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 獏間探偵事務所は、今日も今日とて静かで平穏そのものだった。

 いや、祈の周りだけが静かで平穏なのだ。

 殴られたり絞められたりした痣が治るまで休暇を言い渡された祈は、だからといってなにかやる気もなく、ぼんやりと事務所の掃除をしていた。


 そのうえ祈に休暇を命じた所長も休みたくなったのか、探偵事務所のドアの前には休業中のプレートが下げられている。結局、祈の休暇は探偵事務所全体の休業に及び、所長は「限定スイーツ!」と叫んで、甘い物狩り……いや、朝から並ばないと買えないケーキを買いに、人気ケーキショップへ勇んで出かけていった。


(…………なんだろうな)


 戦果を期待していてくれ、などと言ってルンルン気分で朝早くから出かけていった獏間。

 甘い物大好きな彼が起こす、突拍子もない行動はこれまでも見てきた。いつもどおりと表現していいはずなのに――おかしい。


(あー……違うな)


 おかしいのは、自分だ。

 いつものようにと思えば、思うほど、言動がぎこちなくなる。

 今いるこの場所に、馴染めない。異物のように感じてしまう。


『――祈じゃない!』


 自分を否定する声が聞こえて、祈はぎくりと身を固くした。

 手にしていた箒が滑り落ちた音で、我に返る。

 これはもうダメだと思って箒を片付けてソファに座ったところで、バターンと勢いよく事務所のドアが開いた。


「ただいまー!」

「……あ、はい」

「テンション低いな、祈! もっと上げていこーよ! ほら、テイク2」

「逆に、なんでアンタそんなにテンション高いんですか」

「限定のケーキが買えたからね! ほらほら~、ふわっふわロールケーキ! その名も天使のおしり!」 

「……しり?」

 

 怪訝な顔で祈が呟けば、獏間は水を差された気分になったのか「ちぇ」と子どものように口をとがらせたあと、呟いた。


「そんな目で見ないでくれよ。僕がこの名前を付けた訳じゃないんだから」

「……食い物に、尻」

「やめてー、真面目なトーンで繰り返すのやめてー。でも……たしかに深く考えれば、誇大広告じゃないか、これ? だってさ、天使の尻を触って確かめた人間なんていないでしょ。いたらいたで、それまた微妙だけど」

「じゃあ、食わないんすか?」

「食べるよ?」


 文句を言いつつ、食べるんじゃないかと祈がため息をつけば、獏間はいそいそと切り分けていた。

 珍しい――てっきり、恵方巻き方式でがっつりかぶりついて食べると思ったのにと、祈は雨でも降りそうな獏間の行動を眺めていた。

 すると突然、獏間はカットしたケーキをフォークで一口分刺して、祈の前に突き出す。


「……?」

「はい、あーん」

「……いや、いらねぇっすよ?」

「あーん」

「……だから、俺は甘い物嫌いなんだっ――むぐぅっ……!?」


 これまでも、食べる食べないのやり取りは何度かあったが、あくまでも社交辞令的――念のための確認作業的なものだった。

 祈がいらないと言えば、獏間はそれ以上しつこくしない。

 当然、いきなり口の中に放り込まれるなんていうこともなかった。


「油断大敵」

「アンタなぁ……、俺はいらないって……!」

「でも、おいしいよね?」

「――は……?」

「甘い物だって、おいしいでしょ?」


 当然、みたいな顔で聞かれて、なんだか祈は怒る自分が馬鹿らしく思えた。

 浮かしかけた腰は再びソファに戻り、脱力する。


「俺、甘い物嫌いなんすけど? なんの嫌がらせっすか」

「いやだなー。きみの偏食を治すための、思いやりだよ」

「……はぁ?」

「だってきみ、今、普通に食べてるじゃないか」

「…………それは――」

「僕、きみがどうして甘い物が嫌いなのか知ってるよ」


 聞き流せない一言に、祈は自分の体がギクリと固まったのが分かった。

 祈の動揺は手に取るように伝わっているだろう――獏間は笑って、向かいのソファに腰を下ろす。


「他人の不幸は蜜の味って言葉があるくらいだ――きみにとって、甘いは不幸の象徴なんだろう」

「……なんすか、それ?」

「甘いカレー」


 それだけで、思い出す。

 舌にまとわりつく、あの、どこまでも甘い――。


「はい、もう一口」

「ぶっ!? ――アンタ、いい加減にっ……!」

「いい加減にするのは、きみだ。祈」


 口についた生クリームを拭いつつ、さすがに横暴だと獏間をにらむ祈だが、獏間は思ったよりもずっと、真面目な顔をしていた。


「いつまでこだわってるんだ」

「……は?」

「縛るものはもう、なにもないのに、きみ自身がきみを縛ってる。僕を家族だなんて言いながら、きみ自身は背を向けてる」

「……別に、俺は……」

「僕といるのは、不幸か?」

「は……?」

「こうして食べるケーキは、不幸の味か?」


 たたみかけられて、祈は戸惑う。

 甘い物が嫌いなのは――そう、獏間の言うとおり、珠緒のカレーが原因だ。

 息苦しいあの頃に食べた、舌に残る、絡みつくような甘さ。


 あれが、嫌いだった。

 でも、珠緒のことは嫌いになりきれなかった。

 好きだなんて一度も言ったことのない甘口カレーを、自分のために作ったんだと笑う彼女を――それでも嫌いになれない、自分自身が嫌いだった。


 だから、かわりのように甘い物を避けた。

 甘いカレーを黙って食べながら、作る珠緒を嫌えずに、好きじゃないと言えない自分を嫌いながら、かわりに甘い物を遠ざけた。

 あの頃は、そうしないと、息苦して息が出来なくなりそうだったから。

 

 それなら、今はどうだろうか?

 今は――。

 

「今は、別に……俺は、不幸なんかじゃ」

「そうか。別にか……。それなら、僕は不幸だよ」

「――え」

「だって、きみは僕に頼ってくれないだろ」

「……たよ、る?」

「もの凄く悩んでいるのは、見ていれば分かるよ。でも、僕が声をかけても、祈は最近同じことしか言わないんだ――大丈夫って。それってさ、まったく大丈夫じゃないよね?」


 茶化すような口調だが、獏間の顔には笑みがない。

 彼は真剣な顔のままで、祈に確認するように続けた。


「僕では、やっぱりきみの家族になりえないかい?」

「――っ」


 不安そうな声だ。

 獏間 綴喜という存在が口に出したとは思えないほど、不安そうで心配そうで……寂しそうな声だった。

 顔を見ていられなくて、祈は俯く。

 どっと冷や汗が出てきて、目がチカチカした。

 それなのに、自分の言いたいことがまとまらない。


「ち、がう――アンタが悪いんじゃない、アンタはなんにも悪くない……全部、俺が……」

「うん。ゆっくり話してごらん」

「俺が――俺は……偽物だって……」

「……そんなことを気にしてたのかい?」


 少しだけ、獏間の声が穏やかになる。


「そんな、ことじゃない……! 死んだって、あの人……祈は――錫蒔 祈の本物は、死んだって。俺は、体を横取りしたんだって……じゃあ――じゃあ、俺はなんなんだよ。俺は……俺は、本当はここにいたらダメな……」

「きみは、きみだろう」


 言われて、祈はぱっと顔を上げた。


「俺は……俺?」

  

 獏間は目が合うと、こくりと頷き笑みを浮かべた。


「僕にとって、祈はきみだけだよ。きみが唯一だ。外野がどれだけ騒ごうが、僕はそう決めた――ここにいて欲しいって、僕が思ったんだ」

「……っ……」

「それだけじゃダメかい?」


 ぽすんと頭に獏間の手が乗る。

 子ども扱いするなと振り払うには、その手はあたたかすぎて祈はされるがままで顔を歪めた。


「僕はきみしか知らない。だから、偽物本物の区分自体がナンセンスだ。だけどね、それできみが不安だと言うのなら、いくらでも言うよ。――僕にとって、本物となり得るのはきみだけだ。錫蒔 祈は、きみしかいらない」


 ともすれば傲慢だ。

 それでも――そんな獏間の言葉だからこそ、祈も真っ正面から素直に受け止められる。


「それじゃダメかい? 僕だけだと足りないかい?」


 祈は泣き顔を伏せて、首を横に振った。

 

「……ダメじゃない――充分です」

「うん。よかった」

 

 ぽんぽん。

 慰めるように動いた手が下ろされて、かと思えば獏間は「本当によかった」と頷いた。


「僕だけだったら不足と言われたら、笹ヶ峰刑事やきみの幼馴染みにも声をかけなきゃいけなかったよ」

「え……?」

「なに不思議そうな顔をしてるんだい、祈。だって、そうだろう? 笹ヶ峰刑事はきみを気に入ってるからまず間違いなく肯定する、幼馴染みの彼女に至っては東京まで乗り込んできそうだよね! だって彼女にとっては誰が本物かなんて言わずもがな、だからね」


 冗談めかしているが「本気だよ?」と付け加えられたので、祈は泣いていた涙も引っ込んだ。


「本当に、綴喜さんで充分っすから……!」

「うんうん、嬉しいよ。家族冥利に尽きる。というわけで、はい」

「……は? ……ケーキ……」

  

 目の前に食べかけのケーキ――先ほど、獏間に無理矢理食べさせられたものの残りが突き出される。

祈が瞬きすれば、獏間も自分の分を手に持っていた。

 

「仕切り直しで、いただこう。だって、記念日は、ケーキを食べるんだろ?」

「改まって食うことっすか……? アンタは常時食べてるし……――そもそも、今日はなんの記念日っすか」

「僕と祈の、家族記念日?」

「疑問形って……思いつきだろ、完全に……」


 ごしごしと目をこすって祈が言えば、獏間は笑った。


「いいんだよ、意味なんて。だって、家族の記念日なんだ。たくさんあるほうが楽しいだろ」

「――」

「違うのかい?」

「……違わない」

「じゃあ、ほら、今日は家族記念日だ」


 決定と楽しげに笑った獏間ががぶりとケーキにかぶりつく。

 それに釣られたように、祈もケーキを食べて――。


「うまい……」

「うん、おいしいね」


 また、じわりと視界が滲んだ。

 あの頃の甘さが、今日の甘さで上書きされていく。


 ――きっともう、甘い物は嫌いじゃない。


 遠く感じていた日常が、戻ってくる。

 感じていた疎外感が、溶けて消える。

 揺らいでいた自分が――ようやく、地に足をつけた。

 獏間が祈にそうされたと言ったように、祈もまた獏間によって、自分自身の存在を確かな形にした。


 誰かのかわりでもなく、誰かの偽物でもない……。

 自分という存在を、手に入れた。


 そう考えれば獏間の言う記念日というのも、あながち間違っていないなと思いながら、祈は初めてケーキを食べて笑った。

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