The Previous Days 前編(8)
その夜、僕の腕の中で眠る彩乃の髪を撫でていたら、彩乃がぱちりと目を覚ました。
「彩乃? 起きちゃった? 怖い夢でも見た?」
そう尋ねれば、彩乃が首を振る。
「あやのじゃないよ。リリアなの」
またリリアごっこだ。
「はいはい。リリア。どうした?」
「お腹空いた」
「うん」
彩乃が僕の手を掴む。僕はされるがままに、人差し指を彩乃の口に含ませた。ちりっと痛みが走って、彩乃の小さな舌が嘗め回す。
本当はそろそろ牙で飲んでもいいはずなんだけど、牙で穴をあけて舌で舐めるということを彩乃は続けていた。ま、飲めばいいんだ。飲めば。どっちでも。
「やっぱり飲むことにしたの?」
意地悪かと思ったけれど訊いてみれば、彩乃が首をふる。
「リリアはのむの。のまないのはあやの」
あ~。一種の屁理屈だな。ま、いいや。とりあえず飲んでくれるならいいだろう。それからは夜中に催促されて飲ませるようになった。
幼稚園での生活は平穏無事に見えた。少しばかり彩乃は文字を覚えるのが遅いと言われたけれど、僕は焦らないように心がけている。言葉の習得が遅れた影響もあると思うし、もともと僕らの種族の成長は遅い。多少は人間よりも遅い部分があってもおかしくは無い。
文字が読める読めないなどということよりも、彩乃が人間の中で、折り合いをつけながら生活する術を学んでくれることが僕にとっては一番ありがたかった。まあ、文字はそのうちに読めるようになるだろうと思っていた部分もあるしね。
…とはいえ、一応、トイレとお風呂にあいうえお表を貼ることにはした。なんだか家の中が幼稚園みたいになった。しかしこれだけでは終わらなかった。
「あやの…ばかなの」
ある日、幼稚園から帰ってきた彩乃がしょんぼりして僕に言う。
「どうした?」
「あのね。みんなのなまえをみて、くばらないといけないの」
「はい?」
どうやら幼稚園で、文字を読ませる教育の一環もあって、園児の名前を見ながら配り物をさせたりするらしい。彩乃は文字が読めないから、一つ一つ先生のところに行って名前を読んでもらわなければならず、それで友達から馬鹿にされて落ち込んでいた。
「彩乃。それは馬鹿とは言わないんだよ」
「でも…ばかっていわれたの…」
そこで仕方なく彩乃に文字を教えることにした。しかし…これはどうやって教えたらいいんだ? ここへ来て僕は考え込んだ。
大人に教えるなら、暗記しろと言うだけですむけれど、子供に教える場合は自分で覚えてくれない。自分で覚えられるぐらいなら、トイレとお風呂の表で既に覚えているはずだ。
このときになって、ようやく児童教育やら家庭内教育の本を図書館で読んでみた。そして絵本を読んでやるという結論にたどり着いた。いや。気づいてなかった僕が馬鹿だった。
彩乃に対しては、まずは言葉を喋らせることと、とにかく力を入れないということばかり教えていて、帰ってきてからもボールを潰さないで握るとか、人形を壊さないで握るとか、そんなことばっかりだった。
特に重きを置いていたのが、筋力のコントロールだ。とにかく彩乃の筋力は強くて、本当にちょっとしたことで物を壊してしまう。だからその訓練ばかりだったわけだ。
特に彩乃が寝るときには僕が仕事をしていることが多くて、寝る前の絵本なんていうこともしていなかったし。
慌てて僕はいくつかの絵本を彩乃と一緒に買いに行った。赤頭巾ちゃん、シンデレラ、白雪姫。定番の童話に、おむすびころりんなどの日本の民話。そんな話を眠る前の時間になると読んでやるようにした。
彩乃を膝の上に乗せて、一緒に本を覗き込む。そして芝居がかった調子で、声色も変えながら読んでやれば、彩乃はキャッキャッと笑いながら喜んで僕の声を聴いていた。
こんなに喜ぶなら、もっと早くから読んでやればよかった。そう思いながら、毎晩、一つ、二つの話を読んでやれば、しだいに彩乃も文字を覚え始める。
一緒にお風呂に入っているときにも、あいうえお表を眺めては、
「これは、『あ』、彩乃の、あ…だよ」
そう言うだけで、彩乃がじっと「あ」の文字を見つめる。そして「あ」「や」「の」と文字を指差してやれば、しだいにお風呂に入るときに、あいうえお表を眺めるようになってきた。
みんなよりは多少遅いかもしれない。しかし半年も経つころには彩乃も文字が読めるようになり、みんなと同じように配り物ができていた。




