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第23章  偽りの契約(2)

「彩乃さん、抱きしめてもいいですか」


「はい」


 小さく彩乃が返事をした後で、衣擦れの音が聞こえる。


「良かった…ようやく逃げないでくれましたね」


「はい…」


 ほっとしたような声の総司に、彩乃の小さな声が続く。


「何度も逃げられていますよね」


 っていうか、殺されかけているしね。覚えてないだけで。


「もう逃げないでくださいね」


 君が進みすぎなきゃ大丈夫でしょ。


「私の腕の中に居てください」


「はい」


 彩乃がぽつりと返事をする。しばらく音の無い状態が続いたあとで、また総司の声が聞こえた。


「彩乃さん、欲が出てきました」


「はい?」


「唇に触れてもいいですか?」


「えっと…」


「私の唇で、あなたの唇に触れてもいいですか?」


 しばらく間が開いた後で、小さく彩乃が返事をするのが聞こえた。軽いリップ音がして、そしてまた静かになる。


 さらにしばらくして、ばさりと衣擦れの音がした。まさかっ。いや、僕がここにいるときにやめてくれ…。そう思ったのは杞憂だった。


「ダメですね。このまましていたら、もっと欲が出てしまいそうです」


「欲ですか?」


「はい。今日はこれ以上、彩乃さんに触れるのは止めておきます。でもいつか…もっと傍に来てくださいね」


「これ以上、傍にですか?」


「そうですよ。もっと傍に、もっと近くに来ることができることを教えてあげますね」


 総司が少しからかうような、色を含んだ声で言うのが聞こえる。総司はとりあえず紳士だった。彩乃はどう返事をしたんだろうか。声は聞こえなかった。


「彩乃さん」


 総司の声と、衣擦れの音に続くリップ音。


「すみません。触れませんっていいながら…嬉しくて。私のことをどう思ってますか」


「どうって…えっと…」


「すみません。ずるいですね。一方的に。でも嫌いじゃないって思っていいですよね?」


「嫌いだったら…こんなに傍にいられません…」


 恥ずかしそうな声で彩乃が答えた。


「嬉しいものですね…。私の命は長くないかもしれないけれど…でも、つかの間でいいです。傍に居てください」


「総司さん…」


「考えておいてください。今はそれだけでいいです。彩乃さんが逃げないで、ここに居るだけで幸せです」


 つかの間の命…。


 総司の病気のことは、まだ誰にも知られていない。池田屋では熱を出して倒れたことになっていた。もちろんこの時代だ。ここに身をおいていたら、病気よりも剣で死ぬ確率のほうが高い。総司はどちらの意味で言ったんだろう。病気だろうか。戦いの中で死ぬことを意識したんだろうか。


 完全に陽が落ちた屋根の上で、僕は「沖田総司」の一生を想った。長命な僕らに比べたら、刹那の彼の命。彩乃は彼の一生に、少しでも色を添えることができるんだろうか。


 そして彩乃はどうなんだろう。先が見えている彼の一生。それでも、きっと一緒にいたいと思うんだろうな…。まあ、僕が決めることじゃないけど。


 もしかしたら…僕はこの時代に彩乃だけを残していくことになったりするんだろうか…そうなったら、僕はどうするだろう。


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