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手が伸びてくる。
多分、この手につかまれば終わりだ。
平沢は混ざっていると言った。この男は混ざっているのにまだ人間だと。
そして、男は自身を珠緒と同じだと言った。
――珠緒はかつて、取り込んだモノと同化して、より強力で強大な存在になろうとしていた。
この男も同じように取り込んでしまえるのなら、以前見た珠緒と同じような状態ということだが……。
けれど、この男は珠緒の魂を食わせたと言った。そして、珠緒の体を乗っ取ったなにかごと、人体を破裂させた。
「アンタ……取り込むだけじゃなくて、他人に植え付けることもできるのか」
それはつまり、珠緒よりも遙かに色々なことが出来るということだ。
祈の確信めいた言葉に、ぴたりと手が止まる。
「そう。対象は人だけじゃない。――最初に仕掛けた呪い……オカワリサンは、シャレが効いてただろう。アレで死んでくれればよかったのに。かわりだったお前は、最後まで誰かのかわりでしかない、偽物だって痛感できて、最高の死に様だったろうに……キキキッ――残念だ」
空虚な目が祈を見下ろす。
「アレも、アンタが? ……なんで、俺を狙うんだよ」
「本当に分からない? 俺が錫蒔 珠緒を狙った理由を話しても、ピンと来ない? ――キキキ! こりゃ、驚いた。あの馬鹿女の元にいただけあって、本当に馬鹿だなぁ。……よかったな? お前はあの女の所にいたおかげで長生きできたんだ。そうじゃないと、愚かすぎて殺してた。……あの女が悪食に食われてただの人間に成り下がったおかげで、こうして手出しできる機会を得たことに感謝するよ」
「だから、なんなんだよ、アンタは……!」
苛立ちのままに祈が睨めば相手も顔を歪めた。
「黙れよ、錫蒔 珠緒が生み出した化け物め。俺から美琴と息子を奪った、化け物が!」
「……は?」
祈は目を見開く。
美琴――それは、母親の名前。
母親の名前を知っていて、珠緒を恨むような立場にいそうな存在は誰かと考えて……目の前の男が、自分をかわりと蔑んでいたのを思い出した祈は、浮かんだ名前を……あり得ないと思いつつ、口にした。
「アンタ……まさか……――ユキノリさん……?」
男の目が、驚きに見開かれる。
アタリの反応だ。
だが、それだと分からない点もある。
一体、美琴と息子を奪ったというのは、どういうことか――そんなことを、考えている暇はなかった。
「お前が呼ぶな!!」
「――っ!」
驚きに目を見開いた男は、すぐさま憤怒の表情を浮かべ、拳を振り下ろしてきたのだ。
ガツンと頭を殴られた祈は、ぐらりと目眩を覚える。
「兄貴、やめろ! ――っ」
お互いの相性は最悪で、双方良い感情を持っていない鏑だが、目の前で暴力行為があれば見過ごせないのだろう。
しかし、刑事らしい正義感でふたりを引き剥がそうと立ち上がり……鏑の動きが、不自然に止まる。
座り込んでいる皆瀬はもちろん、祈もすぐ横にいる平沢も、まだ誰も動けない。
突然現れた男の空気に、呑まれていた――それだけではない。
平沢が、先ほど珠緒の体を乗っ取っていたモノに対して出来たように、この男もまた祈たちに対して動きを制限するなにかしらをしているのだ。
「どの面下げて、お前が俺の名前を呼ぶ!」
「やめて! そんなに殴ったら、この子死んじゃう……!」
それは、声かもしれないし石やなにか道具をつかったものかもしれない。
あるいは、そんなものすら必要ない、祈もあずかり知らぬ不思議な力――それこそオカルトの領域にあるものかもしれない。
「死ねばいいんだよ、こんな化け物――!」
「……う、ぐっ……」
ただはっきりしているのは、この男が祈に殺意を持っており、この男を止められる人間はこの場に存在しない。この男が……今、祈の首を憤怒の形相で絞めているこの男こそが、場を支配する絶対的な強者だった。
それでも一方的な暴力を傍観しているわけにはいかないと、鏑が自由になる声だけで男に訴えかける。
「兄貴! そいつは、美琴の……美琴と兄貴の息子だろう!」
「違う! 化け物だ! 美琴を殺して、俺の息子を殺して出てきた化け物――錫蒔 珠緒がふたりを生贄として引き換えた、化け物だ!」
「兄貴!」
「俺の息子は! 事故で死んでるんだよ!」
「――は? そんなわけ……」
鏑が困惑の声を上げる。
「嘘じゃないさ。一回、呼吸も心臓も止まってるんだ――そして、目が覚めた子どもは……ハッ、記憶がなかったっていうじゃないか……! たしかに、コレの外側は息子だ。息子の体だ。でも、中身は違う! 違うモノが入ってるんだよ! 何年も何年も、息子の体を化け物に使われていた俺の気持ちが、お前に分かるか!」
だから、この男は――珠緒の体に別のモノを入れたのだ。
だから祈に、呪いを移して殺そうとしたのだ。
自分が奪われたように。
ガワだけそのままに、中身をメチャクチャにして苦しめようとした。
くらくらする頭の中で、ようやく結論に思い至った祈が顔を上げれば、最初の上辺だけ整えた優しげな面差しをかなぐり捨てた、血走った目をした男がいた。伸びてきた手が、一切の加減なく祈の首を締め上げる。
「いい加減、返せ……! これは、あの子の体だ! あの子が生きていくはずだった体だ! あの子と美琴が、生きているべきだった……間違っても、お前と錫蒔 珠緒じゃない!」
〝だから死ね〟
浮かぶ文字がだんだんとぼやけてくる。
意識が遠くなっていく。
(――そうか俺は、違うのか)
真っ白だった記憶。
何年経ってもなにも思い出せないのは、中身が違ったからなのか。
(俺は……)
珠緒の中のモノを否定した自分が、今度は否定される。
こういうのを、因果応報というのだろうか。
(否定されるのは、痛いな……)
誰かの代わりにされるのも苦しいけれど。
存在を否定されることも辛い。
(そうか……だから……みんな、見える俺に寄ってきたんだ……)
これまで見てきた〝悪いモノ〟たちは、みんな――否定しない祈に寄ってきた。
見えて、律儀にそれを相手にしていたからだ。
だから、嬉しくて楽しくて、気づいてもらえたと喜びすぎて暴走した。
だけど今回は。珠緒の中にいたモノは――存在を認識された上で、完膚なきまでに否定された。お前は嫌いだと。一度認識された上で、存在を否定される。
それは、ただ気づかれずにいるよりもずっと、ずっと――。
(ずっと痛いことだな)
でも、祈はさっきと同じ状況に陥ったら、また同じことをするだろう。
だってアレは人を殺してしまった。人を傷つけたのは悪いことだ。それを肯定することは出来ない。
――だったら、お前もそうだろう。
――お前は生まれた瞬間に、ふたり殺しているんだぞ。
どこからか、怨嗟に似た声が聞こえた。
(そうか……だったら……俺は――)
――お前は存在したらいけないんだ。
――人の体を奪った化け物め。
――人の人生を盗んだ化け物め。
――返せ返せ返せ返せ返せ……!
「返せないなら……――死ね」
(俺……は……)
ぐるりと暗闇に落ちていく感覚。
ぞっとするのに体が動かなくて、這い上がることも出来ない。
「お前なんぞ、いらない! 俺の息子じゃない!」
最後は泣き叫ぶような声が、祈の意識を塗りつぶしていき――。
「ああ、そうだ。祈はお前の息子じゃない。――うちの子だ」
あともう少しのところで、ただ落ちていくばかりだった暗い世界に、ぴしりと罅が入った。
「勝手に触っていい相手でもないんだよ、弁えろ」
パリンと割れて、意識が浮上する。
首の圧迫感が消えて、ごほっと咳き込んだ。
途端に新鮮な空気が恋しくなって、咳と呼吸を繰り返す。
そうしていると、背中をさする温かい感覚。
顔を上げれば、困ったような顔で笑っている獏間がいた。
「つ、づき、さん……」
「うん、僕だよ」
「……お、れ……おれ……」
「いいよ、なにも言わないで――ごめんね、置いていって。……よかれと思ってやったつもりだけど……ごめん」
獏間は祈の背中をさすりつつ、いつの間にか床……それも、血だまりの所に転がっている男をにらむ。
「やり方を間違えたみたいだ。……やっぱり、僕は無神経だね」
「アンタ、俺を置いていったの……なんで?」
「うん。鏑刑事にそっくりな彼は、彼の兄だと。それで、きみの遺伝子上の父親だって。……人間的にはそういう相手と因縁の対面ってなると、やっぱり気が滅入るだろう? ――だから、僕なりにきみを巻き込まないようになって考えたんだけど……ごめん」
なんだそれはと祈は笑いたくなった。無神経だと日頃言い過ぎたせいで、今度は余計な気を回すようになってしまったのかと笑い飛ばしてしまいたかった。
だけど、まだ少し苦しくてそれが出来ない。
鼻がツンとするのも、目が熱いのも、全部苦しいからだ。
「……俺は、アンタの助手っすから」
触ればあっという間にどんな情報でも引き出せて、あっという間に解決してしまえるだろう。スーパーヒーローみたいな獏間が、彼らしくない気遣いをしたせいで自分が危機に陥るだなんて――と祈は頭を振る。
しっかりしろ、と己を鼓舞する。
「だから、これからは……ちゃんと、俺のこと、連れてってほしいっす。俺、アンタの足は引っ張らないから……」
声は誤魔化せないくらいに震えた。




