間章 客 その1(1)
------ ユウ視点 ----------
ガチャンッ!
カウンターからグラスが落ち、大きな音を立てて割れた。
「おっと、すまねぇな。ちょっと酔っ払ったみたいだ」
へへへ…とさして酔っているように見えない風情で、ガラの悪い男がこちらを向いて笑う。割られたグラスはこれで何個目だろう…。グラスとてタダではない。
正直、高いグラスは出すのをとっくにやめた。それでもやはり割られれば経費に響く。
そしてサラリーマン風の客が、こっそりと胸の前で両手の人差し指をクロスさせた。お勘定の合図だ。さして飲んでいないけれど、もうこの雰囲気では飲んでいられない…というところだろう。
ビール一杯とお通し分の値段をメモして、客に差し出すとそそくさとお金を支払って、出ていった。店の中はガラの悪い男と二人。
「お客さん。すみませんが、出て行ってもらえませんか」
「もう一杯飲ませてくれたらな」
「もうツケが結構溜まってます。それを払ってくださったらお酒を出しますよ」
そう伝えれば、鋭い眼差しでこっちを睨んでくる。
震えそうになるのを我慢して、睨み返した。
「いい加減、こっちも堪忍袋の緒が切れるところですよ」
大学時代までに剣道と柔道を習っていたから、こんな奴に負ける気はしない。それでもあまり大事にしたくないのもあって、できるだけ穏便に済ませていたが、もう限界だ。
「出ていってくれませんか」
カウンターから出て、隣に立つ。さすがに男も一瞬ひるんだようだった。
「また来る」
そう捨て台詞を残して去っていった。
ふぅ。
大きなため息を吐いてから、ちりとりと箒を持ってきて、割れたグラスの後片付けをした。静かに流しているはずのジャズが大きく耳に響く。
まったくこんなことじゃ、常連客もつきやしない。
カランコロンと音がした。
「いらっしゃい…なんだ。隼人か」
「なんだって言うのは酷いだろ? 一応、客だぞ」
見慣れた友人に肩を落とせば、後ろから華奢な影が現れた。
「こんばんは。ユウの店、見たくて来ちゃった」
「やぁ。いらっしゃい。亜紀ちゃん」
隼人の恋人の亜紀ちゃん。僕らの同級生でもある。高校時代の恋人で、大学に入ってしばらくして別れたのが、また最近付き合いだした。まったく離れたり、くっついたり、忙しいカップルだ。
お好きなところにどうぞ…とカウンターを示せば、二人して顔を見合わせてから、真ん中にくっつくようにして座った。
メニューを渡せば、「何にする?」と二人で話をしている姿が微笑ましい。
「えっと…わたしはホワイトレディにしようかな」
亜紀ちゃんがそう言ったとたんに、隼人がちゃちゃを入れる。
「ユウのカクテルだぞ? 上手いと思うか?」
あまりにも心外な言われように、思わず片方の眉だけあげてみせた。
「昔からかなり腕を磨いてるのを知らないのかい? 絶品だ」
隼人はこちらの言葉に耳を貸さずに、バーボンのストレートを頼んでくる。昔から、この男は自分のスタイルを崩すことはしない。
氷を用意し、シェーカーを振り、カクテルとバーボンを一緒に出したときに、またコロンコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的にそう言って振り返れば、がっしりした男がドアのところで立ち尽くしていた。その雰囲気はどう見てもカタギではない。またか…。
亜紀ちゃんと隼人が息を呑んで、身を固くしているのを感じた。
だがその男は立ち尽くして、こちらの顔を見つめたままで、動こうとはしなかった。そして何かをつぶやいたが、聞き取れなかった。
どこのどいつか分からないが、いつも来ている連中ではなかった。客なのか、嫌がらせなのかも分からない。
「ここは…酒を出すところか?」
ようやく男がつぶやいた言葉が聞こえた。どうやら客だったらしい。
「どうぞ。お好きな場所にお座りください」
ようやく男の足が動いて、ふらふらとカウンターに近寄り、椅子を見つめる。まるでバーの背の高い椅子を見たことが無いような雰囲気で、見て確かめて、しばらくしてから椅子を引いて腰掛けた。
「メニューです」
手渡したメニューに目を通さず、男の視線は壁に釘付けだった。
「近藤…いさみ…?」
そうつぶやく声を聞いて、思わず微笑がもれる。
「残念ながら。ユウって読むんですよ。かの新撰組局長にあやかれればよかったんですけれど」
そう言えば、男の視線に捕らえられた。遠慮なくまじまじと眺めてくるが、それは何かを確認するような視線だった。男の口から声が漏れる。
「かっちゃん…」
思わず目が丸くなった。この男に会ったことがあっただろうか? もしかして小学校時代の友達の一人だろうか? 年齢的にも同じぐらいだ。
隼人も同じことを思ったらしい。亜紀ちゃんの隣から、まじまじと今入ってきた客を眺めた。
歌舞伎役者のようなはっきりした目鼻立ち。がっしりとした体躯。鋭い目つき。
小学生のころのこの客の様子を想像し、自分の中にあるイメージとダブらせようとするが、どれもこれも失敗した。




