何かを確かめるように十季は目を閉じ、私の手の甲へ口付けを重ねる。何度も、何度も。そうされてようやく分かった。そうか、十季はただ、ただ私のことが。
「小さいと気づいたばかりの君の身体から力が抜けて、さっきまで私だけを見つめていた瞳が瞼の下に隠されて、呼びかけてもその唇は私の名を呼び返してはくれなくて……。あの時、私には何故君が意識を失ったのかすら分からなかった。ただ頭の中から何もかもが消えて、呆然と立ち尽くすしかなくて」
手の甲へ唇を付けたまま、許しを乞うように十季は告白する。
「小泉が飛び込んできて、頬を張られても私はまだ正気に戻らなかった。だって、君の気配が途絶えたんだ。君と私の繋がりが。確かに君の体は私の腕の中にあるのに、君は……」
弱々しい十季の声にぎゅっと手を握り返す。恐らく気配が途切れたのは私が珠皇の箱庭に迷い込んでいた所為だ。私の中にあの夜、混ざり込んだ珠皇の血。十季には告げておかなくちゃならない。――けれど告げるのが怖いという気持ちもあった。十季はどう思うだろう、と。
「……ごめんね」
大丈夫。怖いけれど、ちゃんと説明する。何故ってあの十季がこんなにも不安そうにしているのだ。何より自分を責めて、責めて、そんな必要ないのに。けれど私の「ごめん」を聞いた十季は低く低く、地を這うような声で「何故」と呟き――そして叫んだ。
「謝るな……! 木蓮、君に何の非が!? 言われるまでも、考えるまでもない。すぐに分かった筈なのに! 君が飢えていても可笑しくないことに!」
痛いほどに私の手を握り込んで十季が吐き出すのは己で己を呪う言葉だ。
「君は……新生してから君は一度も人間の血を摂っていなかった。吸血鬼ならば分かっていると、吸血鬼なら言われずとも人の血を飲んでいるものだと、思い込んで、浮かれて……何だろうな、本当に私は、君のこととなると……」
言葉を切り、ようやく顔を上げた十季がまだ暗いままの瞳で強く私を見つめる。
「血を、飲むんだ、木蓮。今すぐに。もう少し時間を上げたかった。けれど私は君が嫌だと言ってもそうさせるよ。拒否されようとも、無理やりに喉へ流し込む。何なら人間の首を掻っ切って、その噴き出す血を浴びせてやったっていい。君に恨まれることも憎まれることも……君がいなくなってはできない」
十季の言葉に嘘はなかった。私が飲みたくないと言えば彼はこの口をこじ開け、目の前で人間の首を斬り落とす。――これは、狂気だ。強く、暗く、奈落のような狂気。だがその狂気を前にして私は酷く凪いだ気持ちで、十季に沈黙を返しながらただ考えていた。全く、どうしようもないと。歪んでいて、どうしようもないふたりだと。十季も、その歪みをこんなにも愛しいと思う自分もまた。
「十季、心配しないで。ちゃんと飲むから。もし躊躇していたら無理やりに飲ませたっていい。それを恨んだり、憎んだりなんてしない」
恨んだり憎んだりできる筈もないだろう。短い時間の中で私達の縁はもう解けそうにないほど絡まってしまっている。その縁がぷつりと切れる怖さなら私にだって想像はできた。もしも十季がいなくなってしまうなら――私もまた狂気に侵されてしまうに違いない。
「血を」
その言葉を待ち構えていただろうタイミングのよさで、小泉と表情を強張らせた善、そして柚木が現れた。私は十季に助けられ重たい体を起こしてヘッドボードに体重を預ける。
「姫様」
「善、どうしたの。そんなしょげた顔して」
しょぼくれた大型犬に小さく笑いかける。その動作すら億劫で疲労が伴うことに私は眉をしかめた。人の血が吸血鬼にとってどれほど欠かせなものなのかを思い知らされる。
「私が気付くべきでした」
「いいよ。今日は本当に慌ただしかったんだから」
何せ本人ですら体調の悪さを精神的な疲労からくるものだと思い込んでいたのだ。だから誰も悪くなんてないのだしと、話題を変えるべく柚木の方へ視線だけを向ける。
「柚木も、怪我は?」
すると柚木は折れていた筈の腕をぷらぷらと振って見せ、笑った。
「善様の血を頂きましたので、この通りです。ご心配をおかけしまして申し訳ありませんでした。さて……姫様」
ふわりと穏やかに、そして私を宥めるような優しい表情を浮かべた柚木が進み出て、私の枕元に立つ。
「ですので、ちょっと善様風味ですが勘弁して下さいね」
そう言いながら彼は枕元に腰掛け、場の空気など何も感じていないかのような顔でにやっと笑いかけてくる。私は危うく噴き出すのをこらえ――ああ、そうかと思う。これから私は柚木の血を飲むのか。無意識に唇を噛んでしまった私の前で柚木がその細い首をさらす。白く瑞々しい皮膚のその下を、巡っている赤い色。
十季がじっとこちらを見ている。私はそれを痛いほどに感じながら柚木の首筋に鼻先を寄せ、血の管を舌でちろりとなぞった。柚木が小さく息を飲んだが、彼の表情に恐怖の色がないことにただ安堵して――私は柚木の細い首筋にそっと歯を立てた。
牙が張りのある若い肌に食い込んで、薄い皮膚の下から溢れ出してくる甘い血を夢中で飲み下す。あさましい。けがらわしい。きみがわるい。きしょくわるい。嫌悪感が、私の中にまだ生きている人間の心からふつふつと浮き出しては吸血鬼としての渇望、そして何よりも喉を滑り胃へと流れ込む血の味に呑み込まれて見えなくなる。
きもちわるい。口中に溢れる血は確かに私の知っている血の味だというのに、生温かいこの液体を〝おいしい〟と感じる自分が。〝もっと〟と人間の血を吸う自分が。きもちわるい。いっそ吐いてしまえたら。いいや吐くものか。きもちわるい。その気持ちすらもなくさないで、私は吸血鬼として進まなければ。人の気持ちをなくさずに。
「……木蓮姫」
いつの間にか、血は止まっていた。微かに赤を滲ませる二つの傷口を舌で舐め、私は柚木から静かに身体を離す。すると労わるような、優しい柚木の声。その顔からは血の気が引いている。
「……ありがと、柚木」
小さく微笑んで柚木は立ち上がった。あとは何も言わずに去っていく。小泉も、善も、柚木もいなくなって、私の側には十季だけが静かに佇んでいる。
「十季」
呼べば彼はすぐにベッドへ滑り込んできて、熱を宿し始めた私を抱きすくめた。こらえきれずその肩口に顔を押しつけ――すぐさま体を引く。彼の着ていた白いシャツに赤いものがじっとりと染み込んでいた。ぱっと顔を上げ、窓ガラスに映る自分を見つめる。
窓の外、知らぬ間に夜は明けていた。明けの薄ら明るい空を透かしたガラスにぼんやりと映る私。真っ赤に染まった唇、飲み下せなかった血が首から胸元へと一筋垂れていて、それでも美しい、まだ少し見慣れぬ自分の顔。
私の視線が捉えたものに気付いたのだろう。不意に十季が有無を言わせぬ力で私を引き寄せた。骨が軋む音が聞こえるんじゃないかと言うくらい、強く強く私を抱いて。何も分からなくなるくらい、強く強く唇を重ねてきて。
十季は私を甘やかし過ぎだと思った。それから、他のみんなも。優しい。底抜けに。私はだから、甘え過ぎてしまわないようにしなければと頭の片隅でぼんやりと思って――でも、でも次の夜がくるまでは。
「十季」
口付けの合間に呼んだ彼の名前は嗚咽にしかならなかった。ただ泣いていたかった。――もう、何も考えたくはなかった。




