56
逃げないと、逃げないと。
アレが来る。
はやく、逃げないと。
目印を追いかけて、逃げないと、追いつかれて――。
――みぃつけた
ああ……
「坊主、目が覚めたか!」
「……」
目を開けた瞬間、視界を占拠したのは強面の男。
祈はしばし思考が働かず、二回、三回と瞬きを繰り返し……それから、ようやく相手の名前を呼んだ。
「笹ヶ峰さん……」
「ああ、そうだ。意識は、はっきりしているみたいだな」
強面の刑事は、少しだけ表情を緩める。
だが、祈は周囲にふと違和感を覚えた。
「……あれ? ここ、どこっすか? どういう状況?」
白い室内に、上から垂れ下がっているカーテン。
自分の腕に刺さっている点滴といつの間にやら着替えさせられた格好を見て、祈は眉間にしわを寄せ呟いた。
「病院……?」
「正解だ」
「なんで、病院にいるんっすか?」
「……坊主、覚えてないか? お前さん、吐血してぶっ倒れたんだが……」
「吐血って……」
心当たりがない。
だが、今自分が着ているのは病院着。
(眼鏡と一悶着あって……それから……? ダメだ。さっぱりだ)
それでも、なんとか思い出そうと考える祈に、笹ヶ峰は「覚えてないならいい」と首を横に振った。
「……悪かった」
それから、神妙な顔をしたかと思うと突然、祈に対して頭を下げた。
「え、いや、なんっすか? 急に謝られても困ります、笹ヶ峰さん」
「こんなことになったのは、全部俺の責任だ。――お前は呪いのせいで血を吐いて、ここに運んだ。この病院は霊障患者を受け入れてくれる、専門の病院なんだ」
「……それって……叔母たちが入ったところ……?」
「いくつか施設があるって前に話しただろう? 安心しろ、どっちとも別の施設だ」
よかった。
そう思ってしまう自分は薄情なのかもしれないが、心の底から祈は思った。
今は叔母とも祖父母とも……もっとも叔母は今、会話もままならない状態らしいが……――それでも、どちらの血縁者とも顔を合わせたくない。
「……すんません、ありがとうございます」
「いや。元より、あちらさんは地方だから。……それより、本当に悪かった」
説明しながらも、笹ヶ峰は再度きっちり九十度で頭を下げた。
年上にここまで丁寧な謝罪を続けられては、気まずい。
「あ、あの、本当にもういいんで、そろそろ頭を上げてもらえないっすか?」
さすがに、いつまでもこのままでいられたら居心地が悪いし話にくい。
だが、笹ヶ峰は血を吐いて倒れたという祈のことを気に病んでいるのか、顔を上げない。
「こうならないために、保護したつもりだったのに……」
悔いるような声。
文字なんて、見なくてもいい。
笹ヶ峰は本心から心配してくれて、そして己の責任だと思っているのだろう。
外からどんな言葉をかけられようが、きっと自分自身が納得出来ないに違いない。
だとすれば、今は自分がなにを言ってもダメだろう――よし、それならばここは……。
「えーと、獏間さんはどこっすか? あ、病院の売店にお菓子でも買いに行ってるんっすかね?」
話題を変えようと明るく言えば、笹ヶ峰はようやく頭を上げた。
だが、その表情は暗い。
「獏間は……」
「獏間さんは?」
「鏑さんを別室に閉じ込めている」
「は?」
閉じ込めているとは……。
なんとまぁ。
それはまた、穏やかではない。
「――あの人、坊主が目を覚ましたらすぐに事情聴取するって聞かないんだ。……本来なら、ここには俺じゃなくて獏間が付き添ってるのが筋なんだが……鏑さんを抑えるのは、俺じゃあ無理だろうってな」
苦虫を噛みつぶしたように笹ヶ峰が呟く。
その顔には、らしくない力のない細い文字で〝当然だろうな……〟という言葉が浮かんでいる。
「あ、えーと……あの鏑って人、笹ヶ峰さんと上司なんすか?」
「先輩だ」
「じゃあ、あの人もオカルト刑事?」
「あ……ぁあ? なんだ、その愉快な名称は?」
頷こうとした笹ヶ峰の声が、柄の悪い威圧のような尻上がりのトーンになる。
愉快というわりに、その眉間にはくっきりとしわが寄り、とてつもなく不愉快そうだ。
「え、だって、笹ヶ峰さんって、獏間さんみたいな変わり種の事件を追う刑事さんなんっすよね?」
「……あの野郎、どういう説明しやがったんだ」
低い声で呟いて、笹ヶ峰はスーツのポケットから名刺ケースを取り出した。
そこから一枚引き抜くと「ほれ」と祈に差し出す。
受け取った名刺をしげしげと眺めた祈は……。
「特殊怪事特別捜査班……うわ、言いにくい……――あ、すんません」
ずらりと並んだ漢字は堅苦しいし読みにくい。
思わず心の声が漏れ出た祈がバツの悪い表情で謝罪すると、笹ヶ峰は「いい」と首を横にふり苦笑する。
「坊主の言うとおりオカルト案件を取り扱うところだが、対外的にはこういう名前になっている。まさか、そのまんまオカルトって名前をぶら下げるわけにはいかないからな。他の連中はトクトクとか、訳の分からねぇ略し方をする奴もいるが」
「なんすか、そのスーパーの特売チラシみたいな言い方……!」
ついでに言えば、ノボリにも大文字で書いてそうだ「本日、トクトクデー!」とかなんとか。
感覚が庶民派とでもいえばいいのか……だが、よりにもよってと、他人事ながら祈が突っ込めば笹ヶ峰も頷いた。
「俺もそう思うが、本人お得感があっていいとか抜かすからな」
「……お得感――なんつーか、不思議な人なんすね……って、まさか……それを言ったのって、あの眼鏡野郎……じゃねぇや。ええと……鏑さん?」
そんなユーモア溢れるタイプには見えなかったが、それは祈との出会い方が被疑者と刑事だったからという可能性もある。もしかしたら、職場では場を明るく和ますような――。
「そういうタイプに見えたか?」
「いや、全然」
「お前、くい気味で即答するな。――だが、合ってる。鏑さんは俺の先輩で、うちのエースともいうべき人なんだが……」
言葉を濁す笹ヶ峰だが、きっと冗談なんか口にしないタイプなんだろうなと祈は想像した。言動も、普段からあんな感じだとすれば……。
「……うっわ~」
それは、ご愁傷様です。
喉まででかけた言葉を慌てて飲み込んだ祈だったが、笹ヶ峰にはしっかり伝わってしまったらしい。
「優秀な人なんだぞ。俺が配属されたときから、ずっとうちの看板背負ってんだからな。……お前はエライ目に遭わされたから、その反応も無理ないが」
先輩のフォローをしつつも、祈の心情にも一定の理解を示してくれる。
強面だがいい人であるこの人は、きっと組織で苦労しているのだろう。今の笹ヶ峰の言動で分かってしまい、祈は「ははは」と愛想笑いで誤魔化す。
これ以上、あの眼鏡のことで愚痴を言っても、間に挟まれて苦労している様子の笹ヶ峰を困らせるだけだ。
鏑のことは腹立たしいが、笹ヶ峰個人のことは嫌いではないため、さすがに気の毒すぎる。
(別の話題、なにか別の話題を……!)
苦肉の策で思いついた話題は――。
「あー、えー……俺、もう元気なんで、退院してもいいっすかね?」
特になにもなかったので、普通に自分の今後の予定を尋ねるだけになった。
正直、祈としてもあの眼鏡こと、鏑と会う前に立ち去りたい。
だが、是非を問う祈への答えは、笹ヶ峰ではなく、その後ろ――病室のドア付近から返ってきた。
「ダメに決まっているでしょう、少年」
それは、どこか気まずい室内の空気を一掃する――さながら清涼剤のような、涼やかな声だった。




