The Previous Days 中編(14)
おじいさんは伺うように僕の顔を見た。
「どうかな」
「通いではダメですか?」
「住み込みは反対かね?」
「彩乃がいますから。まだ小さいですけれど…」
それは言い訳で、本当は僕が嫌なだけなんだけど。おじいさんは考え込んだ。
「一つ提案があるんです」
ちょっと前から考えていたことだ。ここへ来た最初から、おじいさんは腰のことを言っていて、教会を閉めてしまう恐れがあった。
今だったら相続した財産を使っておじいさんを養うことぐらい楽勝だ。けれどそれが分かる前は、また路頭に迷うのかと、ちょっとした不安事項だった。
そして今、僕の財産を明かしておじいさんを養うというのも、ちょっと憚れるものがある。僕が稼いだものじゃないしね。
だから僕はおじいさんに教会を続けてもらうべく、一つ考えていたことを口にした。
「実は、僕、牧師の勉強をしようかと思うんです」
「えっ?」
あまりにも唐突な申し出だっただろうか。まさに鳩が豆鉄砲を食らった顔というのはこういうことを言うのだろう。
「お手伝いをしたいと思って…」
「そ、それは…嬉しいけれど…他になにかあるんじゃないのかい? やりたいこととか」
僕はゆっくりと首を振った。
「お手伝いをしたいです」
見る見るうちに顔を表情が緩み、おじいさんの目は赤くなって、すぐさま潤んでくる。
「幸い大学の卒業資格は持っていますから、転入試験を受ければ済むし、2年ぐらい勉強したら、最低限必要な知識は覚えられそうです。その後は実地で学ぶというのはどうでしょう」
どの程度の知識が必要かわからないけれど、一応、聖書の勉強はイギリスの大学でやっている。その上、ラテン語は教養として学ばされていたから、ある程度なじみがある。ヘブライ語はやったことがないけれど…そこまでいるかな。
とは言え、150年以上前の知識だからね。どれぐらい役に立つかわからない。
おじいさんは、僕の肩に手をかけて「ありがとう」と言ったきり、下を向いてしまった。僕はどうしたらいいか分からなくて、そのままおじいさんが落ち着くまで待っていた。
こうして僕はある神学科がある大学に通って、牧師としての知識を身につけることになった。
大学生活は意外に忙しく…まあ、4年間で卒業するのを2年間で卒業しようとしているせいもあるんだけれど…翻訳者の仕事をしているのは、かなり厳しい。
もう一つ僕の生活を圧迫しているのは、イギリスから定期的にくる相談だ。あの後ニコルとカリナが粛々と進めてくれているけれど、やはり完全に任せるのはまだ無理だった。
結局、僕は翻訳者の仕事を諦めることにした。そろそろ十年近いしね。潮時だ。
編集室に顔を出せば、田中編集長と杉森さんは外の喫茶店で打ち合わせ中とのことだった。僕もよく打ち合わせに呼び出される喫茶店だ。場所はすぐに分かる。
カランコロンとドアベルを響かせて僕が入っていけば、奥の席に田中編集長と杉森さんがいるのが見えた。
「あの、俺は本気です」
杉森さんの声が混雑の中から聞こえてくる。
「田中さん、ずっと好きでした」
えっ。思わず足が止まる。どうしようかと迷っていたら、田中さんから搾り出すような声が聞こえた。
「からかっているの? こんな年上で、恋人の一人もいない女」
「いえ。からかってなんか…」
「ウソよ。そんなそぶりなんか」
「本気なんです」
「やめて」
思わず踵を返そうかとした瞬間に顔なじみの店員に捕まった。
「あっ、あの奥の席ですよ。お待ち合わせですよね?」
響き渡る大きな声。田中さんと杉森さんの二人がこちらを向く。やばい。えっと…。
誤魔化しようがなくて、思わずへらりと笑ってみせると、田中さんが真っ赤になって僕の横をすり抜けていった。あとに残される杉森さんが、がっくりと肩を落とす。
「えっと…すみません。間が悪くて」
「まったくだ」
杉森さんが力なく僕を睨んだ。
「山形君、何? 今日は打ち合わせ入れてないよね」
山形君。山形君。ああ。僕の翻訳をするときの偽名だ。山形朔良。
「え? ええ。ちょっとお伝えしたいことがあって…」
「重要な話?」
「いや、まあ、なんていうか」
僕が濁せば、杉森さんが立ち上がって僕の肩にがっしりと腕を回した。
「もう終業時間だし、飲みに行こう」
「え?」
「間が悪いところに居たんだから、付き合う義務がある。さあ、行こう」
「え? え?」
なんか杉森さんの理論には無茶があるように思うんだけれど、それを論破する前に僕をがっちりと掴んだまま、彼はお店に「つけといて」と言い置いて、僕を連れ出した。
そして連れてこられたのはチェーンの居酒屋。初めて入る僕はきょろきょろと周りを見回していた。人が多くて、がちゃがちゃした雰囲気だ。なんというか台湾の夜市やタイの屋台を思い出す。あれは屋外だけど、それの屋内版みたいだ。




