第2章 驚きの基準(6)
海さんを見送ってから居住区のほうへ戻れば、彩乃がリビングでテキストやらノートやらを開いて勉強していた。
「あ、お兄ちゃん」
僕がリビングに入ったとたんに、顔をあげて嬉しそうにする。
「わかんないところがあるの」
やっぱり。子供のときから変わらないなぁ。こういうところは。
「大学の授業でしょ? 僕に分かるの? どこ?」
そう言いながら、僕は彩乃の隣に腰を下ろした。久しぶりだな。こんな感じ。
「えっとね。この本を読んで英語でレポートを書くんだけど…訳せなくて…」
「はい?」
見れば、机の上には日本語でまとめたらしいレポートがあって、それを唸りながら彩乃が訳していた訳だ。
「あ~。これはダメだね」
軽く目を通してからそう言ってしまえば、彩乃が驚いたように顔をあげた。
「え? ダメなの?」
「うん。ダメ。残念ながら日本語のレポートと英語のレポートって形態が違うんだよ。習わなかった?」
「えっと…多分…習った?」
「英語は最初に結論を持ってくる。それに対して理由付けをする。日本語の場合は先に理由が来て、だからこうだと結論がくる」
しょぼんとした彩乃の頭を僕は思わずなでた。
「大丈夫だよ。ここまでまとまっていれば、入れ替えるだけだから。それに日本語を訳そうと思わないほうがいいよ」
「そうなの?」
「英語は英語で考えたほうがいい。そのほうが文章は自然になるよ」
「え~。それはお兄ちゃんだからだよ」
思わず苦笑した。
「自分の母語で考えてから訳すと難しい言い回しで言おうとしちゃうんだよ。それをその国の言語で考えるようにすると、自ずと自分で言うことが可能な言い方になる」
これは英語だけに限らず、外国語で話すときには全部そうなんだけどね。
「うーん。例が上手いこと出てこないんだけど…。相手がいつ到着したか尋ねたいとするじゃない。そのときに日本語だと『すみませんが、いつ到着されましたか?』って尋ねたくなるよね」
「うん」
「そうすると、"Excuse me. Could you tell me when did you arive here?" って訳すことになる。でもさ、英語が出なかったらどんどんシンプルしていけばいい。言いたい中心は何かっていうこと。いつ到着したかって聞くだけなら、もっと簡単でもいいんだよ。"When did you arrive here?" でもいいし、到着のariveが出てこなかったから、来るんだから comeでもいい。こうやってまずは思いついたイメージを英語に置き換えてシンプルにして、言える言い方にするんだよ。そのうちに日本語を介さずに考えられるようになるよ」
「それでいいの?」
「英語で考えて、英語で表現するってことが大事だと思うよ。日本の大学で、しかもFresher(1年生)の授業のレポートだったら、そんなに厳密なことは望まれてないよ」
ふっと彩乃が顔を上げた。
「お兄ちゃん、Fresherって言ったよね」
「ん? 言ったよ。1年生のこと。まあ、最初の数週間かな。あとはFirst yearって呼んでた…と思う」
「大学ではみんなFreshmanって呼んでるよ?」
彩乃が首をかしげた。僕は何を言いたいか理解して、微笑んだ。
「それはイギリス英語とアメリカ英語の違いだよ」
Fresherはイギリス英語。Freshmanはアメリカ英語だ。
「えっと…そんなに違うの?」
「実は結構違う。というか、アメリカやイギリスのそれぞれの地域で違うものもあるし。他にもシンガポール英語とか、オーストラリア英語とか、みんな違うところがある」
「え?」
こらこら。幕末でアーニーが喋っていたのは、イギリス英語だろうに。




