59
はやくしないと。
きてしまう。
あれがきたら、もうまにあわない。
はやく、はやく、はやく。
『――はやく、にげよう!』
差し出された、子どもの手。
その小さな手を掴もうとして……。
「起きろ、祈!」
誰かに呼ばれて、ぱんっと風船が割れたように視界がはじけた。
「――……ん?」
ぱちぱちと目を瞬く。
びゅぅと吹いた風が、髪を踊らせている。
(風……?)
自分は病院にいたはずではと思った祈は、そこで自分が身動きがとれないことに気づいた。体にしっかりとまわされた、二本の腕。
「……あれ?」
「あれじゃないよ、スズ君」
「……獏間さん?」
振り返れば、背後から獏間にがっちりとつかまれていた。
「やあ。おはよう、スズ君」
目が合うと、へにゃっと獏間が笑う。
「とりあえず大丈夫なら、こっちに戻って来ようか?」
こっち、と言われて祈は現状に気付いた。
「え、ええ、なんすか、ここ!」
祈はなぜか、外にいた。
いや、厳密には病院から出てはいない。病院の屋上で、手すりを乗り越えたところに立っていたのだ。
「落ち着いて。騒いだら危ないよ」
「は、はい」
ここでバランスを崩せば、真っ逆さま。そんな状況で、祈は恐る恐る頷く。
体を固定するようにがっちりとまわされていたのは、獏間の腕だった。これ以上先に進ませないためだったのだろう腕が解かれ、祈は早々に柵の中へ戻ってきた。
すると、獏間の後ろにいたらしい笹ヶ峰が青い顔で駆け寄ってくる。
「坊主!」
「あ、笹ヶ峰さん」
「こんのっ、馬鹿野郎!」
「いっって!」
いきなり頭に拳骨をおとされ、祈は頭を抑えてうなった。
「な、なにするんっすか?」
「お前、それはこっちのセリフだ……分かってんのか! 死ぬところだったんだぞ! 自棄起こして、死ぬ気だったのか? あぁ!?」
今度は胸ぐらをつかまれ凄まれた。
正直、笹ヶ峰に凄まれると怖い。
しかし彼の顔には〝心配〟の文字がはっきりくっきりと浮かんでいる。
(どういう状況だよ、これは!)
とにかく、なにかもの凄く心配をかけたことは分かったので、祈は速攻で白旗をあげた。
「なんだかよく分からんねーけど、迷惑かけてすみません!」
半ばやけくそで叫ぶ。すると笹ヶ峰はぎょろりと目を見開き、それからぐっと渋面になり、ぱっと祈の赤くなった病院着を放した。
(……ん? 赤い?)
気になって、祈は自分の病院着を引っ張る。
胸の辺りが特に、赤く汚れている。
「……なんだこれ?」
「なんだって、お前」
祈の独り言を間近で聞いた笹ヶ峰は、驚いたような声で呟き、ぱっと獏間を見た。
「まったく、困ったねぇスズ君」
獏間は、いつも通りうっすらと笑っている。
ただその言葉通り、ほんの少しだけ困っているようにも見えた。
わずかに唇をつり上げたまま、ため息交じりの言葉が吐き出される。
「保護者がいないうち、勝手に目を付けられちゃぁ困るんだよね――スズ君はもう、僕が育てるって決めたのに」
――吐き出された言葉は、なんだか変だった。
「……は? 獏間さん?」
親権で揉めているかのような口ぶりだが、どこか浮き世離れした感のある獏間にはそれがまったく似合わない。聞き間違いでもしたのかと、祈は思わず聞き返すが……。
「だいたい、横入りがよくないよねぇ」
祈の声を無視して、獏間の謎の独り言は続いた。
「おーい、もしもーし?」
「スズ君の教育にも悪いし」
「あ、ダメだこれ。全然聞いてないパターンだ」
ここで、ようやく祈は悟る。
勝手に自分で答えを出して完結される、獏間の中の――人とは違う一面が強く表に出ている状況だ。
以前、自分が河川敷へ行きたくないと拒否したときのように、なにかを感じ取りそれに対して興味を示している……だが、あの時と違うことがひとつ。
「それに――うちの子の生気をこれだけ吐き出させておいて、無事に逃げおおせるなんて思わないでほしいなぁ」
ぺろりと上唇を舐めて呟いた獏間は、うっそりと笑っていた。
唇だけはくっきりとつり上がり、弧を描いている。
けれど細められた目は、ただひたすら冷たくどこかを見ている。
「欠片も残さず、食ってやろうか」
以前と違うところがひとつだけ。
獏間 綴喜は、とても怒っていた。




