間章 不安(1)
------------ 彩乃視点 -----------
わたしがその人に会ったのは、五月の終わりぐらいだった。総司さんと誘拐されて、お兄ちゃんが助けてくれた後。わたしたちの事件を余所に、時間は進んでいく。
大学では講義が普通にされていて、出席はしないといけなくて。総司さんの傍に居たいけれど、総司さんもお兄ちゃんもわたしが大学を休むことは許さないから、普通に授業に出ていた。
心理学概論。英語の授業とキリスト教の概論は、みんなと一緒だけれど、この授業はお友達が少なくて、わたしは一人で受けていた。
「ここ、いい?」
隣に女の人が来る。
どうぞ、と普通に答えてノートと授業で使うテキストをバッグから取り出していたらさらに話かけられた。
「宮月さんでしょ?」
顔をあげて隣に座ったその人を見るけれど、しっかりと化粧をした見知らぬ女性。レイラちゃんも胸があるけど、この人も結構ある。初めて会った気がするんだけど…わたしが覚えてないだけかな? 思わず首をかしげてしまった。
「えっと…」
「あ、私、高月冴子」
「たかつき…さん?」
「そう。月が一緒だなぁって思ってたの」
「えっと…」
思い出せないんだけど…。
「セクションはどこですか?」
Freshman、略してフレマンと呼ばれる一年生が分けられる英語のセクション。高校のクラスのようなもので、もしかしてその同じセクションか、一緒に授業を受けることがある隣のセクションかと思って聞けば、高月さんがにっと笑う。
「私、Sophomore(ソフォモア 二年)だから。それに初対面」
「えっ?」
「かわいいなって前から気になってたの。友達になってもらえないかな? よろしくね。彩乃ちゃん。あ、私のことは冴子って呼んで」
「えっと…冴子さん?」
押しの強さに負けて、おずおずと呼べば、彼女がちょっと考え込んだ。
「冴子ちゃんって呼んでもらいたいな」
「あ、えっと…冴子ちゃん?」
「ん。いい感じ」
彼女がにこっと笑った。
彼女は人懐っこい人で、授業が一緒になるたびに隣に来て話かけてくる。でも…香水の匂いとかお化粧の匂いとか、嫌いだから…ちょっと苦手なんだけどな。
授業が終わって、友達の千津ちゃんたちと廊下で合流したときに、冴子ちゃんが手を振って歩いていったからわたしも手を振り返したら、友達がみんな変な顔をした。
「今の…、ソフォモアの高月さんでしょ?」
「うん。なんか友達になってって言われたの」
そう伝えると、千津ちゃんが眉を顰める。
「あの人、なんか…、へんな話、聞いたよ?」
一緒に待っていた友達たちも頷いた。
「うん。そうそう。高月さんって、人の彼氏を取るので有名なんだって」
「え?」
「彩乃、気をつけなよ」
そうなのかな。そう言えば…総司さんが迎えに来ると、最近、冴子ちゃんがいることが多いかも…。
千津ちゃんたちと同じ授業を受けて、そして今日も迎えにきている総司さんが待つラウンジに急げば、総司さんは冴子ちゃんと話をしているところだった。
テーブルを挟んでいるけれど、総司さんのほうへ身体を倒すようにして前かがみになって話していて…。なんか嫌な感じがした。
わたしがそこで立ち止まってしまったけれど、総司さんのほうが見つけてくれて、ほっとしたような顔をして、席を立つ。
「じゃ、彩乃が来たからこれで」
そう言って総司さんは、わたしの腕を引っ張って歩きだした。
「そ、総司さん?」
「はぁ~。いや。香水の匂いと化粧品の匂いがまだ慣れなくて。悪い人じゃないと思うけれど、苦手」
思わずくすりと笑ってしまった。
「彩乃?」
「わたしもなの。冴子ちゃん、同じ授業取ってるけど、香水の匂いが…」
わたしたち一族は嗅覚も人間よりは優れている。わたしほどの嗅覚じゃなくても総司さんが同じ反応で、ちょっとほっとして笑ってしまった。
「それに胸元が見える服で、前かがみになられるので、本当に困る。まったくこの時代の女性には、なかなか慣れないな…」
総司さんは困ったように眉を顰めて、ため息をつく。
「そういうの…男の人は嬉しいって…」
思わずもらせば、総司さんがふるふると首を振った。
「私の感覚だと、はしたなく感じる。遊女ならともかく、普通の女性がやるべきではないと思う」
そしてわたしの肩をすっと抱き寄せた。
「二人っきりのときに、彩乃がやってくれるのは大歓迎。でも私以外にはダメ」
耳元で囁かれて、そっと耳たぶを甘噛みされて…。一瞬にして頬に血が上る。
「ダメだよ。ここ、大学の中」
「残念。じゃあ、早く帰りましょう」
総司さんがわたしの手をぐっと握るから、わたしも握り返して、なんか恥ずかしいから思わず照れ隠しで笑ったら、総司さんもそうだったみたい。二人で笑いながら少し急ぎ足で大学を後にした。




